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雨物語  作者: 有谷ゆり
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最後のクリスマスプレゼント

12月24日。朝のニュース番組が今日の最高気温9℃を告げた時、僕はまるでそれをBGMかなにかのように聞き流していた。入社3年目にしてようやく直轄の部下をつけてもらった僕は、『御社』を『ごしゃ』と読み、会社のパソコンで自身のSNSを更新し、間違って取引先の会社に「これから商談。だるい」と送ってしまうような、名門大卒の優秀な後輩のために仕事量を1.3倍ほどに増やされ、出社直前まで資料とにらめっこしなければならなかったので、気温のことなど気にしていられなかったのである。強いて言うなれば、職場近くにある居酒屋が最高気温10℃未満で海鮮丼(赤出汁つき)を500円に値下げするサービスをしていたな、くらいのことは思った。いつもなら喜んでその恩恵に預かるところだが、しかし今日、僕はその居酒屋には寄らない。


広げた資料をカバンにしまいこみ、鏡の前で顔を整えながらネクタイをしめ、買ったばかりの革靴を履き、決まった時間に家を出る。一見すればいつもと変わらない風景。しかし、今日僕は一世一代の大仕事を仕事終わりに抱えていた。世界で一番大切な人にこの思いの丈をぶつけるのだ。いつもより少し鏡を見る時間が長かったのはそのためである。資料に目を通しながらも心は昨日考えたセリフでいっぱいだった。顔を見たら緊張してセリフが飛ぶのではないか。就職活動以来の緊迫感に、今日の僕は仕事どころではなかった。


なんとか無事に仕事を終え、約束のレストランへ向かった。いつもの定食屋の5倍近い料金設定だった。ひとりなら確実に来ないな、というのが正直な印象だった。

そこには彼女が既に来て待機していた。その細長い脚を際立たせる赤いミニスカートと白いカーディガンはもともと綺麗な顔立ちの彼女を余計美しくみせた。きれいなカールのかかった髪の毛はスカーフの中に織り込まれ、なんとも暖かそうだ。


「ごめんね、呼び出したくせに待たせてしまって」


「いいよ、まだ待ち合わせ5分前だし。それに、あたし暇だったから」


彼女の笑顔はいつも屈託がなかった。くりくりのたれ目な彼女が目を細めて笑うのをみると、30歳を目前とした今でもドキドキしてしまうのがわかった。この気持ちを悟られないようさりげなく振る舞うのが精いっぱいだ。

僕たちは食事をし、たくさんの話をした。しかしそれらは一年振りに再会したお互いが話したかったこととは程遠い、他愛もない昔話や近況報告ばかりだった。全然変わってないのね、いやもうすっかりおじさんだよ、あらいやだそんなこと言ったら一歳しか違わないあたしはどうなるのよ、君はいつまでもきれいだ、おだてても何も出てこないわよ。


刻一刻と別れの時は近づく。先に核心を突いたのは僕だった。


「アメリカに、行くんだってね」


「…うん、そこで仕事をするつもり」


「また、そうやってうそをつくのかい。結婚するんだろ、今日はおめでとうをいいに来たんだ」


僕が入社間もない頃にアルバイトとして一年早く同じ職場で働いていた彼女。僕は彼女に仕事のいろはを教えてもらい、彼女はアルバイトの管轄でない仕事は全部僕に任せてくれた。先に惚れたのは僕だった。しかし、彼女もまた僕に好意を持ってくれているのは明らかだった。僕たちが交際を始めるのに、そんなに長い時間はかからなかった。


今からちょうど一年前のイブの夜に彼女にプロポーズした。しかし、その答えはノー。「もう開放してあげる。これが、あたしにできる最後のプレゼント」だと言われた。こんなにも愛している人間を棄てることがなんのプレゼントだ、僕はそう感じたし、実際に声にして彼女に伝えてしまったかもしれない。それ以来彼女とは連絡もとらなくなり、彼女はすぐに会社を辞めた。僕のせいで辞めることになったのかと思うと少々申し訳ない気がしないでもないが、しかし自業自得である。そう思った。なんと軽率であったことか。


