いざ、舞台の上(2)
「あの……自分だけで歩けます」
「バレリーナが足を痛めては大変でしょう」
習い事教えなきゃよかったかな、とか、これからもっと怪我しそうなことに首突っ込んでるのに、とか。言いたいことはいろいろあったが、礼良は結局大人しく従った。
「もう少し歩きますよ」
もう少し、と彼は言うが。家、というか屋敷は見えているのだが、そこまでが何だか遠い。礼良が通っている学校の校庭よりも大きい気がするのだが、気のせいだろうか。
都心の学校は校庭がせまいからなぁ、と、ここでひとつ現実逃避をしたくなる。そういう問題ではない。
「あの、いつもここを歩いて外に出るんですか?」
薔薇や色とりどりの花で彩られた道を歩きながら、礼良はぽつりと尋ねる。
「そうですね。使用人が車で駅に送ってくれようとはするんですが、なるべく歩きたいので」
甘やかすなと父にも言われているはずなんですがね、と笑う親晃があまりに普通にしているから、「使用人さんがいるんですか……」とは聞けなかった。
こんなに大きい家なら、ハウスキーパーに庭師だっていた方がいいのだろうけれど。
別世界である。誰に自慢するわけでもないが、礼良の父親だって、娘にバレエを習わせて持ち家に住めるくらいは頑張ってくれている。けれど、これはもはや土俵が別だ。
「着きましたよ」
少しして足を止めた親晃に、つられて礼良も止まった。礼良がどことなく緊張しているのが分かったのか、親晃はにこりと笑ってみせてからインターホンを押した。
「親晃です。帰りました」
自分のおうちなのに、インターホンを押すんだ……と、鍵っ子の礼良はいたたまれなくなる。と、その瞬間、鍵の開く音がした。そして、親晃がドアノブに手を掛けることなく、両開きの大きな扉が開く。
「お帰りなさいませ。親晃さま」
瞬間、目の前に広がった光景に、礼良は絶句する。黒を基調とした服を身にまとった数人の男女が、綺麗に一礼していた。別世界を垣間見てしまったショックは大きい。
「……別に、総出で出迎えなくてもいいと言ったではないですか」
「本家の御子息がお帰りになったとあれば、当たり前でございますので」
礼良さんが驚いているでしょう、という苦笑交じりの言葉に、礼良ははっと我に返った。
「え、えと、お邪魔しますっ」
挨拶をしていないことに今さらながら気づき、わたわたと声を押し出す。
「長礼良さまですね、親晃さまから伺っております。宇陀の御使命にご協力なさると……」
尊い御決意でございます、と礼服の男性に頭を下げられ、礼良はどうしていいかわからなくなる。
「僕は反対です」
対して、親晃のスタンスは変わっていないようだった。
「しかし、親晃さま。旦那様がたにもお話になるのでしょう? ふくれっ面をなさらないで」
頭を上げた男性が親晃に苦笑を返す。30代後半といったところだろうか、ほんの少しだけ目尻に皺が寄った顔には愛嬌と落ち着きがあった。
「……ふくれてなどいませんよ」
言葉とは裏腹に、親晃の雰囲気は多少柔らかくなったようだ。
「えっと……」
仲がいいんですね、と、人見知りをしてしまう礼良は上手く聞くことができない。それに気がついた男性が、再び礼良に一礼する。
「申し遅れました。私、宇陀家執事長の筒井忍と申します。主に親晃さまがたのお世話をさせていただいております」
何でも気軽にお申し付けください、と人好きのする笑顔を浮かべる。
「筒井、さん」
親晃の強かで頼りがいのある雰囲気とはまた違うが、何となく話しやすそうな人だ。
「よろしくお願いします。……ところで、親晃さま。先程政成さまがご到着なさいましたので、居間にお通しいたしましたが」
振り返った執事長に、親晃が頷く。
「分かりました。すぐ向かいましょう」
「それでは、そこまでお二人の荷物を」
「僕はいいです。……というか、ほとんど何も持っていませんよ」
財布くらいのものじゃないですか、と親晃は苦笑する。
「それでは、履物を」
「すみません、さっき自分で」
筒井がスリッパを出そうとするのを、親晃が手で制する。礼良が見ると、確かに親晃はいつの間にか玄関から上がっていた。
「……親晃さま、御世話係に世話をさせてくださいませ」
「このくらいは自分でやります」
どこか悲しそうな筒井に、親晃が苦笑を返す。未だ固まったまま玄関から動けない礼良だが、この二人のやり取りを見ていると何となく関係性が分かった。
それと、親晃が何でも自分でやる性質であることも。完全に別世界の住人でなくてよかった。
「……礼良さま、こちらをどうぞ」
反論を諦めた筒井が、小さめのスリッパを改めて礼良に出してくれる。
「あ、ありがとうございます……あの、『さま』はいいです」
とりあえずスリッパを履くと筒井は嬉しそうにしたが、礼良の言葉には頑なに首を振る。
「そういうわけには参りません。親晃さまの御友人とあれば」
