1章 第2 悪魔
裕子は家に着き、玄関のドアを開けた。足元には、黒のローファーが爪先を向き合わせるようにして無造作に脱ぎ捨てられている。今日は弟の塾が休みの日なのだろう。
玄関で靴を脱いで廊下に上がった裕子は、台所で夕飯の支度をしているであろう母親に向かって、色で言えばオレンジ色のような声で「ただいま!」などと言ったりはしない。裕子は、こんな、つまらない児童向けの小説に出てくるような仲睦まじい家庭を模倣するのが嫌いであった。
裕子は高校生らしく、自分の部屋へ直行し、パタリとドアを閉めた。バッグをベッドの片隅に置くと、髪をくくっていたヘアゴムを外し左手首にかけた。手櫛でワシャワシャと大雑把に髪を解きほぐし、ベッドに仰向けに倒れ込んでふぅと大きく一息ついた。ベッドに倒れ込んだ拍子にバッグが床にぼとりと落ちたが、気にしなかった。
すると、バッグの中の携帯電話のバイブレータが1回鳴り、床もろとも振動させた。メール受信時の振動時間は1秒に設定しているから、メールが来たことは分かったが、先の携帯が床を振動させる音が裕子には妙に不快に感じられた。『きっと光井さんからじゃないな、これ』
裕子はそう思いながらも、ベッドから身を起こすと、ひょっとしたらという僅かな期待を持って携帯を確認した。ちっぽけな期待はこの1通のメールによって見事に裏切られた。メールは、予備校の同じクラスの山川修からであった。
『突然悪い。今フェルメールの絵画展やってるらしいんだけど、授業前にちょこっと見に行かないか。西欧の文学史の勉強になるだろ。裕子って世界史選択だったよな』
フェルメール?裕子は訝しく思った。フェルメールの絵画展と山川ほど対極に位置するものはなかった。山川は、絵画に造詣など深くなかった。絵を見つめても、絵は山川を見つめ返すことはなかった。絵は山川に対して何も語りかけなかった。山川は、自分の存在を確かにしてくれると考えるものにしか興味を示さなかった。山川が見たいのは、フェルメールの絵画などではなかった。
裕子は、山川からのメールを何度か読み返し、そこから山川の哀れな姿を想像した。
――彼は自宅のパソコンの前に座り、フェルメール展公式サイトを開きいている。誰が見ているのでもないのに、長くなって目にかかってきた前髪を左手で左右にかき分け、髪のトップのボリュームを確かめた。右手で携帯を操作し、裕子へのメールを作成する。アドレス帳からではなく、受信ボックスのメールから。そうしようと思ったわけではないものの、自然な流れで裕子からの一番最近のメールを読み返す。今回の誘いとは全く別の脈絡のそのメールに、裕子からのシグナルを、今回の誘いを承諾するであろうことを裏付ける暗示を見出すため――
裕子のこの種の想像は、現実の山川修の姿をも違ったものに見せるのだった。彼女は、自分の見たいように世界を作り変えるのであった。世界は自分の考え方によって、アメーバのように変化させ操ることができる。世の中の因果など、彼女の思いのままであった。世界の登場人物である山川もその例外ではなかった。裕子の瞬間的夢想によって、山川修は惨めな男という定義を与えられてしまったのだった。
裕子は、この惨めな男にどういう返事をするか考えあぐねた。いつもの癖で、唇を内にして口を閉じ、携帯を持たない方の左手の親指と人差し指で、口角を上げるマッサージをした。そして、そのまま10分ほど考え続けた。ようやく文面のアイデアが頭をかすめたというとき、すでに裕子の指は文章を打ち始めていた。
『私、フェルメールの絵が凄く好きでいつか見たいと思ってた。めったに地元で開催されない絵画展だし、行きたいな。いつがいい?私、授業以外にとくに予定はないからいつでもいいよ』
裕子は打ち終わると、見直すこともなく送信ボタンを押した。裕子は、想像の力で哀れな男に姿を変えてしまった山川に対して、こう返信したのだった。フェルメールの絵画を楽しむ時間の価値と山川と過ごす時間の価値を足してもマイナスにしかならないのは目に見えていたにもかかわらず、さらに悪いことに山川にあらぬ誤解をさせることになると分かっていたにもかかわらず。ひょっとしたら山川は、メールを受け取るや否や今すぐ新しい服やバッグやシューズを買いに出かけるかもしれなかった。
裕子はそんな空想を頭の隅に追いやると、先刻の隆彦との会話に思いを馳せた。
『光井さんの考えによれば、これって不合理な選択なんだろう。ひょっとしたら、光井さんは私のことを嫌うかもしれない。彼にとって、不合理な選択をする人との付き合いは選択しないのが合理的なはずだから。でも私は敢えてこの不合理な、人生の価値を損ねる選択肢に飛び込んだ。そして光井さんが私のことを嫌がるきっかけを自ら作り、彼に過酷な試練を与えた。何故だか、彼の悩み苦しむ姿を見たい気がしてきたんだ。彼ならば、1の不幸な出来事を知れば10になるまで想像を膨らませるはず。彼は物凄く苦しむだろうな。きっと勉強にも手がつかないほど、そして眠ることもできないほどあれこれ想像を巡らせて不幸な深淵に落ちていくんだろうな。こんなことをする私って、もしかして、悪魔なんだろうか』
裕子は、無人で、色もなければ臭いもない、現実と空想の硲にある無意味な白黒の世界に独り佇んでいた。