表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
月光、夜の帳に落ちて  作者: 神奈保 時雨
序章: 月影のいたらぬ里はなけれどもながむる人の心にぞすむ
1/10

月の光

「……綺麗」

  道を歩いていた少女――長 礼良は、ふと足を止めた。今夜は、美しい月が出ている。明るい都心の空にも、今宵の月はよく見えた。

「はやく駅に行かないと……」

しばし見とれてから、彼女は再びせかせかと足を動かす。習い事のバレエが長引いたせいで、今日は帰りが遅くなってしまった。女子高生が一人で歩くには、今は少し物騒な時間帯だ。

 あまり遅くなると、子煩悩な父が礼良のことを心配するだろう。礼良は道を急ぎながら、ちらちらと雑踏を見渡す。

 道を歩く人は皆、他人には目もくれず――頭上の月を見ることもなく、歩いていくようだ。

(やっぱり、見えてない、よね)

 礼良は人にぶつからないようにすばしこく移動しながら、再び月を見上げた。


 彼女には、月明かりが『見えている』。


 きらきらと輝く宝石のようなものが、月から地上へと降りてきていた。幻覚――であるのならば、どれほど精巧か。

 礼良にだけ見える宝石。雫のように透き通った、形ある光。それは淡く黄水晶(シトリン)のような輝きをもって、ゆっくりと、月から地面へ吸い込まれていく。


 物心ついた時から見えているこれが、どうやら他人には見えていないらしい。それを知ったのは、小さかったころに親に話してからだ。

 月から綺麗な宝石が降ってくる――子供がよくつく、ファンタジーと現実を混同してしまったがための嘘。そんなところだろうと思われて、微笑ましげに頭を撫でられて、それきりだった。

 両親が心から信じてくれていないことなど、ほんの小さな子供にもわかった。嘘をつくななどと言われたわけではない。責められたわけでもない。両親には見えていないのだとわかって、礼良のほうもそれきり言わなくなった。自分がおかしいのかも、と思ったから。


 それでも、子供のころは信じてくれた友人がいたにはいた。しかし今となっては誰にも打ち明けていない。

 こんなものが見えるのは異常なことなのだろうと、今となればよくよく自分でもわかっていた。「かもしれない」などという不確定な気持ちではなく。


 「あ、」

 ふと、目の前に雫がいくつか降りてくるのが見えた。思わず手を伸ばすと、そのほとんどはまるで吸い込まれるように、透き通って手の中に消えてしまう。

 しかしたったひとつ手の中に残ったそれを、礼良は掴むことができた。質のいい艶を、確かに指先で感じる。淡い黄色に見えるほのかな輝きも。

 触れることさえできるのに、礼良以外の誰も興味を示さない。見えていないふりでもしているのでは、と疑うくらい。

 それとも、これはやはり幻覚なのだろうか?見えていないものを、見えていると錯覚しているのは、礼良のほうなのでは――


「……あの」

 そんな思考の迷路にとらわれかけたそのとき、いきなり背中の方から聞こえた声に、礼良は肩を跳ねさせてから振り返る。

「……は、はいっ」

 礼良は人見知りの気がある。振り返ったはいいものの、その声の主と目を合わせることはできず、うつむきがちに地面を見た。

 同時に、手に持った雫のようなものを、彼女は無意識に背中に隠す。

「それは……」

 落ち着きのある、少し低めの声。その声がさす『それ』がわからなくて、礼良はようやく顔を上げた。声の主は、同世代の青年だった。背が高く、少しだけ色素の薄い髪と瞳が目を惹く。

 白が基調の制服は、この辺りでは有名な私立のものだと一目でわかった。まっすぐな眼差しに、薄い唇。整った顔立ちに、人見知りの礼良でさえ顔を上げて見惚れてしまう。

 だからこそ彼女は気づいた。彼のシンプルな眼鏡の奥の眼差しは、礼良が今隠した手を追っている。


「……あの。これ、ですか?」

 そっと持っていたものを差し出すと、彼は目を瞬かせたようだった。が、すぐに頷いてみせる。

「見える、んですか」

 つっかえながらも問いかければ、彼は苦笑を漏らしたようだった。

「そうですね。僕も同じことを聞きたいですが」

 物腰柔らかな口調に、礼良はそれもそうだと納得する。礼良自身、これが見える人間を今まで知らなかったのだ。この青年が同じ疑問を持ったとて、不思議ではない。

「……それ、頂いてもいいですか?」

「えっ?」

 だが、その質問は彼女には想定外だった。確かに綺麗だが、もらってどうするのだろうか。

「必要なのです。ひとつでも、多く」

 生真面目なその口調にからかいや戯れの色はない。それゆえ、礼良はおずおずとながら手を差しだした。

「ありがとうございます」

 微笑みとともに、青年は『光』を受け取る。その途端、それは彼の手中に消えてしまった。まるでさっき、礼良が手を伸ばしたときのように。

「……あ」

 もう少し話がしたい。17年間持ち続けた疑問の答えは、目の前の男子高生が持っている気がする。そう思う礼良だったが、駅のアナウンスが聞こえて声を上げた。

 礼良が住んでいる郊外に向かう電車は、もうあまり本数がない。ここから出る電車はともかくとしても、乗り継ぎでタイムラグが生じてしまう。

 あまり両親に心配を掛けたくはなかった。根が内気な礼良は、それでなくても気にかけられているのに。

「あの、すみませんっ……わたし、もう帰らないと」

 慌てて駅に向かい始めた礼良に、青年が何か言いかける。さっき礼良が青年に言葉をかけようとしたときのように。それに後ろ髪をひかれる思いがして、彼女は一瞬だけ振り返る。

「この駅、いつも使うので。また話せると思いますっ」

 だから、今日のところはこれで。そんな思いを込めて、それだけを口にした。

 それから再び、礼良はホームへと向かう。青年からの返事は聞こえなかった。いきなりの出来事に混乱したまま、礼良は改札に滑り込む。


 振り返った時には、彼はもう見えなかった。もしかしたら、今の彼こそ幻覚なのかもしれない。異常ではないと言ってほしかった礼良が作り上げた――

 そこまで考えて、自らのマイナス思考がかえっておかしくなり、礼良は笑みをこぼした。


 しかし、今のことが夢でなかったのなら。

 月が雫を降らせているのは、やはりいつも通りだ。しかしこれはどうやら、礼良だけの世界ではないのかもしれない。

 

 長い間求めていた、もしかしたら、という希望の光。

 いつも通りの異常な世界で、ただそれだけが、異質だった。


月影のいたらぬ里はなけれどもながむる人の心にぞすむ ……法然上人

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