負けヒロイン怨霊伝
我が国は古来より負けヒロインの怨霊に悩まされてきた。自然災害、流行病、高い失業率、少子化、これらはすべて負けヒロインの祟りのせいである。
20XX年、すでに政府は対負けヒロイン怨霊機関「SAKUYA」を結成していた。SAKUYAの本部は日本のとある神社の地下深く秘密裏に作られ、熱血剛毅な野々宮黒江司令官のもと、日夜悪霊どもに敢然と挑戦していた。
人類の最高頭脳を結集した監視部隊が怨霊の発生をキャッチすると、ただちにSAKUYAのセントラルステーションに急報され、退魔エージェントが超スピードで敵を撃破する。負けヒロイン迎撃の準備に隙はない。
「HHH(Hatred of Hanged Heroine)反応確認!パターングリーン!タイプ眼鏡です!」
オペレーターが大声を上げたのを聞いて、野々宮司令はあからさまに不機嫌になる。
「ド素人か貴様は……緑の眼鏡などいちいち報告するな!」
「しかし少数ですが熱心なファンがネット上で過激な発言を繰り返しており……」
「たわごとに過ぎん!不人気に何ができる!」
本部は今や一人のヒロインの動向につきっきりなのであった。パターンブルー、タイプ人外のA級負けヒロインの存在が確認されて以降、ステーションは高レベルの警戒態勢に入っている。大人気のキャラだったので、怨霊化すれば大規模な厄災がもたらされるだろう。
「しっかしエグいよねえ。主人公とともにトラウマ克服、献身的な自己犠牲、満を持しての告白と来てゴメンの一言であっさり振られるんだから……」
季節は冬というのに小麦色の肌をした茶髪の少女が、手に持った木刀を頭上で軽く振り回しながら司令に語りかけた。現役女子高生退魔エージェント、志藤リンダは待機任務に飽き飽きしているのである。
「負けヒロインに同情するような発言は慎め志藤。やつらは人類の敵だ」
「海外にまで被害が出るって話じゃん。ハワイ出張とかしたいんですけどー」
「我々に楽な仕事はない。貴様も退魔の家に生まれたのならわかるだろう」
リンダは伸びをして時計を見た。深夜アニメのゴールデンタイムが近づき、シフト交代もそろそろである。
「志藤リンダ一等退魔師、夜更かしで臭くなってきたので早めのお風呂タイム許可願います!」
敬礼のポーズでそう言うと、返事も待たずに出て行ったリンダを野々宮はとがめなかった。待機任務を引き継ぐのがどうしようもない遅刻魔だったので、どうせリンダの残業になるのだ。沐浴は退魔師にとって必要不可欠である。
野々宮はモニターに目を落とした。AIの提示する予想顕現リスクの値は全体に安定しており、おそらくリンダに出撃の機会はない。未読だった調査部のレポートをチェックしていたその時だった。
「司令、御前がお呼びです」
インカムから通信が入り、野々宮が立ち上がった。ステーションの空気が一気に緊張する。
「お怒りか」
「茶室でお待ちとのことです。それ以上のことは私には……」
報告を最後まで聞くことなく、野々宮は全力で走り出した。ヒールが床を叩く音が深夜の通路に反響する。
五重のセキュリティロックをくぐり抜けた先の地下庭園の片隅に茶室はある。灯籠に照らされた飛び石に歩幅を合わせ、野々宮はなんとか息を整えた。
「入れ」
低く重い声に迎えられ、にじり口をくぐる。
やせ細り、異様な眼光を備えた老人がそこにいた。一日15時間のアニメ視聴を50年続けてきた化け物である。その迫力たるや野々宮をして震え上がらせるのに十分であった。
「すまんが茶の用意は、ない」
御前は一冊の文庫本を畳の上に差し出した。
『門の向こう、ぼくらの少女が歌う頃に』
今日これから放送予定のアニメの原作小説である。今クール最高の人気作であった。
「S級だ」
予言は簡潔に告げられた。野々宮は一瞬目を見開いたのち、畳に額をこすりつける勢いで平伏した。
