ドールハウス名人
ドールハウス名人
僕がドールハウスに初めて出会ったのは小学1年生の時だった。当時僕はある山に近い田舎町に父親と母親と3人で住んでいた。僕たち家族は町の駅に近いアパートで暮らしていた。そのアパートは木造で鉄の階段は雨で赤く錆びていて青色の屋根は今にも剥がれ落ちそうにぼろぼろだった。父親はそのアパートが一番駅に近く町の一等地にあるとよく自慢していたが駅から電車に乗り町の外に行くことがほとんどなかった僕にとってはそんな立地条件もどうでもよかった。それよりも台風が来ると自分の住家が崩壊しないかが僕にとっての懸案だった。
僕の住んでいた部屋の隣には僕の母親より一回り年上のおばさんが住んでいた。ある日父親は仕事で母親は急な用事が出来て家を開けなければならなかった。その日は空がびっくりするくらい黒い雲に覆われていて、霧雨が降っていたことを覚えている。7歳の子どもを連れて行くこともできず、家に一人にするわけにもいかない用事とは一体なんだったのだろうか。その内容を思い出すことはできなかった。迷った挙句母親は隣のおばさんに僕を預けることにしたらしい。母親は僕の手を引き隣の部屋のインターフォンを押すと隣のおばさんが出てきて快く僕を預かることを了承し、僕を部屋に上げた。母親は丁寧にお礼を言うとさっさと自分の用事のために去って行った。僕の心は母親に捨てられたのではないかという思いでいっぱいだった。だが、泣けばおばさんに迷惑を掛けて雨が降る寒空の下に放り投げられるような気がして僕は歯を食いしばっていた。おばさんの家は僕の部屋とたいして間取りは変わらなかった。僕は居間に案内され、テーブルに座らされた。おばさんは僕に温かいココアを勧めた。その時ふすまが開いて、色白の若い女性が現れた。僕はてっきりおばさんは一人暮らしだと思い込んでいたので驚いた。この人は誰なのだろうか。するとおばさんがにっこり笑った。
「ああ、娘の頼子よ。仲良くしてちょうだい。」
頼子さんは僕の横に座った。僕は頼子さんに気付かれないように彼女を観察した。僕は彼女の年齢が分かりかねた。彼女は中学生くらいにも、大人にも見えた。そしてまるで一度も日に当たったことのないような白い肌をしていた。彼女は僕に何歳、とか好きな食べ物はと聞いてから立ち上がった。
「こっちにおいで。いいもの見せてあげるから。」
ふすまを開けるとそこにはいたる場所に箱が置いてあった。大きな段ボール箱もあれば小さなお菓子の入れ物もあった。頼子さんは青色の四角いのりの缶を取り出し、畳の上に置いた。そして缶の蓋を開けた。その中には小さな食器棚、キッチン、ベッドがあった。よく見ると食器棚の木は割り箸で作られていてガラスは弁当箱の蓋のように薄かった。キッチンはお菓子の箱で作られていてシンクの部分はアルミホイルが皺ひとつなく伸ばされて貼り付けられ、銀色に光っていた。ベッドの上にあるピンク色の布団は柔らかそうだった。箱の内側にはぴっしり花柄の折り紙が貼り付けてあった。僕はおもわず箱の中の小さい部屋に見入っていた。食器棚の中には厚紙でできた小さな皿が入っていた。良く見るとキッチンのゴミ箱はうがい薬に付いてくる小さな半透明のコップだった。僕は頼子さんにさわっていいかと聞くと頼子さんは壊れやすいからそっと扱ってね、とまるで自分のドールハウスが紙などでできていて脆いことを謝るかのようにそう言った。僕はそっとピンク色の布団に触れた。ほのかな柔らかい感触があった。そして手を引っ込めた。僕が少しでも力の入れ方を間違えれば、この小さな世界は崩壊してしまうと感じたのだ。僕はしばらくそののりの缶の中の世界に見入っていた。頼子さんは近くの壁にもたれかかって僕の様子を見ていた。僕は彼女の指を盗み見た。彼女の指は細く、もやしのように白かった。この細い指で彼女はこの箱の中のドールハウスを作ったのだろう。彼女の指がアルミホイルを伸ばし、箱にぴったりと折り紙を張り、小さな紙の皿を一枚一枚割り箸の食器棚に納めたのだ。頼子さんの部屋はドールハウスの内装とはかけ離れるように箱以外には小さな机が置いてあるだけだった。何時間経ったのだろうか。雨は止んで母親が僕を迎えにきた。家に帰って僕は母親に頼子さんのドールハウスの話をした。すると、母親はあまり頼子さんに関わっちゃだめよ、と言った。その時僕は自分の母親が薄情でちっぽけな人間に思えた。それから僕たち一家は父親の転勤で遠い県に引っ越した。新居は白い壁の新築の真新しいアパートだった。僕の父親はそれを新しい自慢にした。それっきり僕は頼子さんとは会っていない。彼女の苗字すら知らない。今思い返すと頼子さんはなんらかの理由で外に出ない人だったのだろう。学校にも行かないし仕事にも就いていなかったのかもしれない。だが、そんなことはどうだっていい。彼女にはドールハウスを作るという彼女にしかできない使命を持っていた。彼女は今どこにいるのだろうか。僕は考える。今もあの部屋でドールハウスの箱を作っているのだろうか。箱は次第に部屋を侵食して隣の居間にも広がる。いや、ひょっとしたら頼子さんは自分で作ったドールハウスの中で人形のように小さくなって生活しているのかもしれない。あのドールハウスには住人である人形が存在していなかった。あそこに住むのはやはり、頼子さん自身だったのだろうと僕は妙に納得した。