非日常への誘い
「じゃあ、冬華。また明日」
「はい。また明日お会いしましょう」
明くる日の放課後。親晃は自身が通う高校を早々に後にした。隣の席の幼馴染に簡単な挨拶を済ませ、教室を出る。
彼は部活もやっていなければ、委員会にも入っていない。生徒会に入ってほしいという話があるが、今のところはかわし続けている。受けることになるとしても、活動はもう少ししてからだ。だから、特に学校に残る理由もなかった。
それに今日は急ぐ理由がある。
親晃は最寄りのバス停へと足を進める。そこへちょうど来たばかりのバスに、彼はするりと乗り込んだ。料金を払い、適当な席を見つけて運よく座る。
何をするでもなく、快桜学園前、と書かれた電光掲示板を見つめた。人はまばらだ。この学校にはバス通学の生徒は少ないし、何ならスクールバスもある。この学校の制服姿は親晃ひとりだけ。心なし浮いている気がするが、急ぎだから仕方がない。
間もなくバスが走り出したが、はやる気持ちとは裏腹に、道路は少し混んでいた。やきもきすることしばらく、目的のバス停に着くと、親晃は他人を押さぬように間を縫って降り、辺りを見渡す。
あの駅で、彼女が着ていた制服には覚えがあった。黒を基調としたセーラー。同じような制服の高校が、この辺りにあったはずだ。確か、男女別学の私学。
あのとき確かに雫が見えていた、同年代の女子――彼女も、部活や委員会活動をしているとは限らない。外で習い事や塾なんかに通っていたら、それこそさっさと帰ってしまうかもしれない。
そうなれば、今日の親晃の行動は無駄足だ。なにしろ、学校はわかっても、年も名前も知らない。彼女は駅でなら会えるかもしれないとは言っていたが、それではいつになるかもわからない。
となれば、すぐ行動に移すに限る。
再び視線を感じつつも、親晃は歩き出した。白い学ランに、淡い空色のシャツ。彼の通う快桜学園の制服は、ことよく目立つ。バスの中のみならず、親晃はまたしても浮いていた。
視線は無視して、記憶とスマートフォンのマップ検索を頼りに、歩くことに集中する。
歩いていると、春の穏やかな気候でも照り返しがきつい。そろそろ4月も中旬になろうかという時期、昼日中のコンクリートジャングルはすでにじんわりと暑かった。
親晃は学ランの首元のホックを外そうとして、やめた。もし学校の教師にでも出くわしたら面倒なことになる。優等生で通っている親晃が、少しでも乱れた格好をするのを、教師たちは嫌っていた。
真面目にしたいわけではないが、彼は無駄な衝突は避ける性質だった。
もちろん遭遇する確率のほうが低いので、その点では無駄に慎重ともいえた。少なくとも親晃本人はそう感じている。
そんなことを言い出せば、スマートフォンをいじりながら歩いている時点で叱られるかもしれないのだが。
「ここ、ですね」
比較的新しめの校舎を見つけ、親晃は立ち止まる。こちらの学校もすでに放課後とみえて、たくさんの生徒が校門から溢れ出してきている。黒を基調とした制服の中に、白学ランがひとり。
通りを歩いているときよりも、かなり視線を感じた。もしかしたらバスの中よりも。
居心地が悪く右を見遣ると、少人数の女子グループと目が合った。よほど快桜の制服が目新しいのだろうか、きゃあきゃあと小声で騒いでいる。
「すみません」
何にしても、警戒さえされてないのならそれでいい。別学の女子棟に他校の男子がひとり立っているなど、場合によっては、所謂『事案』扱いだ。
好都合だと、親晃は彼女たちに声を掛けた。
「は、はい!」
急に話しかけたからか、異様に緊張した声が返ってくる。
「人を探しているのですが。髪を後ろで結って、編んで垂らしていて」
できるだけ柔和な声で、先日会った少女の特徴を連ねた。――髪型ぐらいしか手掛かりのない自分が恨めしい。顔なんてほとんど見ていなかった。確かうつむきがちで、見ようとしても難しかった覚えはある。分かるのは背格好くらいだ。
とはいえ、女子は髪形など日によって変えるのではないだろうか。頼りない情報だと自分でも思う。
「背が確か160センチくらいで、髪色が明るくて、細身の……ここの生徒だと思うのですが」