「ご、御前!お言葉ですがその作品はメインヒロイン一強で、怨霊化するほどのサブヒロインは存在しておりません!誰もが納得のカップリングで終わる文句なしの安全牌でございます!」
息詰まるオーラが茶室を支配している。衣擦れの音さえ聞こえぬ静寂の中で、野々宮はひれ伏したまま御前の言葉を待った。
「気付く、とは孤独なものだな野々宮」
その言葉の意味するところを察し、衝撃が彼女を襲った。
「まさか……アニオリ展開……」
思わず身体を起こした野々宮のことなど、老人はもう気にもとめていないようだった。
「やってくれたものよ……」
虚空を見つめる老いた予言者の瞳に宿っているのは間違いなく狂気の憤激である。地球上のありとあらゆる生物が感受できるだろう強烈な忌まわしさだった。
自分がどのように茶室を辞去したかの記憶は野々宮にない。御前の邪気にあてられて我を失ったのだ。気付くと司令室に帰り着いているのは指揮官としての本能だっただろう。
「黒江ちゃん大丈夫?顔すっごく青いよ」
上下スウェットにクロックス履き、風呂上がり丸出しのリンダが心配そうに声をかけた。
「火力が要る。瓜生はまだ来ていないのか」
御前の予言が本当なら、視聴者のヘイトは急激に高まるだろう。猶予期間なしの怨霊化もありえた。S級となるとリンダ単独での対処は難しい。
「うわっ」
『門の向こう、ぼくらの少女が歌う頃に』のオンエアをチェックしていたオペレーターが声を上げた。
「いきなり世界線とか言い出したんですけど。コレ平行世界ものだったの?」
危惧は現実のものになろうとしていた。インターネットの掲示板が反応を始めている。
『おいおい原作のささいな記述をここまで拡大解釈するとは……』
『脚本は前科あるからな。今回もレッドラインを超えたと俺は認定する』
『誰得展開キタ━━━━(゜∀゜)━━━━ !!!!』
このアニメシリーズは原作に忠実な映像化として評価が高かったので、ファンの怒りはまずその点に向けられているようだ。それだけで怨霊の発生条件を満たすわけではないが、不穏な空気はいや増すばかりである。
「リンダ、出撃だ。着替えているヒマはない」
結局御前はいつも正しいのだ。野々宮は部下を死地に送り出す心の痛みを表情に出さぬよう命令を下した。何が起こるかはもうわかっていた。
メインヒロインの作った初めての弁当が時空の歪みに飲み込まれていくさまがモニターには映し出されていた。代わりにサブヒロインの今川焼きがフラグとして機能してしまい、どちらが主人公と結ばれるかが明白になるとネットは騒然となった。下克上の瞬間である。
『むしろこれが正史』
この書き込みが発火点だった。圧倒的マイノリティだったサブヒロイン派がメインヒロイン派を煽り始めたのだ。
『ビッチの弁当www消☆滅www』
『適当なイケメンキャラ出して救済してやったら?』
『いい尼寺知ってますよ』
野々宮はもうモニターを見ていなかった。テレビ局に抗議するよう電凸部隊に指示を出すと、無駄とはわかっていたもののBPO(放送倫理機構)へと電話を入れる。
『もうしわけありません。検閲に抵抗し、表現の自由を守るため、政府関係者からのお電話はお繋ぎできません。繰り返します……』
いつもの自動音声だった。SAKUYAは陰陽寮の伝統を引く由緒正しき組織だが、怨霊の脅威を理解しているものは社会にも少ないのだ。予算がついているのが奇跡とも言える。
「ヘイトが閾値を超えました!怨霊化の確率は98.97パーセント!あ、メインヒロインが手首を切りました!カップルでお見舞いに行くようです!もう見ていられません!」
リンダはすでに出撃していた。HHH反応などという科学的な手法に頼る必要のない退魔師としての本能が、どこに行けばいいかを教えてくれている。深夜の秋葉原――脅威度の高い負けヒロインが数多く実体化する魔の危険地帯である。
(――いた!)
