1章 第1 粗描
日がとっぷりと暮れ、外の建物や車がライトの光を灯し始めた。隆彦と裕子は駅前にあるカフェでお茶をしていたが、裕子が空になり氷だけになったグラスを持ってカラカラと揺すりながら窓から外の様子を眺めたので、そろそろ時間かと名残惜しく思いながらも、隆彦は「じゃあ、行こうか」と裕子に提案した。
二人は会計を済ませ、駅へと向かって歩き出した。夏が終わり、昼間も過ごし易い気温になると、この時間帯はやや肌寒く感じるほどであった。空には雲一つなく、西には細い月が見えていた。
「佐倉、今日は付き合ってくれてありがとう。積もる話も多くて本当はもっと話していたいんだけど。また誘ってもいいかな、今日みたいに」
隆彦は、裕子の左側を歩き、右に裕子の顔を見ながら訊いた。これは、肯定の返事が返ってくることを前提にした確認的な問いかけであった。隆彦は、裕子が「いいよ」と答えると信じていたため、強気の姿勢でこう問いかけたのだった。弱気に出てはならない。たとえ同じ台詞でも、裕子は他人の声のトーンに自信の有り無しをはっきりと読み取ることができるからだ。裕子に対して弱気な姿を見せてはならない。裕子は弱い人間が嫌いだ。と隆彦は無邪気にも自分に都合の良いように勝手な想像をしていた。
「もちろんいいよ。私らって話題が尽きないもんね。私ももっと話したいことがあるし。でも光井さん、忙しくなるでしょ?次会うのいつになるかな」
裕子は隆彦の方に顔を向けながら言った。裕子は疑問文を使いながらも、相手に答えを求めはしなかった。答えは、問いの前にすでに裕子の中で確定していた。この、形だけの問いかけには何の意味があるのか。裕子はいまだかつて考えたことがなかった。ただ、緊張しているときにはついついこの形式的な疑問文を発してしまうのだった。裕子と隆彦はいつ会うのか。それは隆彦が提案した日であった。
「忙しいっていっても、お茶する時間なら作れるよ。佐倉の都合に合わせるつもりなんだけどね。勉強なんて一人でいつでもできるんだ。でも佐倉との会話は佐倉と会ったときにしかできない。どちらに価値があるか、言うまでもないだろう。僕は合理的な人間だから価値のある方を選択するよ」
隆彦は自分の行動規範を持っていた。それは、ある場面で何かの選択に迫られたなら、人生においてどちらにより価値があるかを判断し、合理的な選択をすることであった。客観的な価値を考える。それ以外の要素は考慮しない。人生の価値は、死ぬときまでにどれだけ価値のある選択をしてきたかで決まる。隆彦はそう信じていた。時折耳にするであろう、「家族なんだからこうすべき」「友達なんだからああすべき」――隆彦はこういう選択の仕方を最も嫌うのである。
「じゃあまた連絡するね、私の予定。光井さんの予定も教えてくれる?参考にするから。ただ、これまでのペースからすれば、次に会うのは来月になるかな。あんまり頻繁に会うのってつまらないよね。そう思わない?私はつまらないと思う。だって、間隔が短いと積もる話も積もらないでしょ」
裕子は、隆彦が理屈っぽいことを言ったのことに対抗するように、思い付いたことを一気に言い切った。裕子は考えた瞬間にはもう言葉が口を突いて出てくるのであった。裕子はこの癖のせいでこれまで幾たびも後悔してきたのに、と自分を情けなく感じたのであった。
二人は駅の改札口まで来ていた。裕子は右肩にバッグを掛け両手を後ろで軽く組んだ格好で、改札機の上の電光掲示板を見上げた。『なんだ。次の電車は1分もしないうちに来るのか。もう一本後にしようかな』裕子は、首は見上げる姿勢のまま、目線だけは右下にやっていた。
隆彦は、裕子の少し後ろで掲示板を確認してから、上の方を眺めたままの裕子の背中を見ていた。そして、この後の瞬間がどうなるのかを想像した。もちろん自分の都合の良いように。
