10.カイコウ(後)
「ヴェルガだと?」
ヴァルトルーデの蒼く美しい瞳がすっと細くなる。
ヴェルガ帝国の女帝ヴェルガ。もちろん、その姿を目にしたことなど無いが、話に聞く特徴と、目の前の女の容姿は一致する。
なにより、聖堂騎士たる彼女は、直感的に悟っていた。
あのように邪悪な存在が、他にいるはずもないと。
「いかにも。妾がヴェルガよ」
帝王の風格をまとわせながら、鷹揚に赤毛の半神が肯定する。
「どのようにしてとは、問わぬ」
吸血侯爵ジーグアルト・クリューウィングですら、《悪相排斥の防壁》を越えることができたのだ。
その主であるヴェルガに、どうにかできぬとは思えない。
「だが、なぜ姿を現したかは答えてもらうぞ」
討魔神剣を持たずとも、ヴァルトルーデから漂う善なるオーラに一片の曇りもない。
引き込まれそうになる蒼い瞳には悪を討つ力強い光が宿り、神が長い時間をかけて造型したに違いない相貌には、気高く厳かな美が宿る。
「まずは、宣戦布告。出来得るなら、強奪。あるいは、殲滅かの」
ふしだらと断じてしまいそうになる微笑をたたえ、ヴェルガは挑発的な言葉を発した。
崇敬の対象にすらなり得るヴァルトルーデと同じく、ヴェルガもまた美しい。
だが、それは崇めるのではなく、溺れそうになる美。
玉座を離れているからか、いつも玩んでいた王錫ではなく黒い羽根で飾られた扇を手にし、漆黒のドレスは胸ぐりの開いた挑発的なもの。
破滅を予感しつつも、すべてを捧げずにはいられない。
「いかに半神ヴェルガといえども、万全の状態でここにいられるとは思えぬ。無傷で帰れるとは思わぬことだな」
「その物言いからして、お主が婿殿の婚約者の一人か。名を聞こう」
「ヴァルトルーデ・イスタス」
「憶えたぞ、ヴァルトルーデとやら」
もしこの言葉を聞いていたならば、ヴェルガ帝国の宰相シェレイロン・ラテタルは驚愕を隠すことができなかったに違いない。
傲岸不遜な女帝が、人間の名前を憶えるなど、帝国開闢以来の椿事だ。
「これは……どうしたもんか……」
本来、一番の当事者であるはずのユウトは、火花を散らす二人を前にして、動くことができない。
なにか策を思いつくこともできず、なぜかグラウンドを転々とするサッカーボールの行方を気にしていた。
一方、アカネは事情を完全には掴めないながらも、自分がウィーケストリンクになるだろうことを、しっかりと自覚している。
そして、相手が何者かは分からないが、ユウトを「婿殿」などと呼ぶ以上、自分たちの敵であるとも理解していた。
下手に動いて目立たぬよう。
それでも、なにかあればユウトやヴァルトルーデのもとへ駆け寄れるように集中する。
「それで、女帝ヴェルガよ。宣戦布告とはどういうことであろうか。すでに、我らは交戦状態であるはずだが」
「ふんっ。そのようにつまらぬ戦ではないわ」
淫蕩な唇を扇で隠し、ヴェルガは単刀直入に告げる。
「そこな婿殿を、妾の伴侶に迎えるつもりでな。そのために邪魔な輩を排除せねばなるまい?」
「断る」
一瞬で、ヴェルガの意図も気持ちも理解した。そのうえで、ヘレノニアの聖堂騎士は、即座に答えた。
「ユウトを、誰にも渡すつもりなど無い」
「ヴァル子……」
「ああ、いや。そういうことでは、なくてだな。いいや、やはり、そういうわけでもあるのだが……」
率直すぎるヴァルトルーデの言葉に、ユウトまで顔を真っ赤にして見つめ合う。
腹立ちを見せるかと思われたヴェルガだったが、氷のように冷たい瞳で、面白いものでも見るかのように眺めている。
その雰囲気自体は大いに不満だったが、注意が逸れたと判断して、一人離れていたアカネはユウトの背中へと走っていった。
「朱音、大丈夫か?」
「うん。なんとか……」
近づいて分かる、女帝の大いなる圧力。
気遣わしげにかけられるユウトの声に、アカネは弱々しい微笑みを浮かべて答えた。
「そういえば、婿殿は婚約者は二人と申しておったな」
「彼女は――」
「夫婦の間に隠し事は要らぬ。恐らく、その娘も来訪者なのであろう?」
「三木朱音よ。誰だか知らないけど、私も勇人の婚約者だから」
これほど買い手にリスクのある、売り言葉に買い言葉も無いだろう。それでも、アカネは正々堂々と言い切った。
「その通りだ。女帝だか半神だか知らぬが、割り込む隙などない」
自らの意志を占めるかのように、ヴァルトルーデは更に一歩前へ出て、女帝へと言葉を重ねていく。
「そもそも、婿殿婿殿となんなのだ」
「え? そこ?」
「私は、ユウトが理術呪文を習得するのにどれだけ努力をしたか、知っているぞ。見知らぬ世界で、心細かっただろうに、前向きに生きてきたユウトを見てきたぞ。共に戦い、何度も助け合い、私のために慣れない領地経営まで手伝ってくれたのだぞ」
自分でも、何を言っているのかよく分からなくなってきた。
