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1章 第2 悪魔

裕子と別れて自宅に帰った隆彦は、大学のゼミの準備に取りかかるため、パソコンを立ち上げテキストを机上に広げた。

作業を開始すれば集中力を発揮する隆彦は、いつも開始するまでに一苦労した。今日もその例外ではなかった。鞄の中から読みかけの『復活』を取り出し、ベッド替わりにしているソファにうつ伏せに寝転んで読み出した。

陰鬱なイメージしかないロシア文学だったが、読み始めると案外スラスラと読めるのであった。途中、裁判手続のシーンがある。本来厳かな雰囲気で描写されるはずが、この物語の中では面白おかしく描かれているのであった。隆彦は、あるべき裁判手続とあまりにかけ離れた描写に誇張を読み取りながらも、明快な作者の批判的思想に思わず頷くのであった。

ゼミで隆彦が扱うテーマは、奇しくも刑事裁判手続と憲法的保障についてであった。ゼミの発表までまだ1週間ある。今日はロシアの裁判手続について学んだのだから、もう十分ではないか。それに、ゼミのテーマとも密接に関連している。何も後ろめたいことなどない。さぁ、パソコンの電源を切り分厚いテキストを閉じるのだ。天使の皮を被った悪魔が、隆彦の内奥で、毒々しい色のワインを注いだグラス片手にカウチにふんぞり返ってせせら笑っていた。

隆彦は、『復活』を100ページほど読むと、抵抗する素振りすら見せず心の中の黒い声に従った。復活を試みる作中の主人公と堕落に突き進んだ自分とが、時と場所を越えて相まみえたこの瞬間。隆彦は、タイムマシンが故障して時空の硲に漂流するときの感覚は、きっとこんな感じだろうと夢想した。


隆彦は夕飯を済ませると、ビールを買いにコンビニへ向かった。毎週、頑張った自分への褒美としてビールを一缶飲んでから床に就くのが隆彦の習慣となっていた。

そして何よりも喜ばしいひとときは、程よく酒が回り、就寝のために電気を消し、暗くなったところで裕子からのメールが来るときである。暗闇の中、携帯電話のバイブレータ音とともに受信を知らせる青いライトが断続的に光る。控え目な光が閃くと、青い光に照らされた黒いボディーの携帯電話は闇の中に浮かび上がっては残像を見せて消える。その幻影を見せるために、裕子は存在していた。裕子は幻術師であった。しかし、この妖しい幻について、隆彦はまだ裕子に話していなかった。彼女からこの神秘の力が失われると思ったからである。


朝から雨がしっとりと降っていた。一晩中開けていた窓の外で、常緑樹の光沢した分厚い葉が雨に打たれ、さめざめと泣いているようであった。

『雨か。涼しいし軽く散歩でもするか』

駅の近くまで来たとき、改札口前のコンクリートの柱の陰に裕子が雨宿りをしているのが見えた。いつもは比較的大人しい色合いの服を着る裕子であったが、今日は心なしかおめかししているように見えた。

すると、裕子の背後から見慣れぬ男が現れた。男の顔は見えない。しかし身なりからして裕子と同い年くらいだろうか。男は裕子に近づいて声をかけた。男と裕子は一言二言かわすと、二人は紙一枚挟めるか挟めないかというほどに寄り添って歩き出した。そして、羽もないのに、そのまま空へと飛んで消えて行った。

この様子を目撃した隆彦は、近くを通りかかった車を強引に停車させた。車内からドライバーを引きずり出し道路脇に投げ飛ばすと、ドライバーの乗っていた車を手でクシャクシャに丸めて小さくした。そしてコンビニ前のゴミ箱の〈ビン・缶〉の所へ無造作に放り込んだ。ドライバーはどこかへ消えて居なくなっていた。隆彦は、先ほど丸め損ねた1本のワイパーを拾い上げると、それに〈魔法の杖〉と名付け、折り畳んでポケットに大切にしまい込んだ――




時計を見ると、待ち合わせの時間まであと7、8分だった。裕子は他人を待たせることが嫌いであったから、いつも約束の時間の10分前の更に10分前には約束場所に来るのだった。こうして人を待つ時間は、通い慣れた場所を見知らぬ土地に一変させる。そろそろ来はしまいかと腕時計を見やり、キョロキョロと左右を見渡す。バッグを右肩から左肩へと掛け替える。裕子は自分の姿が、まるで初めてやって来て道に迷っている人であるかのように他人の目に映っていると感じた。そしてそう意識すればするほどますます落ち着きを失っていくのだった。

すると携帯電話にメールの連絡が入ってきた。山川からである。

『ちょっと遅れるわ。悪い。近くのカフェにでも入って待ってて』

山川はこの手の人間であった。連絡さえすれば遅れても許してもらえるはずだ。だって、遅れるときは必ず連絡を入れなさいと学校で注意されるじゃないか――自分の理屈は普遍的な正しさを持ち全てを一刀両断できる考え、それをチャンバラのように振り回す。その動作たるや、かの宮本武蔵も怖じ気づく迫力であった。しかし、その刀は何物も捉えることがなく、何物も斬り掠めることがなかった。なぜなら、カッターナイフのような刃さえついていなかったから。

裕子は決して今日という日を後悔していなかった。むしろ楽しみにしていた。このイベントが執り行われたことが隆彦の耳に入ったとき、彼はどんなリアクションをするだろうか。彼は裕子が課すこの苦難をどう乗り越え、けじめをつけるのだろうか。少なくとも、理性を失い、周囲に迷惑をかけるように暴れ散らすことはないだろう。

『光井さんを不快な気分にさせることができた暁には、さて彼にどんな言葉をかけようか。いきり立つ光井さんを宥めすかす言葉…そんなのあるかな?怒り狂う光井さん…何だかかわいらしい画だな』

カフェの席に腰掛け、テーブルに頬杖をついてしばらく愉快な思惟に耽っていると、待ち合わせの時間に遅れること20分、ようやく山川が店内にやって来た。

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