帳の裏にて
黒い手が伸びてくる。
人間の手ではない。まるで影のようで、それでいて液体のように流動する何か。何かを欲するように立ちはだかるそれを、青年は手に持った剣で横薙ぎに斬り払う。
「こちらはあと1体です」
黒を基調とした服に身を包んだ彼は、耳に装着したインカムに向かって呟く。
『りょーかい。油断してやられんじゃねぇぞ、親晃』
「誰が。楽勝です」
機械越しに名前を呼ばれた彼は、不敵に笑んで剣を握りなおした。右手には長剣、左手に短剣。剣を持ったままの右手の甲で、乱暴に眼鏡を押し上げる。負けず嫌いめ、という機械越しの声は黙殺した。
どろどろとした黒いものが近づいてくるのを、親晃は無感動にただ見つめる。影のようなそれの動きはとかく遅い。
彼はふと空を見上げ、月に目をとめる。都心の細い路地裏の、狭い空。そこでも月は妖艶な光を保っていた。
「……まったく、早く帰って報告したいんですけどね」
彼の目は、月そのものではなく――月から降ってくる輝かしい雫のような粒を追っている。
『何がだ』
「ああ、いえ」
通信は切れていなかったらしい。インカムの向こうに素っ気なく答えると、親晃は再び影を見つめながら物思いにふける。
彼が思い出すのは、ついさっき駅の近くであった少女だ。
「月の雫が見えていた……」
インカムに拾われない程度に、小さく呟く。
急いで帰ってしまった少女を、どうにかして引き留めるべきだったかもしれない。この光が見えているということは――
「……っと」
そこまで考えたところで、影が急激に手を伸ばしてきた。親晃は半身になってかわし、再び長剣を影に叩き込む。影は真っ二つになり――しかし、その残骸が剣を巻き込んだ。
「……しぶといですね」
呟きとともに、彼が『月の雫』と呼んだものがうごめく。それが親晃に吸収されるように消えた瞬間、長剣が眩く発光した。
光の暴発。
それに耐えきれなかったかのように影は掻き消えた。
「こちら、殲滅完了しまし――」
『そっちにいくらか向かったっ』
彼がインカムのマイク部分を持ち上げた瞬間、鋭い声が耳元に流れた。
『力を嗅ぎ付けたらしい。応援は――』
「不要です。そちらも多いのでしょうっ」
重たく暗い気配を感じて、声が張りつめた。
「どちらの場所も離れるわけにいきません。殲滅したらもう一方に駆けつける、それでいいですね」
地面から、塀から、電柱から。影が這い出てくる。
『……了解』
それきり通信は途絶えた。
「まったく、ただでさえ狭いというのに」
路地裏は影で埋め尽くされていた。これでは身動きが取れない。囲んで捕らえるつもりだろう。
この化け物たちが自分を獲物としてしか見ていないことなど、親晃はよく知っている。
影は一斉に手を成形し、親晃に伸ばしてくる。彼は同時に地面を蹴った。彼の足元で、『雫』と呼ばれた光が淡く灯る。それは確かな質量をもって、親晃の支えと化していた。
光の足場をいくつも作りだし、彼は空中へと駆け上がる。まるで空を舞うように。ある程度の高さまで達し――彼は近くの電柱を思い切り蹴った。
その勢いで、路地いっぱいにうごめく影の中へ急降下していく。
同時に、今度は短剣が光を灯した。親晃はそれを素早く投擲する。矢のごときそれは、影を一気に何体か屠った。
しかし、それをすり抜けた影の手が親晃を捕らえる。何本も下から伸びてきた腕は、彼を影の中に引きずり込んだ。
影が1人の人間に、わらわらと群がる。
「たまには食欲を抑えたらどうです。卑しいったらないですよ」
冷たい声。それと同時に、親晃の身体から無数の針が出現した。
光でできたそれは、影たちを串刺しにして消えた。道連れにされた影が消えたことで、通りが少しだけ広くなる。
「お前たちのような、取るに足らない『歪み』に、簡単に狩られるような存在ではありません。僕たち宇陀は」
親晃が『歪み』と呼んだ影は、まばらながらまだ彼に近寄ってくる。逃げることなど、この化け物の頭にはないのだ。彼らを満たしているものは、食欲とも言えない欲望だけ。
「――最後の憐みです。次はこんな、間違った姿になってはいけない。ちゃんとした生き物として、生まれてきますように」
その声に、『月の雫』が応える。空中に存在するいくつもの雫が、無数の針と化し――『歪み』を突き刺した。
まもなくして、役目を終えた光が、影とともに霧散する。
「今度こそ、殲滅完了です。そちらに向かいます」
親晃はインカムのスイッチを押し上げ、再び空へと駆け上がる。
彼は闇の中へ姿を消し、路地裏には静寂が訪れた。