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食能  作者: へーはちろー
2/7

接見開始

2


日本人であるならば、生物(なまもの)を食べる習慣は日常である。私も昨日の昼食時、馴染みの和食屋で活きのいい魚を捌いてもらったばかりだ。

ただしそれは、魚に限定される。獣の生肉を食べることは、日本人にとっては日常の習慣ではない。ましてや、生きた動物に食らいつくなど……。

厚沢慎二23歳。有名国立大学の院生で、哲学専攻。最近生物学のゼミに顔を出していたらしい。ゼミでの一コマだろう、写真の彼からは神経質、粘着気質、シゾイド……などが読み取れたが、反社会性は見られない。今回の事例としては、最近何かと話題に上るサイコパス、反社会性パーソナリティー障害を疑いたいところだが……。

写真と簡単な経歴に目を通しつつ、私は廊下を急いだ。この先の取調室に、彼は居る。私との尋問……いや、面会を待っているのだ。

本日深夜0時05分、巡回中の女性スタッフが、ヒョウの檻で異変に気付く。生臭い血の臭気と、獣の微かな喘鳴。ライトを向けた瞬間、彼女は悲鳴をあげることも忘れ、固まったそうだ。余りの非現実的な光景に、人間の脳はフリーズする。男が、ヒョウの喉元に喰らい付き、血を滴らせながら食べていたのだ。彼女の恐怖は如何ばかりの物だったであろうか。慌てる素振りも見せずに檻から出た男、厚沢は彼女に相対した。その時点で警視庁の機動隊到着。厚沢を包囲。厚沢は彼女に襲い掛かったものの、一瞬硬直、その隙に逮捕となった。

簡単なレクチャーを受けただけだが、とにかく突っ込みどころの多い内容だ。しかし、あの巡査を問い詰めたところで時間の無駄だろう。何しろ当事者が待っているのだから。

薄暗い 廊下の先の、重苦しい扉。警備の警官が2名、緊張した面持ちで起立していた。敬礼とそして返礼。私は厚沢慎二から直接話を聞くため、扉のノブを右手で回した。



こいつは誰だ。

入室して、最初の感想がこれだ。

薄暗いコンクリの個室。無機質なスチールのデスクの向こうに座る男は、先ほど写真で確認した青年、23歳の厚沢慎二とは似ても似つかなかった。ただ、骨格のみが厚沢であることを、辛うじて証明していた。

平静、威嚇、怯え、不安、無気力、反抗……普段私の相対する犯罪者がこの部屋で最初に見せる感情は、おおよそこのどれかだ。しかし目の前に座る男は、自分の両手が手錠で拘束されていることや監禁されていることには一切無頓着、横柄な雰囲気すら見て取れた。言うなれば、静かな圧力。

肌の色つやはいい。目は血走り、睨むでもなく、ただ静かに私の一挙手一投足に据えられていた。弛緩したように微笑する唇は、心なしか赤が強い。これは……下に移動する視線が、奴のTシャツを赤く染める血に行き当たる。そう、拭いきれない獣の血液が、未だ唇を濡らしているのだ。その視線を遮るように挙がる両手が鼻を擦る。そうだ、奴はさっきから鼻を啜っていた。ちらとファイルに目を通すが、血中の薬物反応は陰性。

こいつは何なんだ。

余りに異質な生物を目の前に、私は暫く座ることを失念していた。

「警部 」背後からの呼びかけに、私はやっと自分を取り戻す。「施錠します。緊急の場合はこれを」

警備の警官に扉が施錠され、私は渡されたスイッチをポケットに忍ばせた。これを押せば警官が飛び込んでくる。ただ、こんな物を用意するのは、余程の凶悪犯罪を犯した者と対面するときくらいなものだ。

今がその時なのか……。

器物破損と暴行。この、新聞紙面では3行も費やされずに終わりそうな内容が、この男の醸す雰囲気から重大犯罪に見えてくる。いや、罪の軽重は関係ない。この男は危険だ。この署の誰もが、本能的にそう感じているのだ。

だが、いつまでも突っ立っているばかりではいられない。目の前には、折り畳みのパイプ椅子が。私は意を決し、平静を装い着席した。

咽頭が渇ききり、声が出そうもない。私は気付かれないことを祈りつつ、絞り出した唾液を飲む。そして、懐よりICレコーダーを取り出し、机にそっと置いた。その手に何か触れる。ペットボトルのお茶だ。あまりの緊張に、用意されていたペットボトルさえ見えなくなっていたのだ。

何てことだ。FBI研修でもここまで緊張したことはなかった筈だ。

恥辱と敗北感を振り払い、奴に目を向けた。

「さて……」

「あんたさぁ、ちゃんと三度飯は食ってるかぁ?」

ザラつき、そして粘液質を思わせる奴の声に、私は一瞬固まった。

なんてことだ。最もやってはならないミスを犯した。対象に主導権を握られるなど、あってはならないミスだ。しかし私は、あっさりそれ許してしまった。

慎重に私は顎を引く。

「勿論だ。身体が資本の仕事なんでね」

「いいぞ、いい。食べなきゃな。食べることが基本だ。食べて、食べて、食べ……」

奴は言葉を止め、鼻を啜った。そして血走る目を瞬かせる。

「あんた、何だ?」

それはこっちの台詞だ。内心毒吐きつつ、話を本筋に戻した。

「私は本署の警部、心理分析官だ。君は厚沢慎二に間違いないな」

奴は一瞬惚けたように口を開くも、再びだらしなく笑みに歪む。

「そう、厚沢慎二。うん、厚沢慎二だぁ」

自分自身を確かめるような返答に、腹の底が奇妙に冷える。

「心理何とかがどうしたぁ?俺は拷問されるもんだとばかり思ってたんだぜぇ」

くっくっく、と下品に笑う。

「そんな非合理的なことはしない。どうだろう、少し私と話してみないか……今回の行動について」

少しはゴネるかと思った。しかし奴は手で鼻を擦りつつ、まるでアリスのチェシャ猫のような目をして相厚崩した。

「いいね、いい……。どうせ暇潰しが必要だったんだぁ。あんたらが欲しがってる、真実を話してやるよぉ」

真実。そうだ、真実が知りたくなった。今回の事例の事実ではなく、厚沢慎二という青年が、いかなる理由でこうも変貌したのか。その裏側、真実をだ。

正直に言おう。この時点で私には、器物破損と暴行という、この二つの犯罪行為という倫理的反逆行為の是非を問う思考がなくなっていた。既に奴に呑まれ、奴に弄ばれる獲物となりさがっていたのだ。



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