そんな思いを抱えながら締めくくると、女子たちは顔を見合わせた。
「細くて、三つ編み?」
「それだと……2組の長さんとかー? あの子大体三つ編みだし、髪茶色っぽいし」
まさか一度で正解らしい人物が出てくるとは。親晃としても意外である。
しかし、彼女たちの声がどことなく残念そうなのはなぜなのか。親晃には皆目見当がつかない。
「長さん、ですか」
聞いた名前をそのまま口にすると、女子たちは頷いた。呼んできましょーかー、という申し出を、親晃はありがたく受けることにした。
これで違っていたら非常に気まずいけれど、それを気にする余裕もないほど気になっていた――長さんという女子は、本当に先日の彼女なのだろうか。
女子たちはお喋りをしながら校舎の中に消えていく。それを見送り、親晃は校門の柱に軽くもたれかかった。
今日は昼から月が出ている。控えめにきらめく『雫』が、日光とともに親晃の目を刺激した。
「あの……」
眩しさに眼鏡を一旦外したそのとき、声を掛けられる。聞き覚えのある声。
ああ、どうやら正解だった、と親晃は安堵の息を吐きだした。
「……こんにちは」
外したばかりの眼鏡を掛けなおし、その声の方を見る。
黒いセーラー服。頭の後ろで編まれた長い髪。華奢な身体に、すっと伸びた背筋。
凛とした立ち姿には似合わないくらい、不安そうにゆらめく瞳。言われてみればこんな眼差しをしていた気がする。下がり眉の、困り顔に見えるこの顔を確かに見たような。
先日親晃が会った少女その人が、そこにいた。
「すみません。駅でまた会えるかとは思ったのですが、待ちきれなくて」
親晃にとって、あの時間に駅にいる方が珍しかった。あそこで待ち伏せするより、まだ確実だったかもしれない。
彼女が帰ってなくてよかった、というひとことに尽きるとはいえ。
「いえ……」
彼女の方も何の話かは分かっているのだろう。わたしも話したかったので、と控えめにつけたされた。
「それは、よかった」
親晃はほっと息をつく。見えないはずのものが見えていることに忌避感を覚えているようには見えない。泣かれたらどうしようかと、少しだけ考えていた。あれは見えないほうが普通だと、わかっていないわけはないだろう。
「とりあえず、立ち話で済む話でもないので……」
制服が目立つこともあって、親晃は申し訳なく思いつつも切り出す。どうにも居心地が悪いし、実際に話も長くなりそうだ。
「今、時間をいただいても大丈夫ですか?」
「あ、はい。今日はたしか、習い事がないので」
人見知りなのだろうか、彼女はきょときょとと視線を巡らせている。
「あの……近くにカフェがあるので、そこでもいいですか?」
控えめな提案に、親晃は頷く。彼女の中では人見知りより興味が勝ったらしい。こっちです、という言葉とともに少女は歩き出す。
親晃はそれに少女の後ろを追った。
目の前にちょこんと座る少女は、顔を上げない。人見知りはあながちはずれでもないとみえて、親晃はどうしたものかと思案する。
チェーン店のカフェに入った2人は、店の隅の席を確保していた。親晃の前には、先程頼んだばかりのホットコーヒーが鎮座している。一方少女の前には、ホイップクリームがたっぷり乗った飲み物が置かれていた。
親晃にはそれが飲むものなのか食べるものなのか皆目見当がつかない。いや、こんな飲み物があるのは知っていたが、やたらにカスタマイズされていた。クリームが多いしチョコソースもかかっている。もはやお菓子だ。
「あの……」
意外にも、先に口を開いたのは少女の方だった。飲み物を注視していた親晃は視線を少女に戻す。
「はい?」
思わず間抜けな声が出た、と自省する。誘ったのは親晃のほうであるというのに。
「快桜の人、ですよね」
白い制服を一瞬だけ垣間見た少女に、ええ、と返事をする。
「こういうところ、よく来るんですか」
注文するのに慣れていた、と少女は言う。まるで珍しいとでも言うような響きに、しかし親晃は何も言えない。快桜は俗にお坊ちゃん学校だの、お嬢様校だの言われるようなところだ。どちらかといえば自分が異分子であることはよく分かっている。
