1章 第3 焦燥
朝目が覚めると、隆彦は真っ先にズボンのポケットの中を確認してみた。寝起きで頭がぼぉっとしていたこともあったが、夢から覚めたてであれば、もしかしたらまだ、夢と現実が繋がっているかもしれなかった。架け橋が完全には途切れておらず、夢が橋の向こうに消え去っていく最後の瞬間に手を伸ばせば、夢の名残りを掴めるかもしれなかった。そう思い、ポケットに〈魔法の杖〉が入っていないかを調べたのだった。しかし、夢の痕跡はどこにもなかった。はっきりとそう認識した今、ようやく隆彦は新たな一日をスタートしたのだった。
『畜生、あの〈魔法の杖〉を裕子に見せることができたら…何も言わず、ポケットからあの車のワイパーを取り出し、裕子に差し出したなら、彼女は何もかも悟っただろうに。間違っても「これ、一体どうしたの?光井さん、大丈夫?」なんて聞き返したりはしないだろうに』
〈魔法の杖〉を失った隆彦は、しかし、夢の中の忌々しい出来事を思い出すと、胸の中で激しい気持ちが煮えたぎるのを感じるのだった。一体何に対する、誰に対する気持ちなのかすら分からないこの焦燥。この唯一の夢の痕跡は、隆彦を過酷な想念に駆り立てるのであった。
――間違いなくあれは夢である。睡眠中の脳が作り出したくだらない幻想に過ぎない。何か悪い予兆なのか?いや、そんなことはあるまい。単に脳が現実世界における不安や懸念を夢の形に現したに過ぎないのだ。あの忌まわしい出来事は、脳の勝手な作り話なのだ。現実とは無関係なのだ。
――でも、かりにそうだとしても、現実にも有り得る事態ではないか?裕子だって人間である。学校や予備校にも通う高校生である。他の人間と接触しないことの方が考えにくいではないか。もしかすると、今この瞬間も誰かと連れ添って絵画展か何かに行っているかもしれないのだ。
――いやいや、ちょっと待つんだ、隆彦。そもそもお前は何を焦っているのだ。裕子が誰とどこへ行こうと関係ないではないか。彼女は断じてお前の所有物などではない。お前に彼女を専有する権利などないのだ。
――彼女を支配したり独占したりする願望などは微塵もない。裕子はそんな物的欲望の対象では決してない。いやありえない。それは彼女を低俗で醜悪な生き物に変えるに等しい冒涜行為である――
案の定朝食は喉を通らなかった。まるで隆彦の喉は体の外に存在しているようだった。口に入れたトーストは、喉の部分に至るや否や、体の外のどこかへぐしゃぐしゃになってワープした。コーヒーを飲んでも、香りだけが鼻の奥と舌の上にしつこく残り、肝心の茶色い液体はカップから徒に消え去るだけだった。
そして、この不可思議な感覚に気が付くと同時に、それが例の夢のせいであることが認識されてくる。その夢の内容を反芻してみると、また無性にむかむかとしてくるのだった。
隆彦はここでようやく我に返った。そうだ。裕子に直接確認するほかない。もっとも、唐突に「最近誰かと出かけたこと、ある?」などと切り出すのはあまりにも不自然である。やはり、「ちょっと聞いてくれよ。笑うなよ。実はこんな夢を見たんだ。佐倉が夢に出てきたんだけど、なんと佐倉と誰かが一緒に空に消えて行ったんだぜ。それで…」という具合に切り出すのがよい。話の重点を「裕子と誰かが一緒に」空を飛んで行ったことではなく、裕子と誰かが一緒に「空を飛んで行ったこと」に置き、非現実的な内容を面白く伝えればよいのだ。そこで裕子のリアクションを確かめる。一瞬の表情や仕草全てからシグナルを読み取らなければならない。失敗は許されない正真正銘のハードタスクである。
隆彦はまたしても想像するのだった――
二人掛けのテーブルで裕子と向かい合うようにして座っていた。隆彦が夢のくだりを話し始めると裕子はテーブルに身を乗り出すようにして耳を傾けた。裕子は氷が解けて少し薄くなったストレートティーをなおもストローでかき混ぜながら飲んでいたが、その手も休めた。
「ちょっと待ってよ、光井さんがドライバーを引きずり出したの?それで車を紙屑みたいに丸めたの?まぁ確かに火事場の馬鹿力って言うしね。人間、危機に陥ると物凄い力を発揮するんだし、光井さんも例外じゃないってことね。面白いね、私とその誰かが空を飛んで行くのが光井さんにとっては危機だったんだね。でもそれじゃあ何で助けてくれなかったの?光井さん、夢の中でもチキンなんだ!」
目を丸くして笑う裕子を見ると、隆彦はついつい喋ってしまう。裕子のこの表情を見るためには、話し続けるしかない。無意識にそう思ったのだろう。
「失礼だな佐倉は。言いようのない怒りが体に満ちていて、ああいう光景を目にした途端、脊髄反射的に体が動くんだ。それに助けるっていったって、佐倉はその謎の男にぴったりくっついて行ったんだぞ。無理やり連れて行かれたって具合じゃなかったな。だから助けるもなにも。それにしても、〈魔法の杖〉を佐倉に見せたかったよ。ワイパーを拾ってちゃっかり名前まで付けて。噴飯ものだよな、一連の行動全てが」
さあ、目を丸くして笑ってくれ。そういう祈りを込めて喋っていた。そしてあわよくば、隆彦の求めている反応を示してくれ。
「私、光井さんにそんな奇怪な行動をする勇気があるなんて思えない。光井さん、それってもしかしてジェラシーなの?そうか怒り狂っちゃったんだ!だから前後見境なく暴力的に…そうそう、でも車のスクラップはちゃんと分別したんだよね。真面目だなぁ」
そうだ、そこに気付いて欲しかったんだ、都合のいい方向に話が進んだぞ。と思いきや、何だ、裕子のこの表情は。モナリザの絵のように口角の上がり具合が右と左で違う、中途半端な表情は。なぜ話をそこに反らしたんだ。『だめだよ、そっちの道に行っちゃあ。そっちには行かないで。後々の対処に困るからさ』とでもいうような牽制の目つき。苦笑いするときの頬の筋肉の微かな痙攣。隆彦はここから全てを悟らざるを得なかった――