1.疑惑
アルサス王子の来訪より、一ヶ月。
冬の寒さは徐々に和らぎ、季節は春へと移り変わろうとしていた。日中は風もさわやかで、今年は春の訪れが早いようだと、領民も喜んでいる。
それが邪悪なる炎の精霊皇子イル・カンジュアルが滅びたからだとは、当事者であるユウトたちも気づかぬことだった。
そんな中、ヴェルガ帝国へ過剰とも言える警告――あるいは報復を行なったユウトは、表面上淡々と政務を行なっていた。
「学校は、まあ、一回やってみないとだな」
以前から計画だけは進めていた初等教育用の校舎建設に目処がつき、現在は教師の選定を進めている。まずは、プレオープンで様子を見るところからだろう。
最初の段階で戸籍を作っておいたお陰で、ファルヴの就学児童数はある程度把握できている。その何割かを順番に……ということになるだろうか。
「教材に関しては……教科書はあるけど、高校のだからなぁ」
このブルーワーズでも確実に役立つのは数学ぐらいのものだろうが、そこまでいくとユウトもアカネも教えられるレベルにはない。
そこはかとなく地球へ戻ってからが心配になるが、あえて目を背ける大魔術師がそこにいた。
「基本は、私塾で使っている教科書を改造して、後は道徳とか家庭科とか体育とかを追加しよう……」
単純な学問より、生活に役立つものが良い。
道徳も、わりと命が軽いこの世界では重要なはずだ。
「後は、サッカーボールとゴールを用意しよう」
私情が入ったその方針を決めるときだけは、ユウトの顔に笑顔が浮かんだ。
しかし、すぐに笑顔を消し、次の政策を検討し始める。
隣国のクロニカ神王国との交易は進んでいるが、貿易摩擦が起きかけていると報告を受けていた。
これは、こちらからの輸出品が玻璃鉄など高価な製品であることに対し、クロニカ神王国からは今のところ農産物ぐらいしか無い。
そこで、あちらから輸出拡大のための展覧会のようなものをやりたいという提案があった。
それに関連し、メインツにもしばらく訪れていないので、視察に行きたい。
また、アカネが仕込み、レジーナが準備をしている新しいファッションに関しても、企画はいくつも動いていた。
ここまでは、順調だ。
関連する書類に目を通していたユウトだったが、その内の一束を見つけ、憂慮のため息をつく。
「これなぁ……。森の管理とかどうしろと」
自然崇拝者が不在となったケラの森。完全にとはいかないまでも、彼らが管理することで、乱伐などは防がれていた。
しかし、今は重しが無くなった状態だ。
暫定的に、岩巨人の部隊を派遣しているが、いつまでもそのままというわけにはいかない。
「この分じゃ、こいつに手を付けられるのはまだ先かな」
次の書類は、ユウトの私的な問題。
東方大陸に関する調査結果だった。
ブルーワーズの東の先には、地球で言う所の日本のような文化圏が存在している……らしい。
推量になってしまうのは、さすがに遠すぎてやりとりもほとんど存在しないからで、ユウトは呪文を駆使していずれ訪れるつもりだった。
目的は、米、みそ、しょうゆだ。
みそやしょうゆは存在しているとは確定していないが、米は少量ながら入ってきている。
こういった食材を手に入れると帰る気が無くなってしまいそうであえて遠ざけていたのだが、もう、地球へ帰ったきりにするつもりはない。
完全に、開き直っていた。
また、一年前に比べて、ユウトの負担は軽減している。
実行段階になればクロード・レイカー率いる官僚団に任せられるようになったからだ。
その分、地球への往復呪文の研究に時間が取れるようになったのだが……。
「地球へ戻る手助け……ね」
ユウトがこの一ヶ月、表には出さず考え続けてきた問題。
女帝ヴェルガからの誘い。
知られていない呪文でも存在しているのか、それとも次元移動に関する秘宝具でもあるのか。
詳細は帝都ヴェルガで……というのが、実に嫌らしい。
相手は悪の女帝だ。
罠である可能性も高いし、真実だったとしても代償――数千人分の魂が必要――を求められるケースも考えられる。
「でも、行くことになるんだろうなぁ」
ユウト一人であれば、無視していたかもしれない。
けれども、ユウトは自分のことだけを考えていれば良いというわけではなくなっているのだ。
「にしても、婿殿とかどこまで本気なのやら……」
あれから特にアプローチも無い。あっても困るが、どうにも相手の真意が掴めなかった。
「私に勝った相手を夫にするとか、そんなアマゾネス的ななにかなのか。いや、アマゾネスの風習なんか知らんけど」
多元大全であれば調べられるだろうが……別に知りたいわけでもない。
結局は、いつ、どのようにして訪問するか。
タイミングの問題だ。
椅子の背もたれにだらしなく寄りかかり、天井を見つめながらユウトはじっと考え込む。
「勇人」
そこへ、控えめなノックとともに、幼なじみの少女が現れた。
「ああ……。朱音か」
ユウトはアカネのことを見ようともせず、拒絶もせず彼女を迎え入れる。
「なにか用か?」
「デートに行くわよ」
お誘いでも、提案でも無く。
決定事項だとアカネが宣言した。
「デート……?」