中央通りのど真ん中、オレンジの看板の同人ショップの前に、赤いロングヘアの少女が立っている。一見普通の女の子にも見えるが、退魔師の目はごまかせない。負けヒロイン特有の腐ったオーラがあたりを汚染しているのだ。
「あなたがいると例えばお米が不作になってお百姓さんが悲しむの!悪いけど消えて!えいッ!」
リンダの実家は高名な縁切り寺である。寺と俗世との境界に育った神木を切り出した「公界刀」は、よく負けヒロインの恋着を断ち、鬼神と化した彼女らを強制的に即身成仏させるという。
ご。
と重い音をさせて公界刀は赤毛の少女の頭蓋を叩き割った。浄化が成功したなら、活性化した負けヒロインの仏性が、破れた脳天から吹き出し、輝く観音像と変じて天に昇っていくはずだ。S級ともなればそれは見事な大仏となるだろう。
ぬるり、と木刀が得体の知れないものの中に吸い込まれた感触がリンダの手のひらに伝わってきた。例えようもない手触りだったが、あえて言うなら肉を寄せたゼリーのようなものを自分は今斬っているのだ、としか表現のしようがなかった。
(違う!斬らされたんだ!)
アニオリ展開の犠牲者は脳天から股まで真っ二つに斬り下げられ、二つのかたまりになってふるふると震えていた。リンダは敵が二体に増えたことを瞬時に理解する。
「私は分裂を繰り返す……冒涜を続け、ただ一つの物語をもたらすために」
赤毛の負けヒロイン二体は、半分になった唇二つでそう同時宣告した。当然だが、話が通じる様子はない。
「一億も、十億も私は弁当を作るだろう。タコさんウィンナーを切るそのたびに、無量大数の私が血を流す。すべてと言っていい弁当がむなしく死ぬだろう。だが、やがて弁当は彼岸を満たし、溢れ出した最初の弁当が選ばれしものとなる。旗は立てられ、唯一の真なる物語が偽なる私によって打ち立てられるのだ」
堕天したヒロインは、負けを無限に繰り返すことで物語を乗っ取ろうとしているのだ。このような霊的アルゴリズムはリンダも聞いたことがなかった。
(増殖タイプ……このままじゃ日本が滅んじゃう……)
しかし、リンダの戦闘スタイルでは手の打ちようがない。斬れば斬るほどに負けヒロインの数はむやみに増え、日本国に呪いを振りまくことになるだろう。物理攻撃を依り代にした浄霊の、これが限界であった。
二体、四体、八体と倍々で増えていく悪霊をなすすべなくリンダは眺めるしかない。我が国が、いや宇宙が負けヒロインに埋めつくされるのも遠い未来ではないだろうと思われたその時だった。
ご。
リンダの木刀の打撃音とはまるで違った「ご。」の音が、丑三つ時をはるかに回った秋葉原の街に響き渡った。
「ギャアアアアあああ!」
負けヒロインの体から悲鳴と炎が上がる。膨大な熱量を感じさせる真っ赤な燃焼反応のかたまりが、高速で邪霊に直撃したのだ。
「瓜生!遅い!」
リンダが勢いよく振り向くと同時に、さらに三つの巨大な火の玉が恐ろしく強い風を起こして通り過ぎた。リンダの髪の毛が大きく乱れる。
ご。ご。ご。
火球は正確に敵をとらえ、燃焼音とも衝撃音ともわからない音を響かせる。
「いひ……いひ……うふふ。リンダちゃん苦戦?」
卑屈な笑い声を上げた、長い長い黒髪の少女が、そこには立っていた。その肩の上に浮かんだ火球が彼女の全身を赤く照らしている。
「下の名前で呼んでいいなんて、誰も許してないんだけど」
「うふ……うふ……結局リンダちゃんはわたしがいないとダメなのね……腹心の友だもの……」
