ある作家の七夕
ある若い作家が、今まさにひとつの仕事を終えようとしていた。安堵のため息をひとつつくと、作業前に淹れておいたインスタントコーヒーをひとくちすすり、顔をしかめて「まずい」とつぶやく。冷えきったそれは安物独特の苦手と雑味を強調させており、とても飲めるものではなかった。それ以上飲む気にもなれず、マグカップをゆっくりと机の上に置くと、かわりに真っ黒になった原稿用紙を手にとった。
一話完結型とはいえ、その作品は彼女にとって初めての連載だった。彼女がどれほど推敲を重ねたのかなど語るまでもなかろう。言葉はなくとも、それは彼女が今眺めている原稿たちが物語っていた。
何度も何度も書き直され元の色が何だったかもわからなくなった数十枚もの紙きれ。最終的には採用されなかった幾千もの言葉の集まり。消しゴムのかけすぎで空いた穴。彼女はそれらを眺めるだけで愛おしさがこみあげてくるのだった。この作品は自分の分身というよりむしろ自分自身だというほうが適当だな、と思った。ふふっ、と小さく笑った。
そもそも彼女がこの作品を書こうと最初に思いついたのは、3ヶ月前の失恋がきっかけだった。若さ故の熱い恋だった。母親が二度結婚に失敗しているのを間近でみて育ち、『自分は絶対に結婚するまい』と心に決めていたのに、それでも彼となら結婚してもよいと思った。いやむしろ自分からプロポーズしそうな勢いであった。この思いは永遠に変わらない自信があった。一緒にいられれば、それで幸せだった。
彼女からすれば、別れは突然のものだった。その日、彼女はかつての仕事仲間と食事をしていた。1ヶ月振りの再会で話ははずみ、帰宅したときには日付がかわっていた。酒も入り上機嫌で彼に今日の話を語り聞かせようとなどと考えながら、彼と同棲していた部屋へ帰った彼女は、真っ暗な部屋に電気をつけたときに1枚の手紙をみつけた。間違いなく彼の字で、もう一緒にはいられない、別れたいという趣旨のことばが書かれていた。8ヶ月同棲したあととは思えない、淡々と事実を述べただけの、なんともあっさりとした手紙だった。彼女の復縁の願いはむなしくはねのけられた。数日後、彼女は荷物をまとめた。行くあてなどなかった彼女はすぐまた一人暮らしでも始めるつもりでとりあえず実家へ帰省した。まさかそのあと3ヶ月居座り続け、しかも出ていく気すらも失くすなどとはこのとき夢にも思わなかった。
彼に新たな恋人が出来たという報告を受けたのは、彼女が彼と別れてからわずか2ヶ月半後のことである。彼女はそのとき、彼とその新たな恋人との幸せを心から願い、またその旨をそのまま彼に伝えた。その夜、一晩中爆発したように大声で泣き続けたのは、彼女自身がいちばん理由を知っているようで、そのくせなぜだかわからなかった。
一晩中泣いてある程度心の整理がついた彼女は、書きかけの連載小説に、自分の正直でうそつきな心のうちを洗いざらいそのまま託そうと思った。今回の作品には、2人の子どもをのぞいて登場人物には名前をつけなかったし、地域や時代なども特定していない。故に、一つひとつの物語はまったく独立しているが、一方でどれが繋がるかもわからないのだ。
雨の日のデートに前向きだったカップルに佑基という名の子どもが出来たのかもしれないし、友だちの不参加が原因で遠足に行きたがらなかった心優しい男の子の将来の娘は、自分の最期を悟り最愛の人との結婚を諦めるのかもしれない。けがで遠足に行けなかったたいちくんはその経験から看護師になったかもしれないし、その背中をみて育った彼の息子もまた看護師を志しなにかのきっかけでアメリカへ行くのかもしれない。何も記されていない以上、これは誰も断言することはできない。人間、どこでどう繋がるかなどわからないものだ。ただ、彼女は、出会うべきときに出会うべき人に出会えるという奇跡を信じてやまない。誰にもその人だけの織姫や彦星がいると信じてやまない。今作には、彼女のそんな思いも込められているのである。
彼女にとって、彼がその彦星であったかどうかは知るよしもない。しかし出会えたことに意味はきっとあった、必要だったから出会えたのだと思うのである。…いや、そう思いたいのだ。それが、彼女の冷めやらぬこの思いへのせめてもの手向けなのだから。
ところで今日は七夕である。通勤途中の彼女を困らせた雨はいつの間にかあがっていた。今年はどうやら無事に織姫と彦星は会えそうだな、と思った。まだも原稿を眺めながらひとくちコーヒーをすすり「まずい」とつぶやく。そしてまた手元の原稿に目をおとし、ふふっ、と笑った。
窓の外をみやると、都市部の真ん中にある彼女の部屋からは星は見えなかった。ただ、雲ひとつない空に月がきれいに輝いていた。
この作品はフィクションであり、実在する人物や作品とは関係ありません。