「……そうですね。僕はよく来ますが」
「そう、なんですか」
慣れているとは言っても、少女がしてみせたような呪文のような注文はできない――という台詞は飲み込んだ。
「……あ、すいません。今、関係ないことでしたよね」
「いえ、僕も黙ってしまっていましたから。押しかけておいて、こちらこそすみません」
はっとする少女に、安心させようと微笑んでみせる。彼女はまたうつむいて、親晃をあまり見ていないから、効果はないかもしれないが。
「えっと……あの、今さらですけど。お名前……」
その言葉に、名乗っていなかったことを思い出す。
「ああ……そうでしたね。宇陀親晃と言います」
途端、少女が顔を上げた。ほとんど目を合わせることもなかった彼女と、視線がかち合う。少女は呆けたような顔で、まじまじと親晃の顔を見つめる。まるで、何かを思い出そうとするように。
「う、だ?」
口に出してから、少女ははっとして辺りを見回している。心配せずとも、店内は騒がしくて聞こえた様子はない。
「宇陀、って」
「貴女が思い浮かべているもので間違いないかと」
親晃は思わず苦笑する。
「宇陀って、あの宇陀ですか? 村田コンツェルンの、傘下の」
村田コンツェルン。日本有数の巨大企業、かつ、数えきれないほどの傘下や子会社を有する、日本経済の要。
「て、いうか、宇陀親晃さん、って」
少女の頓狂な声に、親晃は改めて実感する。
「はい、ご明察です」
自分が思っている以上に自分の名前は大きいものだと。
「宇陀本家の長男にあたります」
上條だとか、宮苑だとか、著名な傘下に隠れはすれど。
「どこかで聞いたことあると思いました。テレビとかかな……」
「それほど出た覚えないですけどね……」
親晃は未成年なのだし、そもそも経営になんて関わっていないのだから、顔や名前などメディアに出る方が稀だ。それでもどこかから情報というのは伝わるもののようだが。
誰がそんな情報を知りたがるのだ、と、親晃本人は半ば他人事だ。財界の中にいようと、一般人よりも芸能関係を報道したほうがよっぽど楽しいだろうに。
「……ところで、貴女のお名前も伺っても?」
こんな話をしていると、さすがに周りの視線が気になって、それとなく話題を変えた。他人の前で家の話はするものではない、というのは、父の教えのひとつだった。余計な諍いごとを生みやすいから、と。
「あ、ごめんなさいっ。……えっと、長礼良といいます」
少女――礼良は、慌てたようにぺこりと頭を下げる。
「礼良さん、ですね。そんなに改まらないでください」
村田に関係のない人に堅苦しくされると、どうにも落ち着かなかった。それこそ傘下どうしなら、礼を尽くさねばうるさい人たちもいるのだが。
「は、はい」
きょときょととした態度そのものは変わりはしないが、礼良は幾分落ち着きを取り戻したらしい。
「そう、ですよね。おうちじゃなくて、あの……光、の話、ですよね」
月の雫。それが彼女には見えている。
そして、親晃自身にも。
「……はい。長い話になります。もし、知りたいのであれば」
親晃はコーヒーを少し口に運んでから、手を組み合わせて膝に置いた。
礼良は何も言わず、ただ俯きがちに言葉を待っている。
「それに、あれが見えるのであれば、僕からも……知っておいてほしいことがあります」
親晃が言葉を続けると、礼良の視線が心もち上を向いた。親晃はそんな彼女の顔をじっと見る。
「信じてもらえなくとも構いません……けれど、なるべく最後まで聞いてください」
親晃が真剣なのが伝わったのだろうか。礼良は戸惑いながらも頷いてくれた。
「……あの光は本来、宇陀家の者にだけ見えるものなのです」
そっと吐き出した言葉に、礼良は目を瞬かせた。だが、口を挟もうとはしない。そのかわり、落ち着かないように視線を彷徨わせている。
「ただ、たまに貴女のような例外が出るのです……。どこかで宇陀の血が混じったか、もしくは完全な突然変異。本当なら、見えないはずのものなのです。あの光は」
