日常との境界線上
「礼良」
「え? ……あ、なぁに?」
ご飯茶碗を持ったまま、礼良ははっと顔を上げた。
お母さん、と問いかけると、目の前に座っている女性――礼良の母親だ――は心配そうに娘の顔を覗き込んだ。
「またぼーっとしてるね。ここの所ずっとじゃない。何かあった?」
確かに、礼良はぼんやりと考え事をしていた。今だって、自分の家で夕飯を食べているというのに、違うことばかり――というか、ただひとつのことをぐるぐると考え続けている。
「べつに、何も……」
言っても信じてもらえるはずがないから、と誤魔化そうとすると、母親はいたずらっぽく笑ってみせる。
「男の子のことでも考えてたの?」
「えっ!?」
声を上げたのは礼良ではなく、礼良の父親だった。見るからにショックを受けている表情だ。
「礼良だって高校生だよ? おとーさん。そういうことのひとつやふたつ」
「まだ、まだ早い! 17かそこらの子がお付き合いなんてっ」
「先走らないでよ……うち別学だし……」
こうして会話していると、この2人からどうしてこんなに内気な自分が生まれたのか不思議になる。飄々とした母に、子煩悩でお調子者の父。
ただ、恋愛事というわけではなくとも、母親の言葉は否定しきれなかった。だって、今考えていたのは――
「わっ!?」
そこで唐突に鳴り響いた着信音に、礼良はびくりと肩を跳ねさせた。
「で、でっ電話だ! ごちそうさま!」
「あら、もういいの? 礼良の好きなクリームコロッケ」
「明日のお弁当に入れてっ」
ばたばたと片付けを済ませ、スマートフォンを持って階段を駆け上がる。
背中に悲痛な父の声を聞きながらも、お構いなしに2階の自室に閉じこもった。
「はいっ、礼良です!」
彼女はそのままドアを閉め、それに背中を預けて、薄い機械を耳に当てた。
『あ、今大丈夫ですか?……息が切れてますけど』
「大丈夫です、気にしないでください。親晃、先輩」
宇陀親晃。いろいろな不思議とともに、礼良の思考を支配している人。親晃が自分のひとつ上、高校3年生だと知って、礼良は呼び方を切り替えた。「先輩」。こちらの方が幾分呼びやすい。
親晃は敬語が癖なのか、歳を知ってもあまり態度に変化はないが。
『そうですか。この間は、見苦しいところを見せてしまってすみません』
「いえっ、そんなこと!」
『歪み』に襲われた日から、早くも3日が経っていた。
親晃は、自らが『歪み』に捕食されそうになりながらも、必死に礼良を守ってくれた。もしあの日、礼良ひとりで帰っていたなら思うと、礼良は今でも背筋が凍る。
そう懸命に言い募ると、親晃は「ありがとうございます」と呟いた。ほんの少し笑い混じりだったのが、受話器越しの声でもわかる。
『それで、』
ふと生真面目な口調に戻った親晃に、礼良は「はい?」と返す。
『本当に、一緒に戦うつもりですか』
穏やかながら、どこか止めたそうに問いかけてくる。礼良はすぐには答えずに、徐にテレビを点けた。万が一にも会話を両親に聞かせたくなくて、音量を少し上げる。
カモフラージュとも言えない悪あがきだ。
「わたしは……」
――今の、わたしが?
あの日、礼良は親晃にそう聞いた。彼は疲労困憊で地面に伏したまま。それでも、動けないながら、彼は確かに頷いた。「多分、そうだと思います」と添えて。
「親晃先輩たちに守られるだけなのは、嫌です」
あの日と同じ言葉を紡ぐ。
「わたし、戦えるんですよね。『歪み』を倒す力があって、操れるんですよね?だったら」
『この前の僕と同じ目に合うかもしれないのですよ』
固い声がそれを遮った。
『追い払うだけ、とは違うのです。宇陀と一緒に戦うんだったら、嫌でも『歪み』の群れに飛び込んでいかなければならない。ひとつ残らず、討伐する気でいなくては』
そう簡単にできることではない、時間も取られるし怪我をするかもしれない、と親晃は懇々と説得してくる。
「でも」
ぽつりと呟き、スマートフォンを少し強く握る。
「親晃先輩は、それに耐えてるってことでしょう?」
今度は、電話の向こうが沈黙に包まれた。見ているとも言えない状態で、礼良はテレビを見つめる。
電話で沈黙が続く中、ニュースの音声はほとんど意味をなさない羅列となって、礼良の耳を刺激していた。
『……それが、宇陀の使命です』
少しして押し出された言葉に、「だったら」とすぐさま反応する。
「『雫』が見えるわたしの使命は、それとは違うんですか」
間を開けて帰ってきたのは、「意外と強情なんですね」という苦笑だった。
『わざわざ、危険に飛び込む必要はありません……。貴女は普通に生きることもできる。宇陀は小さなころから戦い方を教わりますが、礼良さんは戦いなんてものとは縁なく生きてきたんですから。自ら手放すなんて馬鹿げています』
「わたしは、宇陀の人たちを犠牲にしてまで平和なんて――」
そこまで言って礼良は少し、口をつぐむ。
「……いえ、きっと、欲しくないなんて言ったら綺麗ごとです。怖いのも、確かです」
『だったら』
「それでも――一緒に戦わせてほしいんです」
何事もない、自分の平凡な日常は、きっとあの日に壊れてしまった。
見てしまったのだ。自分を守るために、傷だらけになって影に塗れながら、懸命に戦う青年の姿を。一人でも必死に立とうとしている彼の姿を。
それが目に焼き付いて離れない。
『……変な義務感に駆られなくともいいのですよ』
親晃は、礼良のこの気持ちを義理や同情というかもしれない。しかし、それだけでは表しきれない何かが胸の中でくすぶっている。見て見ぬふりをしていてはだめだと、理屈ではない部分が訴えかけている。
「わたしの気持ちです。ありのままの」
それだけを吐き出すと、テレビの音が再び空間を支配した。
『……お人好しですね』
張りつめた沈黙に、礼良が喉の渇きさえ覚えたころ。呆れたような声がスマートフォンを介して聞こえた。
『僕が“無理だ”と判断したら、その時点で手を引いてくれると約束してください』
「! はいっ」
思わず声が華やいだ。
『それを前提として。宇陀に協力するというのでしたら』
「何でしょう!」
食い気味に返した少女の耳に、信じられない言葉が飛び込んできた。
『一度、僕の家に訪れてくれますか?』