9.王の資格
闇の球体が被虐の女吸血鬼を押しつぶし、その身を塵へと還元する。
「この外道め!」
その凶行に、ヴァルトルーデが怒りを露わにした。そこまでいかなくとも、ユウトやアルシアも嫌悪感を隠さない。
「自分の持ち物を処分しただけだぞ、聖堂騎士」
しかし、ジーグアルト・クリューウィングは心外だと肩をすくめるだけ。
ある意味で、その反応は正しい。
黒い塵と化したはずの吸血鬼は、そのまま風に乗って消えず、今度は白い霧となった。
そのまま死霊のようにふらふらと、祭壇の間から出ていこうとする。
「ユウト!」
「駄目だ。切れる札がない」
ヴァルトルーデの指示に、しかし、ユウトはなにもできないと首を振った。
吸血鬼は不死身である。
これはある意味で正しく、ある意味で誤解だ。
数々の弱点を突かれれば――人と同じように――死に至るし、今のように再生できないほどの損傷を負えば肉体は滅びる。
けれど、魂は別。
肉体を維持できなくなった吸血鬼は白い霧となって、自らの棺へと移動する。その中で休眠し、長い年月をかけて、再び肉体を構築するのだ。
「……そうか」
霧と化した吸血鬼への対抗手段は限られる。ユウトに否定されたヴァルトルーデは、それを受け入れるほかなく、その分、ジーグアルトへの怒りが燃え上がる。
「不完全な死でも、構わぬ。貴様は、必ず我が手で打ち砕く」
「まったく。騒々しいこと」
そんなヴァルトルーデの怒気に晒されても、人皮の呪文書を手にした吸血魔術師はまったく意に介さない。
ゆっくりとした足取りで主の元に移動すると、呪文書を捧げるかのように差し出して膝をついた。
「どうぞ、お返しいたします」
ジーグアルトは、無言でその魔術師の頭を掴み――引き千切った。
頭部を失った肉体は、そのまま呪文書を捧げるためのオブジェとなる。猛烈な勢いで噴き出した鮮血が、呪文書を真紅に染め上げた。
「エグザイル!」
「任せろ!」
もはや、問い質すこともしない。
ヴァルトルーデが吸血鬼へと突進し、それをサポートすべくスパイクフレイルを振るう。さらに、ラーシアがどこからか《理力の弾丸》を放った。
「《歪みよ顕現せよ》」
ジーグアルトの姿が、まるで万華鏡の様に割れ・伸び・縮・捻られる。
幻像か、それとも空間が歪んだのか。
スパイク・フレイルの一撃はジーグアルトの痩身を通過し、《理力の弾丸》はなぜか首を失った肉体へと吸い込まれ、それを白い霧へと変えるだけで終わる。
「どういうこと!?」
ラーシアの悲鳴に答える者はなく、ヴァルトルーデの突撃は一歩間に合わない。
「英雄諸君と戦うのだから、多少の詐術は認めてほしいものだ」
分け与えていた、理術呪文の行使能力。それを取り戻し、更に上乗せされた力で、ジーグアルト・クリューウィングは呪文書のページを9枚引き裂いた。
真紅の紙片が、黒い吸血鬼を覆い尽くす。
「《時間停止》」
大魔術師し使用できない。いや、これを行使する者を大魔術師と呼ぶ第九階梯
の時間停止呪文。
それを使用可能にするのであれば、確かにこの上ない詐術であろう。
「ちぃッ――《対呪抗魔》」
即座にユウトが打ち消し、事なきを得る……かに思えた。
「ご苦労なことだ。結果は変わらぬというのに」
ヴェルガ帝国の侯爵は、引き抜いたままにしてた吸血魔術師の生首を掲げる。
「《対呪抗魔》」
「なにっ!?」
その呪文は、生首となった吸血魔術師から放たれた。白い魔力光が拮抗し、それでもユウトが押し切る――その寸前、《時間停止》が完成した。
「だから、詐術と言っただろう?」
刻が停止した灰色の世界。無論、その呟きも何者かに届くことはない。
悠々と、散歩でもするかのようにヴァルトルーデやユウトたちの間を縫って祭壇へと近づいていく。誰も彼もが彫像のようだ。
詐術。
最初からすべてが嘘で、すべてが真実だった。
ロートシルト王国の王都セジュールで不死の怪物を生みだし、混乱を引き起こす。
それにユウトたちの注目を集めたところで、その領内にある腐肉の公主テュェラ・ズ・ラニュズの封印を解く。
ああ、嘘だ。大嘘だ。
一人、刻の止まった世界で歩み続けるジーグアルト・クリューウィング。
その瞳の先には――
「なぜ、王に……」
アルサスは、その問いかけに答えることができなかった。
あまりにも根本的で、当たり前すぎて考えたこともなかった問い。そもそも、王の子が、第一王子が、王になる理由など気にする必要があるだろうか?