そこまで言ってから、質問ならしてくれてかまいませんよ、とつけ足した。その言葉に、礼良はせわしなくあちこちを見ながらも顔を上げる。
「宇陀の人はみんな、あの光が見えるんですか……?」
「そうです。僕たちはあの光を『月の雫』と呼んでいます。見たままですけどね」
「どうして、見えるんですか?」
懸命に言い募る礼良に、親晃は「わかりません」と首を振った。
「何故見えるのか。その根本的な理由は、何も明らかになっていません」
けれど、と言葉を紡ぐと、目の前の少女は怪訝な顔をしてみせる。
「『雫』が見える人間は、ある使命を負います」
「使命……?」
首を傾げた少女に、親晃は頷いてみせる。
「馬鹿な作り話と思うかもしれませんが――」
前置きをしてから手を組みなおす。礼良はそれをじっと見ていた。少しぬるくなり始めただろう飲み物にはあまり手をつけず、ただ続きを待っている。
「まず……黒いどろどろした生き物のようなものを、見たことはありますか?」
目を瞬かせた少女に、親晃は言葉を続けた。
「夜、外を歩いているとき、何かの気配を感じたことはありませんか」
礼良はそれに少し考える素振りを見せてから――ふるふると首を振ってみせた。
「そう、ですか」
ある意味では予想通りだが――その一方で予想外とも言えた。ただ、安心したのは事実だ。
彼女の答えによっては、急を要する事態となっただろう。
「……僕たちが負う使命は、『歪み』と呼ばれる化け物の討伐です」
「化け物……」
「はい。……いよいよ御伽話じみた説明になりますが」
怖気づく礼良に、親晃は安心させるように笑んでから続けた。親晃の話が馬鹿馬鹿しいと一蹴されないのは、偏に彼女には見えているからなのだろう。
きらめく光に支配された夜。『雫』が見える者が、新月以外に暗い夜を過ごすことはほとんどない。その光が何故見えるのか、彼女はずっと疑問に思ってきたのだろう。
使命という言葉が、そんな彼女の疑念を解いたのかは親晃にはわからなかったが、目の前にいる少女は拳を握り、真剣に耳を傾けている。
「『歪み』は人の心から生まれるのです。それはまさしく、人の精神の歪み」
親晃は軽く脚を組み、一瞬だけ目を閉じる。瞼の裏に浮かぶのは、自分に向かって手を伸ばす黒い影。
「人の悲しみや、怒り。行き場を失った憎しみ……そうしたものから生まれるのが『歪み』です。行き場のない感情が、実体を持って独立する」
人の精神体が具現化したもの――というにはしかし、それは文字通り歪みすぎている。悲しみや怒りだけ。嬉しさや喜びを感じることはできない。元々、持ち合わせてすらいない。
「だから、彼らは人の感情を求めます。喜びも幸福も――足りないものを補おうとして」
ただじっと座って聞いていた礼良は、それに親晃を見る。
「討伐しなきゃいけない、ってことは、えっと……『歪み』は人に悪い影響を及ぼすんですか?」
聡い、と親晃は感心する。――つまりは、そういうことだ。ええ、と彼は頷いてみせる。
「あれは文字通り、人の感情を貪るのです。補うということは奪うということ。餌にされた人間は、心を喰われて廃人になってしまう」
礼良が息を呑んだのが伝わってきた。
「……そして、『歪み』が人の感情の他に好むものがもうひとつ」
親晃は礼良の前に右手を差し出す。礼良の目がそれを追い、わずかに見開かれた。
「この――『月の雫』です」
親晃の手のひらには、小さな『雫』が乗っていた。
「今、どこから……」
「僕の体内からです」
呟くと、礼良は視線を親晃の顔に移した。戸惑いと驚きが、見開かれた目から伝わってくる。
「『雫』が身体に触れた途端、消えてしまったことはありませんか」
問いかけに、今度は礼良も頷いた。
「それは、身体に吸収されたからです。そうして、僕らは月の力を体内に蓄える」
今手の上に現れた『雫』は、蓄えられていた力を外に出したに過ぎない。
「そして、蓄えた『雫』こそに、『歪み』は惹かれます」
『歪み』は影の形をしている。影は光なしでは生きられない。そこに因果関係があるかどうか、宇陀にもわからないことだったが、確かなことがひとつ。
