月の光
「……綺麗」
道を歩いていた少女――長 礼良は、ふと足を止めた。今夜は、美しい月が出ている。明るい都心の空にも、今宵の月はよく見えた。
「はやく駅に行かないと……」
しばし見とれてから、彼女は再びせかせかと足を動かす。習い事のバレエが長引いたせいで、今日は帰りが遅くなってしまった。女子高生が一人で歩くには、今は少し物騒な時間帯だ。
あまり遅くなると、子煩悩な父が礼良のことを心配するだろう。礼良は道を急ぎながら、ちらちらと雑踏を見渡す。
道を歩く人は皆、他人には目もくれず――頭上の月を見ることもなく、歩いていくようだ。
(やっぱり、見えてない、よね)
礼良は人にぶつからないようにすばしこく移動しながら、再び月を見上げた。
彼女には、月明かりが『見えている』。
きらきらと輝く宝石のようなものが、月から地上へと降りてきていた。幻覚――であるのならば、どれほど精巧か。
礼良にだけ見える宝石。雫のように透き通った、形ある光。それは淡く黄水晶のような輝きをもって、ゆっくりと、月から地面へ吸い込まれていく。
物心ついた時から見えているこれが、どうやら他人には見えていないらしい。それを知ったのは、小さかったころに親に話してからだ。
月から綺麗な宝石が降ってくる――子供がよくつく、ファンタジーと現実を混同してしまったがための嘘。そんなところだろうと思われて、微笑ましげに頭を撫でられて、それきりだった。
両親が心から信じてくれていないことなど、ほんの小さな子供にもわかった。嘘をつくななどと言われたわけではない。責められたわけでもない。両親には見えていないのだとわかって、礼良のほうもそれきり言わなくなった。自分がおかしいのかも、と思ったから。
それでも、子供のころは信じてくれた友人がいたにはいた。しかし今となっては誰にも打ち明けていない。
こんなものが見えるのは異常なことなのだろうと、今となればよくよく自分でもわかっていた。「かもしれない」などという不確定な気持ちではなく。
「あ、」
ふと、目の前に雫がいくつか降りてくるのが見えた。思わず手を伸ばすと、そのほとんどはまるで吸い込まれるように、透き通って手の中に消えてしまう。
しかしたったひとつ手の中に残ったそれを、礼良は掴むことができた。質のいい艶を、確かに指先で感じる。淡い黄色に見えるほのかな輝きも。
触れることさえできるのに、礼良以外の誰も興味を示さない。見えていないふりでもしているのでは、と疑うくらい。
それとも、これはやはり幻覚なのだろうか?見えていないものを、見えていると錯覚しているのは、礼良のほうなのでは――
「……あの」
そんな思考の迷路にとらわれかけたそのとき、いきなり背中の方から聞こえた声に、礼良は肩を跳ねさせてから振り返る。
「……は、はいっ」
礼良は人見知りの気がある。振り返ったはいいものの、その声の主と目を合わせることはできず、うつむきがちに地面を見た。
同時に、手に持った雫のようなものを、彼女は無意識に背中に隠す。
「それは……」
落ち着きのある、少し低めの声。その声がさす『それ』がわからなくて、礼良はようやく顔を上げた。声の主は、同世代の青年だった。背が高く、少しだけ色素の薄い髪と瞳が目を惹く。
白が基調の制服は、この辺りでは有名な私立のものだと一目でわかった。まっすぐな眼差しに、薄い唇。整った顔立ちに、人見知りの礼良でさえ顔を上げて見惚れてしまう。
だからこそ彼女は気づいた。彼のシンプルな眼鏡の奥の眼差しは、礼良が今隠した手を追っている。
「……あの。これ、ですか?」
そっと持っていたものを差し出すと、彼は目を瞬かせたようだった。が、すぐに頷いてみせる。
「見える、んですか」
つっかえながらも問いかければ、彼は苦笑を漏らしたようだった。
「そうですね。僕も同じことを聞きたいですが」
物腰柔らかな口調に、礼良はそれもそうだと納得する。礼良自身、これが見える人間を今まで知らなかったのだ。この青年が同じ疑問を持ったとて、不思議ではない。
「……それ、頂いてもいいですか?」
「えっ?」
だが、その質問は彼女には想定外だった。確かに綺麗だが、もらってどうするのだろうか。
「必要なのです。ひとつでも、多く」
生真面目なその口調にからかいや戯れの色はない。それゆえ、礼良はおずおずとながら手を差しだした。
「ありがとうございます」
微笑みとともに、青年は『光』を受け取る。その途端、それは彼の手中に消えてしまった。まるでさっき、礼良が手を伸ばしたときのように。
「……あ」
もう少し話がしたい。17年間持ち続けた疑問の答えは、目の前の男子高生が持っている気がする。そう思う礼良だったが、駅のアナウンスが聞こえて声を上げた。
礼良が住んでいる郊外に向かう電車は、もうあまり本数がない。ここから出る電車はともかくとしても、乗り継ぎでタイムラグが生じてしまう。
あまり両親に心配を掛けたくはなかった。根が内気な礼良は、それでなくても気にかけられているのに。
「あの、すみませんっ……わたし、もう帰らないと」
慌てて駅に向かい始めた礼良に、青年が何か言いかける。さっき礼良が青年に言葉をかけようとしたときのように。それに後ろ髪をひかれる思いがして、彼女は一瞬だけ振り返る。
「この駅、いつも使うので。また話せると思いますっ」
だから、今日のところはこれで。そんな思いを込めて、それだけを口にした。
それから再び、礼良はホームへと向かう。青年からの返事は聞こえなかった。いきなりの出来事に混乱したまま、礼良は改札に滑り込む。
振り返った時には、彼はもう見えなかった。もしかしたら、今の彼こそ幻覚なのかもしれない。異常ではないと言ってほしかった礼良が作り上げた――
そこまで考えて、自らのマイナス思考がかえっておかしくなり、礼良は笑みをこぼした。
しかし、今のことが夢でなかったのなら。
月が雫を降らせているのは、やはりいつも通りだ。しかしこれはどうやら、礼良だけの世界ではないのかもしれない。
長い間求めていた、もしかしたら、という希望の光。
いつも通りの異常な世界で、ただそれだけが、異質だった。
月影のいたらぬ里はなけれどもながむる人の心にぞすむ ……法然上人