遠足なんて
「お弁当と水筒は明日用意するとして、えっと、あとは…
敷物、おしぼり、ハンカチに鼻かみ、あとは300円分のおやつ。最後に遠足のしおりをいれて、と。うん、完璧ね」
明日、9月8日は遠足という名の大冒険だ。冒険者、我が一人息子の佑基と確認しながら、ランドセルよりも一回り小さなリュックサックに荷物を詰め込んでいく。小学校に入って初めての遠足だったので、新しいものを買ってやろうと言ったのに、頑なに幼稚園生の頃から愛用しているそれに固執したため、元が何色だったかもわからないような剥げ方をした、その当時の戦隊物がプリントされたリュックサックを持たせることになった。正直、母としてはこんなボロを持たせるのは恥ずかしかった。
要らぬ思案だとわかっていながら、母子家庭だから金がないなどと陰口を叩かれるのではないか、そんな考えがどうしても拭いきれなかったのだ。それでも、本人の意志は尊重されなければならない。旅のお供に、この年季の入ったリュックサックを背負ってもらうこととしよう。
先ほども申し上げた通り、佑基にとってこれは小学校入学依以来初めての遠足だ。小学校に入学したての4月半ばにも一度遠足はあったのだが、遠足2日前に風邪を引いて参加できなかった。故に9月の頭である今回の遠足が、彼にとっての初めての遠足と相成ったのである。
こういった行事の類は全力で楽しむのが私達母子の最大の共通点であり長所であった。加えて、今度の遠足にいたってはなんといっても小学校生活初の遠足である。いやが上にも期待は高まった。一週間前から私の頭は彼のお弁当のメニューの候補達や遠足のときに着せる服の候補達でいっぱいである。
息子から衝撃の発言を聞くまで、私の心も一緒にリュックサックへ詰め込む勢いだった。
「ママ、あした、えんそく行きたくない」
一瞬自分の耳を疑い、手が止まった。いろいろな憶測―初めての遠足に緊張しているのだろうか、または友達との関係がうまくいっていないのだろうか、はたまた今更ながらリュックサックがみすぼらしく感じられたのだろうか―が飛び交う中、息子は堰を切ったように話し始めた。
「あしたね、おともだちのたいちくんがえんそくに行けないの。おけがしちゃったんだって。だからね、ぼくも行かない。だってね、ひとりだけえんそく行けないの、すごくさみしいんだもん。ぼくもいっしょにおるすばんする」
息子が語ったのはおおよそこのような旨だった。この言葉を聞いたときの私の心情を察していただけるだろうか。
確かに私は他人を思いやるようにという教育は施してきたつもりであった。主人を三年前に交通事故で亡くして以来、佑基の父親がどれだけ佑基を愛し、どれだけ偉大だったかを語らぬ日はなかった。人を愛するのが好きだった父親のように、人を愛し愛される人間になりなさい―今は理解できずとも、いつかそれをわかってくれればいい。そう思っていたのに。
生まれて7年かそこいらの子どもが、まさかこんなに難しい教えを理解したというのだろうか。そして佑基は理解したその約束を実行しただけだとでもいうのだろうか。
否、私はこんな心の持ち方をしろとは一言も言っていない。自分が遠足に行けなかったことを悔やむのではなく、その経験から友達のことを気遣うなんて。驚き以外のなにものでもなかった。母が望んでいた以上に優しい、いい子に育ってくれた。片親で、不憫な思いもたくさんさせただろうに。こんなに優しい子に…。
気がつけば大声で泣いていた。主人を亡くして以来、強くなろう、絶対にこの子の前では辛くとも泣かずにいようと頑張ってきた私がこの子の前で泣いたのは初めてだった。そう言えば佑基の父親もこんな優しさに溢れた人だったっけ。そうか、父親に似てくれたのか。私が寂しくないよう、彼が亡くなるときに自分の一部を佑基に託してくれたのかもしれない。そう思えば思うほど、いよいよ涙は止まらなかった。
「ママ、どこかいたいの?」
佑基が不安気な顔で見つめる。さて、この小さな偉人をこまらせる訳にはいかない。
「ううん、ママうれしくって。ゆうきのことだいすきだよ。
だから、ママあしたのえんそくゆうきにいってほしいなあ。たいちくんとはまたこんどいっしょに、ふたりだけでえんそくにいこう。またおべんとうつくってあげる」
これを聞いた佑基の表情は今までとは別人のようにぱっと明るくなった。…いや、もともとがお調子者だから、元に戻ったと表現すべきだろう。
「やったー!そしたらまたこのリュックサックつかうね!だってこれパパがくれたものだもん」
そう。色褪せ、くすみながらも立派に役目を果たすそのリュックサックは、主人が交通事故に合う直前に初めて佑基と二人で出かけたときに買ってきたものであり、買ってもらってすぐに上機嫌で背負ってみせた佑基が突然走り出し、運悪くそこに車が突っ込んできたために佑基をかばう形で主人ははねられたのだ。主人とリュックサックがクッションとなり、佑基はほぼ無傷だったが、主人は即死だった。
佑基にこの記憶はないはずである。事あるごとに「どうしてうちにはパパがいないの?」と聞かれてはその度に返事に困らされた。口が裂けても、こんな幼子に「あなたをかばって死んだ」などとは言えなかったのである。
でもきっと、今のこの子なら、きっと…そう思ったが、なんとか留まった。今はせっかくの遠足を極力楽しんでもらおう。
そう思ったとき、つけっぱなしにしていたテレビからある知らせが届いた。
『明日は、全国的に雨の予報です』
これを聞いた私達は大いに喜んだ。雨天なら遠足は延期である。
「やったね、みんなでえんそくだ!」そういって窓にかけよった佑基は、空を見上げながら手を合わせ、
「あした、あめになりますように」と言って、固く目をつむって祈っていた。私も隣に並んで手を合わせた。
―きっとパパも佑基がいい子に育ってくれて、うれしくて泣いちゃうよ。そしたらきっと雨が降るよ。心の中でそう語りかけた。月は見えなかった。