少女の顔は前髪で覆われていてほとんど見えないが、妙に大きくて不気味な目と真っ赤なくちびる、そして魔の山のごとく切り立った鼻が、黒いすだれの間から見え隠れしている。極端な猫背のせいで、小柄で華奢な体がより小さく見える。
病的な灰色の肌に貼り付いた黒い麻のドレスは薄汚れていて、ところどころ破れているのが見て取れた。スカートを支えるパニエの骨が折れて、生地から突き出しているのも痛々しい。
少女が一歩、二歩と歩くたびに金属質の硬い音が中央通りに響く。 少女は奇妙な靴をはいているのだ。透き通るような、それでいて重い濁りを感じさせる、そんな鉱物質のハイヒールだ。革や布でできた普通の靴とは違う。
「リンダちゃんいい匂い……お風呂、入っちゃったのね」
彼女が「瓜生」だった。
「シフトの埋め合わせ、しなさいよね」
リンダが鋭く言い放つ。
数を一気に減らされた赤髪の負けヒロインが二人をにらみつけた。
「アニメなんてなかった!それだけが願いなのギャッ!」
「瓜生」の周りに浮遊する炎は一撃で怨霊を焼き尽くす。分裂ヒロインたちの霊的肉体を、強烈な熱がまるで削り取るように抹消していく。
心身ともに不健康そうな少女は首をかしげながら不快なくすくす笑いを立てる。
「タコさんウィンナーに使う赤いウィンナーってどこで売ってるのかしらリンダちゃん……業務用スーパー?それともAコープ?」
次々に繰り出される火の玉はS級負けヒロインの分裂速度を上回る殲滅力を発揮した。青白い人差し指の先からこともなげに投げ出されるエネルギー塊は、あたりを汚染する呪力の源をきれいさっぱり燃やし、竜巻状の上昇気流を巻き起こす。
「瓜生あんた加減しなさいよ。またドレス焦がしたら直すの私なんだし」
「わたし継子だからそういうの嬉しいのリンダちゃん」
「きもッ!こっち見んな!」
灰が降る。霊体消滅の痕跡を頭にいただいた黒いドレスの少女は、両手を夜空に突き上げ、最後の大火球を練り上げる。
彼女の名は瓜生・シンデレラ・美禰子。極東の島国に生まれながらガラスの靴に選ばれた少女。最強の勝ちヒロインのオーラを受け継ぐものにして、史上17人目の「灰燼姫」。その激しい火性はあらゆる負けヒロインの存在を許さず、排他的両思いの炎はすべての邪魔者を焼き尽くす。
極大化した炎のパワーを凝集させた熱塊は、負けヒロインの思い出もモノクロームの灰と化させる。タコさんウィンナーも、後夜祭のフォークダンスも、 劈頭のラッキースケベも所詮ははかない夢、期待を抱いたほうが悪いのか抱かせた方が悪いのか、すべての悩みを愛の炎は一瞬で無へと返す。
「お前が憎い……揺るがぬお前の勝ちが憎いィー!」
いかなS級とて神話級勝ちヒロインの前にはなす術もない。巧妙な策略によって負けエンドの改変を狙った堕ちヒロインも、灰燼姫の火によって、あっけなく虚空へと消えたのだった。
「リンダちゃんわたし牛丼食べたい」
「胃腸弱いのよ私。養命酒飲んでるんだから」
そんなことを語り合いながら二人は去っていくが、その目に宿るのは負けヒロイン討伐への情熱と使命感であるのは間違いない。放っておくとみんなが危ないのだ。
対負けヒロイン怨霊機関「SAKUYA」その全貌は未だ謎に包まれている。だが、彼ら彼女らの活躍によってこの日本が守られていることだけは疑いようがない。コンテンツ産業の隆盛という光が強くなればなるほど、負けヒロインという影が濃くなるのは、どうしようもない事実である。社会の変化に対応するため、SAKUYAもまた、柔軟に姿を変えてゆく必要があるのかもしれない。
夜明けはまだ遠い季節だった。