ようやく、ユウトはアカネに視線を向ける。
上着を羽織ってはいたが、アカネはブルーワーズに来た時の格好――制服を身につけていた。
「絶対におかしいと思うのよね」
アカネがユウトをデートへと誘う数日前。
来訪者の少女は、ファルヴの城塞に住む女子を集め、パジャマパーティを開催していた。
「なんの話だ?」
白い麻のワンピースのようなナイトウェアを身につけたヴァルトルーデは、アカネのベッドの上で小首を傾げる。
強引にアカネの部屋へ集められたのだが――実は、友人と深夜にお喋りというシチュエーションに、期待と緊張が抑えきれない。
肌身離さず身につけている、ユウトから贈られた玻璃鉄のペンダントをまさぐっていた。
そんな乙女のような表情が、また可愛らしく、アカネに軽い敗北感を与えているのだが。
「ユウトくんの話ですよ」
こちらは、いつもと変わらず黒いローブにトラス=シンクの聖印を下げたアルシア。床に敷いたクッションに座る彼女が、そう断言する。
だが、大した推理ではない。このメンバーが揃って、他の話題はあり得ないだろう。
「モグモグ」
「わざわざ口で言って、食べてるアピールしなくても良いから」
最後の参加者であるヨナは、オブザーバーだ。
いつもであればそろそろ寝る時間だが、アカネが用意したお菓子につられて彼女の部屋へやってきた。
ジャガイモは存在しないため、他の野菜で代用したベジタブルチップス。ビスケットに、つい勢い余って作ってしまった甘食。
最近、オーブンの使い方にも慣れ、自分のスキルが恐ろしくなってきたアカネだ。
他にも、程良く冷やした果実水や紅茶も用意されており、準備万端。
「この世界には体重計も無いし、もうなにも怖くないわ」
「それで、ユウトがなんなのだ?」
口の端にベジタブルチップスをはさみながら、ヴァルトルーデが問う。
「隠し事、してると思うのよ」
「そうですね。そんな感じはします」
アカネの指摘に、アルシアも同調する。
いつも通り忙しそうにしていているだけのように見えたが……と、クッキーを唇で半分に割りつつ、ヴァルトルーデは恋人である――と断言するのは気恥ずかしいが――少年の姿を思い浮かべた。
彼女の中のユウトは、やはり、相変わらずだった。
「リハビリ……怪我の治療をしてた時の勇人に似てるのよ。そっちに集中して、サッカーができなくなるという事実から目を背けていた時と」
「そう……なのか……?」
けれど、アカネにはまた違ったユウトが見えているらしい。
「年月の違いか……」
「信用度の違いとも言えるでしょうけど」
「……ユウトが、浮気してるってこと?」
そこに、爆弾が投下された。
皆一様に――アルシアさえも――押し黙り、視線と雰囲気だけで意思の疎通を行う。例外は、投下したヨナだけだ。
「それはないだろう?」
一番初めに口を開いたのはヴァルトルーデ。
しかし、それは否定と言うよりは願望に近かった。
「勇人にそんな甲斐性があるとは思えないけど……」
「私たちに言えないという意味では、否定できませんね」
果実水をあおってから、アルシアさえも疑惑を口にした。
「そういえば、あたし、王子様に料理作った時のご褒美をねだってから、一ヶ月ぐらい放置されてるわ……」
そんな話は初耳。
そこに切り込むべきだったのだろうが、一ヶ月も約束を果たさないと聞いた時点で、ヴァルトルーデは哀しみを感じてしまった。
自分がそんな扱いをされたら……。
「それは酷いな」
木皿に盛られたお菓子を掴み、一気に口へ運ぶ聖堂騎士。ヨナから非難の視線を向けられるが、気にしない。
「まあ、実際はそんなことは無いと思いますけど……」
「あと、勇人ってヨナちゃんやレンちゃんにやたら甘くない?」
「そうだな。だが、ハーデントゥルムのレジーナ・ニエベス。彼女ともなにか親しげのような気がする」
ヒートアップするユウトの婚約者二人に、アルシアの冷静な指摘は届かない。
どう収拾を付けたものかしら……と案じるトラス=シンクの愛娘だったが、意外な所から提案が降ってきた。
「確かみてみたら?」
「確かめてね」
「そう、それ」
お菓子が無くなり、飽きたのだろう。
ヨナが、気怠げに言葉を紡ぐ。
「ユウトを誘って、どっか街に行く」
「それで?」
「それで、色々なんか買ってもらう」
「いつもヨナがユウトにやらせていることではないか……」
「おろか」
ヴァルトルーデが呆れたように指摘するが、ヨナから返ってきたのは平坦な罵倒だった。
「一対一じゃない。みんなで行く」
「みんなで……か」
「なるほど。ユウトくんを外に連れ出し、仕事から切り離して、隠し事を探るというわけね」
そのアイディアにたどり着いた瞬間、少なくともヴァルトルーデとアカネの中では、浮気疑惑など消え去っていた。
元々、信じてなどいなかったのだ。
「そうだな。ユウトは、強制的にでも休みを取らせないとな。まあ、私はどうでもいいのだが」
「そうよね。根を詰めすぎるし。絶対に、私を地球に帰すために無理をするだろうから、その辺も釘を刺さないと」
そんな風に大義名分を振りかざす二人を前に、アルシアは慈母のような微笑みを浮かべていた。