――裕子は後ろを振り返り、隆彦のもとへ歩み寄ることなく、小さく手を振って言った。
「光井さん、じゃあまたね」
隆彦もこれに応じて、軽く頷いてから手を小さく挙げた。
「気をつけて」
柔らかい笑顔で、ちょこんと添えるようにして声をかけた。そして裕子は入ってきた電車に駆け込むようにして乗車し、混雑した電車とともに去っていった。
裕子に伝わっただろうか。この「気をつけて」に込められた隆彦の気持ちが。この言葉には何の意味もなく、隆彦の心は全く別のものであることが。
すると間もなく、隆彦の電話に1件のメールが来た。驚くことはない。もちろんそれは裕子からであった。『今日はもっと話したかったね。そういえば光井さん、話したいことがあったんじゃなかったっけ。もしかして忘れてた?光井さん、もう年だね。冗談です。怒るなよ! 今日はありがとうございました。』
裕子からのメールの文面を見て、隆彦はホッとしたのだった。気を許しているからこそ冗談を言ってくるのだ。裕子は少なからず好意を抱いてくれているのだ。隆彦は自分に自信が満ち満ちてくるのを感じた。そして、今日のお茶のひとときが、何か幸せな将来を暗示する重要な出来事であるかのように思えてきたのだった――
空想家のプロと言っても過言ではない隆彦は、裕子の後ろ姿を見ながら、この刹那にこんなことを考えていたのであった。現実はそう上手く行くはずがない、現実はもっと無味乾燥なのだと誰もが警告したくなるほど楽天的な空想をするのが、隆彦の癖である。隆彦は現実世界と同じように空想世界にも生きていた。しかし、隆彦は不思議な運に恵まれた。まるで空想世界に現実世界を引きつけるような力が隆彦には備わっているかのようであった。
「光井さん、私一本後の電車に乗ります。お茶の時間だけじゃ何だか物足りないしね」
裕子は隆彦のもとへ歩み寄ると、そう言って肩に掛けたバッグを漁り始めた。バッグの中からビニール袋のカシャカシャという音が聞こえてくる。裕子はビニール袋に包まれた何かを取り出すと、慇懃にそれを隆彦に差し出した。
「何?これ。まさか、このゴミ、私の代わりに捨てといて、とか言うんじゃないだろうな。ゴミ箱なら駅のホームにあるだろう。ホラさっさと改札機の向こうに行きなさい」
隆彦は、そんなことは微塵も思っていないというようなおどけた調子でこう言った。その証拠に、隆彦の右手は、大切な物を受け取るようにして差し出されていた。
「はい、これ。食べるつもりで買って結局食べずに消費期限が切れたパン。嘘。今日ここへ来る前に作ったお菓子。カフェで一緒に食べようと思ってたんだけど、光井さんが格好つけてケーキなんか注文しちゃったから。貧乏学生は手作りのお菓子で十分でしょ」
「ごめんごめん。まさか佐倉にお菓子を作る能力があるとは思ってなかったから。でもありがたく頂くよ」
こんなやり取りを交わしていると、あっという間に5分、10分が経つのであった。隆彦は、裕子の顔の左側を見た。人の気持ちは、顔の左に表れるらしいからだ。裕子の左目は笑っていた。そして、隆彦は、裕子が隆彦と少しでも長くしゃべっていたいと思ってくれたことを喜んだ。
駅に裕子が乗る列車が入ってきた。二人はお互いに手を小さく挙げ、無言で「じゃあね」と挨拶した。裕子は、列車のドアが開き乗車すると、隆彦に背を向けて横長の座席の真ん中辺りに座った。列車が動き出しても裕子は後ろに振り返らなかった。そして、隆彦もまた裕子を見送らなかった。列車がスピードを上げて駅を出て行く音が聞こえる。その音は、糸を引いたようにして隆彦の耳に残った。隆彦は裕子にもらった手製のお菓子を鞄に丁寧に入れた。そして、駅に背を向け、駅に向かう人たちで溢れる細い道を足取り軽く歩き出した。