「忍……」
親晃は最早呆れ顔だ。
「礼良さんからの『お願い』なんですから、聞いてあげてください」
口調は柔らかいながら、有無を言わせぬ親晃の言葉に、筒井はようやく引き下がったようだった。
「申し訳ございません。うちの執事長は頭が固いもので」
礼良が戸惑っていると、一人の女性がそっと礼良の荷物を持ってくれた。黒い足首までのワンピースに、白いエプロン。クラシックなメイド服というものだろう。
笑顔は上品で、邪魔にならないようにまとめられた髪は黒く綺麗だ。同性でも惚れ惚れとしてしまう。
「あ、ありがとうございます……でも、自分で持てますから」
「お客様をおもてなしするのもわたくしたちの仕事でございますから。礼良さん。どうか、お気になさらず」
そう言われれば何も言えず、礼良は荷物を任せることにする。さん付けに収まったことでいくらか安心もしていた。
「筒井さん。お二人はわたくしが居間までお通ししますから、お仕事に戻ってください」
「……それなら、龍山に頼もう」
筒井は頷いて、他の使用人たちを解散させた。それから自らも一礼して、奥の部屋に引っ込んで行ってしまう。
「それでは、親晃さま、礼良さん、こちらへ」
龍山と呼ばれた女性が二人を先導して歩き出す。長い廊下には質のいい絨毯が貼られていて、歩くと足に心地よかった。
「忍は相変わらずですね」
親晃は肩を竦めてから彼女についていく。礼良もそれに従った。
「まったくでございます。しかし、ここ数日の様子は、親晃さまのお怪我をご心配申し上げてのこと。どうか、お許しになって差し上げてくださいませ」
怪我のことを言われると、親晃は何も返事をできないらしい。ついでに礼良も気まずくなるのだが、何も言わないでおいた。きっと、今は気にするそぶりを見せた方が申し訳ないことになる。
「こちらです。礼良さん、お荷物はドアの近くの棚の上に置いて参ります。入り用なものがあれば、使用人に申し付けてくださればお取りいたしますので」
龍山はひとつのドアの前に立ち止まり、二人を振り返る。
「あ、りがとう、ございます」
とは言われたものの、ついつい自分で取りに行ってしまいそうだが。
礼良がぺこりとお辞儀をすると、「お礼など。わたくしどものお仕事でございますから」と笑顔を返される。それから、彼女は目の前の扉をゆっくりノックした。
「龍山です。親晃さまがたをお入れしました」
「入れ」
答えたのは低く威厳のある声だった。それが聞こえた途端、心なしか親晃の背筋がいつもより伸ばされた気がして、礼良は彼を見る。親晃は表情こそいつもと変わりはないが、雰囲気だけがさらに引き締まっていた。どことなく緊張しているようにも見えるのは礼良の気のせいだろうか。
龍山の手で、扉がゆっくりと開けられる。その瞬間、礼良は再び身体を硬直させた。
(知らない人、いっぱい……)
まず目に入ったのは、自分や親晃と同年代ぐらいの青年。こちらをじっと眺めてくる顔は、どことなく親晃と似ている。しかし、親晃よりは少し釣り目で眼光が鋭い気がした。それと、髪が少し親晃よりは長めで色が濃い。
あとの二人は、どことなく見覚えがあった。見たのはテレビの液晶の向こうだったが――宇陀の現代表と、そのご夫人。あれは何のニュースだったっけ、と考えを巡らせた。
緩くパーマをかけた肩までの髪。こちらを見てほんの少し微笑んだ女性が、宇陀代表夫人だろう。部屋の中央にあるソファに、ゆったりと腰かけている。こうして見比べてみると、確かに親晃と似た雰囲気を持っている。親晃は母親似なのかもしれない。
そして、宇陀代表。
「……ただ今帰りました」
「ああ」
親晃の挨拶に簡潔に返す声からは、あまり感情を読み取れない。少しだけ皺が刻まれ始めた精悍な顔にも、表情はほとんどない。
夫人と同じくソファに座っているが、こちらはどっしりと、と形容した方が正しい気がした。威厳というか、もはや重圧があるような気がして、礼良は少し萎縮してしまう。
「……紹介します。この間話した、長礼良さんです」
親晃がそれを宥めるように礼良ににこりとしてみせてから、宇陀の人間に向き直る。
「は、はじめましてっ」
「そんなに固くならないで」
慌てて頭をがばりと下げると、優しい声が返ってくる。宇陀のご夫人のものだ、と分かり、礼良は恐る恐る顔を上げる。
「取って食べたりしないわ。……親晃、私たちのことも紹介してくれるかしら」
くすくすと笑うさまは、やはり親晃と似ている。
「はい。……礼良さん、こちらの二人にはもしかしたら見覚えがあるのかもしれませんが。父の重親と、母の琴絵です」
「琴絵です。よろしくね」
「……宜しく」
にこやかな琴絵に対して、代表は頷いて手短な挨拶を述べる。
「あなた。もう少し愛想よくしてくださいな」
琴絵の言葉にもあまり表情が動かないところを見ると、元から無愛想な人なのだろう。おびえて少し申し訳ないことをしたかもしれない。