そんな自覚はあるが、ヴァルトルーデは止まらない。
「私が、ユウトを世界で一番愛しているとは言わん。だが、ユウトは私が一番だと言ってくれたぞ。そんなユウトが、貴様になびくものか。渡せるものか」
子供が危険にさらされた際に動物が見せるような過剰反応だったが、間違いなく本音でもあった。
まるで戦闘を終えた後のように荒い息を吐き、思いの丈をぶちまけたヴァルトルーデは、それでもなお美しい。
けれど、感銘を与えると同時に、衝撃も凄まじい。
「ごめん、ヴァル。ちょっと冷静になっちゃって、私はそこまで言えないわ……」
「頼むから、そのままの朱音でいてくれ。二人してあんなこと言われたら、俺は悶え死ぬ」
「愛されておるの、婿殿」
まるで他人事のように、女帝は淫靡に笑う。
「だがのう。妾としても、はいそうですかと引き下がるわけにはいかぬのよ」
扇を畳み、それをヴァルトルーデへと突きつける。
「見ておらぬであろう? 知らぬであろう? 妾の帝都に島ひとつ落として平然としていた婿殿の表情を。ただ壊すだけならば誰でもできる。じゃが、平和のためにあれをやってのけたのだぞ。そのような男の子がいるなど、想像できようか」
陶然と、恋する乙女のように夢見る少女のように。けれど、乙女も少女も口にせぬ言葉を、奔放な女帝は連ねていく。
「妾の胸の高鳴りを理解できるか? できるのであれば、妾の気持ちも分かるであろう。伴侶とするほかなかろうよ」
「なるほどな」
口元を引き締めたヴァルトルーデが静かに言った。
「引く気はないか」
「お互いにで、あろう」
一触即発。
とにかく場所を変えようとユウトが呪文書へと手を伸ばしたその瞬間。
「《ディスインテグレータ》」
空から、援軍が現れた。
アルビノの少女――ヨナが、問答無用で万物を破壊する光線を放つ。
わずかに眉をしかめたヴェルガは、扇を振るってそれを逸らす。
ピッチに大きな穴が開くが気にしている場合ではない。
「ヨナ、どうして」
飛行する超能力は維持したまま、垂直にヨナが降りてくる。
「ユウトが危険な匂いがした」
「とにかく、助かった」
超能力者特有の超知覚あるいは予知によるものだろう。本人に聞けば「ユウトのことならなんでも分かる」などと否定されそうな気がするが、状況を打破する要因になったのは確か。
「なんと、婿殿には幼女性愛の――」
「ねえよ!」
「それは安心」
くすくすと小さく淫蕩に笑う。
「この胸を小さくせねば愛せぬなどと言われたら、どうしようかと思うたわ」
「くっ」
思わぬ方向からの攻撃に、ヴァルトルーデが傷ついたような表情を見せる。
「ヴァル子、その、なんだ。おれはそういうの気にしないから」
「だが、アルシアの胸は――」
「今、言うことないだろ」
「やれやれ、うらやましいことよ」
女帝の好色な美貌に挑戦的な色彩が加わるが――すぐに霧散する。
「だが、これ以上は無粋よの」
そう言って、ヴェルガは扇をばっと広げた。
「婿殿、せめてこれだけは受け取ってくれぬか?」
いつのまにか、扇の上には印章指輪が乗っていた。それは独りでに宙へ浮かび、ふよふよとユウトのもとへと移動する。
「ヨナちゃんが?」
「ううん。勝手に。突っ返す?」
「いや、受け取るよ」
「ユウト!?」
ヴァルトルーデは抗議の声を上げるが、それ以上の反対もしなかった。
「これは?」
「妾に会いに来る時に、見せてくれれば良い」
「わか――」
指輪の造型を確認してから、ユウトは顔を上げ、了解の言葉を……最後まで口にすることはできなかった。
ひどく男好きのする、淫らで溺れてしまいそうになる美貌。
ヴェルガの顔が視界いっぱいに広がり、唇に生温かい感触が広がる。彼女の朱唇が押しつけられている。
そう自覚した瞬間、さらに口を押し広げ、にゅるりとしたものが押し入り、蹂躙する。
刻が止まった。
「ぷはぁ……」
穢れを知らぬ少女のように――と言うには慎みのない声と表情で、満足そうに息を吐く。
「では、婿殿。待っておるぞ」
扇を振ると、にわかに闇が溢れ、その淫蕩な肢体を包み込む。
その言葉を置き土産に、半神である女帝ヴェルガはファルヴから消えた。
けれど、誰もなにも言えない。
数分後。
「勇人、洗いなさい」
アカネがポケットからハンカチを取り出し、擦るようにして唇を力一杯拭っていく。
「い、痛いって」
「そうだ。洗うんだ」
「《クリエイト・ウォーター》」
押し問答をする三人の横から、抑揚の無い声がする。
その瞬間、頭上から数十リットル近い水が突然降ってきた。
「水かける」
「かけてから言うなよ……」
水に濡れる髪に触れながら言うが、もちろん、自分に発言権とか拒否権のようなものが存在していないことは自覚している。
これからどうすれば良いのか。
ユウトは、途方に暮れるしかなかった。