彼女が難病にかかって死にかけていたことを知ったのは半年後、とあるSNS上の記事であった。アメリカで手術を受け、外国語のわからない彼女を献身的に支えた現地日本人看護師との、愛の感動エピソードとして紹介されていたのだ。

プロポーズが失敗して以来職場を辞めてしまった彼女の情報など、僕には得るための手段もなかったし、知ればまた憤りが止まらなくなるだろうと思い、偶然SNSでみつけるまで、ついぞ知らん振りを続けていたのに。

彼女の様子を知った僕はまず彼女が難病を患っていたこと、またそのエピソードが偶然僕に届くほど彼女が有名人になっていたことに深く驚き、ついでものすごく自分を責めた。彼女をののしることは考えても自分を責める予定など皆無だった僕にとって、この反応は意外のことだった。なぜ彼女の異変に気づいてやれなかったのか。彼女を引き止めることはできなかったのか。結婚という選択肢以外に考えられなかったのか。あとからあとから後悔の念がわき、執念となり、ついに彼女と再会して思いを伝えることとなったのである。


「どうして一年前のあのとき、素直に病気のことを告白してくれなかった。僕がそんな理由で君を棄てるとでも思ったのかい?」


『結婚』という、一番いいたくなかった語を出してしまった僕はもはやなんのためらいもなく彼女に思いを伝えることができた。それは僕が必死に考えたセリフとまあ似たり寄ったりだった。一番大切なひとことだけは除いて、全て言いたかったことは言い切った気がする。


「…絶対に見捨ててくれないと思ったから、言えなかった。

もしかしたらあたし、死ぬかもしれなかった。あたしのために、まだ未来のあるあなたと結婚してすぐに死ぬなんてこと、できなかった。つらい思いをさせたくなかった…」


彼女もずっとこの言葉を伝えたくて伝えられなかったのだろう。最後の方は嗚咽にかわっていた。僕だって涙をこらえるのに必死だった。こんな彼女に僕は惚れたんだと、心底誇りに思った。

やがて彼女が泣きやむと、そのあとはまた他愛もない話へと変わっていった。これ以上、過去の傷口を広げる必要はないと思ったからだ。彼女の旦那さまとなる人の話も少し聞いた。きっと幸せになってくれ、そう思わずにはいられなかった。お互いに笑顔で別れればいい、そしたらまたいつもと変わらない毎日を送り、それぞれの幸せへと帰っていけばいい。


そして、別れの時はきた。もう会うこともないんだと思うと、ずっと胸の奥にしまってきたこの思いを伝えないわけにはいかない気がした。


「あのさ…」


いいかけた僕に突然彼女が抱きついてきた。


「あたし、今でもあなたが好きよ」


そしてパッとはなれ、さよならを告げると足早にどこかへ去ってしまった。僕はその場に立ち尽くすしかなかった。言えなかった『愛してる』と言われてしまった『好き』という言葉を比較して、やはり彼女にふられたのは自分の中に問題があったのだと思った。こんな僕を見透かして彼女は僕との結婚をためらったのだろう。そう思うと、やっと本当に彼女への諦めがついた。そしてさっきの言葉を、彼女からの、本当の『最後のプレゼント』だと思うことにした。なにかがストン、と落ちるのを感じた。きっともう会うこともない。連絡もとらないだろう。さっきまでそれは辛く苦しいことだったはずが、いまはなぜだかそう思うと少し落ち着くことができた。


突然しとしとと雨が降ってきた。雨に感情を抱いたのは初めてのことだが、まるで今の僕のようだと思った。似ているついでに、この雨にきっと洗い流してほしい、僕のこの優柔不断さも、汚い感情も。僕にくっついた水滴が身体をつたい、表面の汚れを取り去り、地面に落ちていく。そんな映像が僕の中でふくれあがった。寒さに震えて、慌てて折りたたみ傘を広げるまでの、ほんの数秒間のことだったが、この感覚はなぜだかそのあと一生忘れることができないものとなる。


家までの帰り道、いつもの居酒屋の前を通るとまだ営業していた。そうだ、海鮮丼が500円だった。僕はのれんをくぐった。

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