「それで、こちらは宇陀政成」
親晃が手を向けたのは、同年代の青年だ。ソファの近くに立ったままで、相変わらず礼良を見ている。
「宇陀は血縁がごちゃごちゃしているので、一言では表せないのですが……ざっくりまとめれば、父方の従兄です。僕のひとつ上の」
現代表には、妹御がいるのだという。政成と呼ばれた青年は、その息子というわけだ。政成は何も言わずに礼良たちの方に近寄ってくると、礼良の目前で立ち止まった。
「あの……?」
礼良の戸惑いにも返事をくれず、じっと目線をよこされるのが居心地悪い。
「政成、不躾ですよ」
親晃が苦言を呈した、次の瞬間。
「……一緒に戦うとか言う馬鹿が、どんなのか見に来たら。こんな細っこくて、ほんとに戦えんのか?」
「な――」
政成の口から飛び出した言葉に、礼良は口をぱくぱくさせる。彼は存外、口が悪かった。
親晃の近親者ならば、彼も俗にいうお坊ちゃん育ちだろうに。
「政成。失礼で口が悪くて品がないですよ」
親晃の窘めも若干粗雑になったが。やっぱりこの二人親戚だ、と再確認したのもつかの間。
「知るか。お前もお前だ、なんで折れて連れてきた」
その言葉に、親晃は黙りこくってしまう。やはり、礼良を『歪み』と戦わせることには彼も否定的なのだろう。
「あのっ! わたしが、無理を言ったんです――」
「お前、親晃が怪我するのを直接見てたんだろ」
いたたまれなくて張り上げた声は、鋭く制されてしまう。
「こいつは小っちぇえ頃から『歪み』と戦ってきた。それでもやられるときはやられんだよ。今まで呑気に生きてきた女子高生に何が出来るってんだ、今まで通り生きたらそれでよかったんだ」
突き放すようなその言葉には聞き覚えがある。「自ら平和を手放すなんて馬鹿げている」と、親晃も言っていた。
だから、何度口にしたか分からない言葉を、礼良は口にする。
「……わたしには、『雫』が見えるんです」
その言葉に、だからどうした、というように政成が視線を返してくる。
「理由なんて、それで十分じゃないですか」
「は――」
ぽかんとしているのは、政成ばかりではない。琴絵も目を瞬かせている。重親は無表情のまま視線だけを礼良に送っていた。
親晃だけは、もう動じなかったが。
「……わたしは『歪み』を引き寄せるんですよね。戦わないことを選んで、ただ逃げて、そうしたら、引き寄せられた『歪み』はどうなるんですか」
宇陀が倒してくれるとは言っても、いつもすぐに、というわけにはいかないだろう。
「わたしの大切な人を、『歪み』に襲われるかもしれない。……この力があるって分かった時点で、なんにもせずに平和に、なんてできっこないです」
何か言おうとする政成を制するように、礼良は顔を上げて彼の顔を見据える。
「大切なものを捨てなきゃいけない覚悟よりは、戦う覚悟の方がましですっ」
政成は言葉を忘れてしまったかのように、ただ礼良を見ている。親晃も他の誰も、何も言わなかった。その雰囲気に押しつぶされるように、礼良は思わず俯いてしまう。
――礼良自身、まだ命がけだという実感があるわけではない。
それでも、何もしなかった結果何かが失われるのは嫌だった。礼良は唇を噛む。
「……いいだろう」
ふと、威厳のある声が沈黙を破った。
「父さん!」
「代表っ」
親晃と政成が、勢いよく声の方に振り返る。
「もともと戦う術を教える必要があることには変わりない。その段階で適性を見極めれば、それでいいだろう」
ここで議論をしても平行線をたどるだけだ、と告げる代表に、2人は押し黙ってしまう。
「『歪み』討伐が困難だと感じられたら即、降りてもらう。……とりあえず、指南は親晃、お前がしろ。できるか」
「……分かりました」
代表の台詞は奇しくも、親晃が礼良に言ったのと同じ言葉だった。だからか、親晃は早々に折れたらしい。
「政成も助けてやれ。その上で、彼女には無理だと思ったらすぐにこちらに伝えればいい」
政成の反論も、即座に封じてしまう。やはり、人の上に立つだけはある。人を動かすのが上手いのだろう。
今の状況を忘れて、礼良は感心してしまう。
明らかに憮然としているものの、少しして政成も了承の返事をした。
「では、すぐ見繕ってやれ。一番の目的はそれだろう」
見繕う?
何をだろうか、と礼良は首を傾げる。
「分かりました。礼良さん、こちらへ。政成も」
「はい。――あのぅ」
何が何だかわからないながらも、礼良はまず代表に向き直る。
「ありがとう、ございます」
そのまま頭を下げたが、返事はない。恐る恐る顔を上げると、代表と目が合った。
「……許可も何もない。大切なのは結局、覚悟だ。心が折れればそれまで」
暗に、礼良の覚悟に口は挟まないと言っているのだろうか。見た目も声も怖いが、わりと柔軟な人なのかもしれない。礼良はもう一度頭を下げてから、親晃と共に部屋を出た。