「その一方で――『歪み』を退治するただひとつの方法が、『雫』の光で消し去ること」
強い光は影をも滅する。それゆえに宇陀は代々、化け物退治を請け負ってきたのだ。
「それってつまり……わたしに『雫』が見えて、それが身体の中にある限り、『歪み』ってものが寄ってくるってことですか」
「察しがいいですね。……そういうことになります。僕らは『歪み』から逃げられない。貴女が今まで遭遇しなかったのは、単に運がよかったからかと。あるいは負の感情に振り回されない知恵をお持ちか」
親晃の言葉に、礼良は俯いてしまう。仕方のないことだ。ただ、見えないものが見えるというだけで、危険に身をさらしていると知ったのだから。ある意味、この少女は本当に運がよかった。力を持っているにもかかわらず、この年まで『歪み』に襲われることなく過ごしてきたというのは奇跡に近い。
「一緒に戦ってくれ、と頼みに来たわけではないのですよ」
俯いた礼良を励ますように、極力穏やかな声を出す。宇陀が人助けを使命として定め、それを果たせるのは、経済的な余裕も人数の余裕も持てるようになったからだ。『雫』が見えるからといって、一般人の女子ひとりを強制的に巻き込もうとは思わないし、それはそれで使命には反するのだ。戦いに身を投ずれば、危険度は今の比ではない。
「ただ、最低限――自分の身を守る術を身に着ける必要があるのです、『雫』が見えてしまう以上……『歪み』を追い払うことはできなければ危険なので」
そして、自分はそれを教えることができる。そう伝えるのが、親晃の今日の目的だ。
「力の扱い方だけは、知っておいて損はありません。あとは、宇陀が遠巻きながら貴女の身辺に気をつける――それだけでも、ほとんど安全な生活を保障できます」
「今まで通りの、ですか……?」
「そう、ですね」
少し言葉を選びつつ、彼は頷く。
「少しは変化があるかもしれませんが。生活に支障の出るようなことにはなりませんよ」
宇陀の誰かしらが、礼良と定期的に連絡をとり、状態を確認する必要はあるかもしれない。最近『歪み』を見ていないかとか。何せ、一つ間違えただけでも心が文字通り奪われ、人として壊れるかもしれないのだ。
「いいたとえではありませんが、病気や怪我で通院するのと同じものと思ってください。時折話を聞いて、対策を練る程度です」
どうして、と口から押し出された少女の声。少し渇いてしまって掠れた声に、親晃は飲み物を指し示す。礼良はそれでようやく飲み物に口をつけた。
「……どうして、そこまで?」
少しして短く吐き出された問いに、親晃は礼良の顔を見る。どうしてそこまでしてくれるのか。戸惑い、不安げな眼差しが親晃の目を捉える。
「それも、宇陀の使命ですから」
対して、彼の答えは端的だった。
「僕たちしか、『歪み』に対抗し得ないのです。宇陀がこの使命を放棄すれば、まともな精神状態を保てる人はほとんどいなくなるでしょう。そして、貴女も宇陀が守るべき人間だということに変わりはない」
ある者は『歪み』を生み出し、ある者は心を貪られて。それを想像したのか、礼良は黙ってしまう。
「……返事は後日で構いませんよ」
不安そうな視線を送ってくる礼良に、親晃はまた微笑んでみせる。
実のところ、礼良に選択権はないに等しい。だからと言って、話も呑み込めぬまま、言われる通りにするのは彼女も抵抗があるだろう。
「ですから、今日は暗くなる前に帰りましょう? もし夜に用事があるようなら、危険がないように取り計らいますし」
結局、礼良とは連絡先だけを交換して、そこで解散の流れとなった。彼女は結局、この場では答えを出せなかったらしい。自分に置き換えてみれば当然のことだと、親晃にもわかっている。初対面の人間がするおとぎ話を信じられるかと言われれば怪しい。
「薄暗くはなってきているようですし、送っていきましょう」
それでも親晃にとっては、おとぎ話などではなく、どうしようもない現実だった。間もなく化け物が支配する時間になる。それは嘘でもなんでもない。
危険だから、という一言が効いたのだろうか。礼良は親晃の申し出に最初は遠慮していたものの、結局は押し切られて頷いた。