「では、種を残すためだけに玉座につくのか?」
それはそれで潔いと言えるかも知れぬなと、ユーディットの姿をした分神体が言う。揶揄しているわけではない、本気だ。
「私は、王となってなにを為すのか。なにを為したいのか……」
法と徳をもって国を治める徳治の王。
土地を開墾し、商業を振興し、国を発展させる内治の王。
外敵を打ち払い、他国へ侵略し、版図を広げる武威の王。
「それも、間違っておるぞ」
アルサスが脳裏に浮かべた、いくつかの理想の王。
またしても、それをあっさりと否定するヘレノニアの分神体。
「それを目指すのは、まあ、良かろう。しかし、そんな王に、なりたいのか?」
「それは――」
なれるものなら、なりたいに決まっている。
「……本当に?」
またしても、アルサスは答えられない。
後を継がねばならぬという使命感。
王になることが当たり前と育てられた環境。
それ以外に、王として立つ理由――根源はあるだろうか。いや、必ずあるはずだと、アルサスは必死に記憶のページをめくっていく。
ここが自分の心を投影した世界であるためか、それは簡単な作業だった。
飲み込みが良かったのか、それとも才能か。剣も、帝王学も、すぐに身についた。いや、努力が答えてくれたと言うべきか。
その頃から、将来、父のように国を治めるのだと疑ってはいなかった。
そして、軍を率いて〝虚無の帳〟を駆逐せんとし―― 一部は達成したが、自らは石化し囚えられたのだ。
救出された後も、確かに反対する勢力はあるが、いずれ玉座に就くのだろうと思っていた。そのための努力も惜しんだつもりはない。
王になるのは、当たり前。
王となって、なにを為すのか。
どんな王を、目指すのか。
どれほど記憶のページをめくっても、具体的な像が結ばない。
その事実には、アルサスが愕然とした。
「では、私は、なんになりたかったのだ……」
ヴァルトルーデ・イスタス。
美しく、人と神に愛された少女。ふと、アルサスは唐突に彼女の存在を思い浮かべる。
彼女には、生まれ持った魅力だけでなく、尽力してくれる多くの仲間がいる。王家に臣従を誓わずとも経営していけるにもかかわらず、身を律する度量がある。
どんな王を目指すか。それにも答えられぬ我が身を振り返り、劣等感が刺激され――その瞬間、アルサスは氷が溶けるようにすべてを理解した。
「そうか。私は……」
やっと気付いた、己の夢。
それはあまりにも幼稚で、身勝手で、口に出すのもはばかられる夢。
「私は、英雄になりたかったのだ……」
吟遊詩人が謳う英雄譚の主人公のような、親が寝聞かせに子供に語る物語の英雄のような。
そんな存在になりたかったのだ。
「くっ、ははははは」
自暴自棄の笑いが、アルサスの口から止めどなく溢れ出る。
笑うしかないではないか。
法も徳もない。発展も民の安寧もない。ただ、己の名誉欲でしかないのだから。
「失礼いたしました。私は、王の器にはなかったようです」
ヴァルトルーデやユウトに嫉妬をしていた。
だが、それは為政者としてではない。ただ一人の人間として――英雄を目指し、挫折したアルサスの嫉妬をすり替えただけだったのだ。
なんとおこがましいことだろう。嫉妬に条件が必要とは思えないが、それでも、ねたましく思う資格などありはしなかったのだ。
「仰せの通り、愛する者とひっそりと暮らすか、あるいは剣を一振り持って野垂れ死にましょう」
晴れ晴れとした表情のアルサスが、信仰する神の分神体にはっきりと告げる。まるで、憑き物が落ちたかのよう。
しかし、そのヘレノニアの分神体からは思わぬ答えが返ってきた。
「良いではないか、英雄。王であることと両立できぬわけでもあるまい」
「なんと……?」
「英雄が王になるのではない、王が英雄となるのだ。我は“常勝”ヘレノニアぞ。フェルミナやゼラスがどう言うか知らぬがな」
呵呵と楽しそうに豪快な笑い声を上げる。
ユーディットの姿であることに複雑な表情を浮かべたが、アルサスの思考はすぐに現実の問題を処理し始める。
「では、私はヴェルガ帝国を滅ぼすことで、英雄として歴史に名を残す王となりましょう」
「それは重畳であるな」
善の神性であるヘレノニアにとって、満足いく言葉だったのだろう。ユーディットの姿をした分神体が太陽のように明るい笑顔を浮かべてうなずく。
「ですが、戦をするためにも、金が必要です。それに、兵を養い、増やすためには食糧の増産も必要となりましょう」
「富国強兵であるか。益々、良いな」
国が富み、悪が滅びる。
ヘレノニアの趣味にこれ以上合致する政策もないだろう。
「しかし、それを為すだけの才能があるか?」
「いえ。故に、可能とする人材を集めます」
当然、その中にはヴァルトルーデやユウトも入っている。
「良いのか?」
「臣下の活躍は、王の功績となりましょう」
「逆もまた真であるな」
「もちろんです」
審問は終わった。
ユーディットの姿をした分神体が、右手を高く高く掲げる。
「汝に我が印を授けよう」
掌中に生まれた光の剣。
それが、緑の草原で頭を垂れたままであったアルサスの右手に吸い込まれていく。
痛みはない。
ただ、暖かさだけがあった。
「これが……」
アルサスに、長剣と雷が絡まり合ったヘレノニアのシンボルが穿たれる。
右の手のひらに、なにかの力が宿っているのが確かに感じられた。
「良き王ではないかも知れぬ。戦で死する者の中には、汝に怨嗟をぶつける者もいよう」
「……心得ております」
「だが、それ故に。アルサス・ロートシルト、偉大な王となれ」
「必ずや」
初めて名を呼ばれた。
その感激に身を震わせながら、アルサスは誓いを新たにする。
初めてここに来たときと同様、終局も唐突だった。
一瞬で意識が切り替わり、あの祭壇がアルサスの視界に入る。
「戻ってきたか……」
目的を果たしたという安堵。
自らを見つめ、懊悩を払い、生まれ変わったかのようなすっきりとした気持ち。
それが過ぎ去ると、ここに残したユウトたちの存在に思い至った。
それを確かめるために振り返ろうとし――背後から強い衝撃を受ける。
「待っていたよ」
アルサスが意識を手放す寸前に聞いたのは、甘く聞き心地の良い邪悪な声だった。
EP2、ようやく終わりが見えてきました。




