7.分神体(アヴァター)
「あなたは、いや、あなた様は……」
見渡す限りの緑の海。
なぜユーディットの姿をしているのかは分からないが、見た目通りの存在とは異なる。それを本能的に感じ取ったアルサスは、疑問も持たずに膝を折り、頭を垂れる。
それを当然と受け取ったユーディットの姿をしたもの。
「ふむ。いかように見えておるかは分からぬが、愚かではないようだ」
「私は、アルサス――」
「問おう、我との契約を望むか?」
アルサス王子の挨拶を遮り、ユーディットの姿をしたものが唐突に問いかける。
「王の証を我が身に」
「愚か者め」
即答するアルサスに彼女は、あっさりと前言を翻す罵声を浴びせた。
思ってもみなかった反応に、思わず目を白黒させてしまう。
「我が何者かも聞かず、契約の内容も尋ねず。それで証を寄越せなどと、よう言えたものじゃ」
ユーディットの声と姿をした者は、あきれた口調で馬鹿にしたように言う。
ある意味で、彼女は誠実だった。
「我は、ヘレノニアの分神体である。この地にとどまり、邪なるものの監視をしておる」
分神体。
神々に限らず、強大な存在は自らの知識と意識を分割し、地上や他の世界に派遣することがある。その神そのものとは異なるが、人の身からすれば神にも等しい存在であることは間違いない。
「やはり、ヘレノニア神でありましたか」
「それに気づいていたからと我が言葉を無条件で受け入れようとは、嘆かわしい」
理不尽さを感じないではないが、平身低頭する他ない。ユーディットの声と姿というのも、なんとなくそれを助長している気がする。
「ヘレノニア神よ、邪なるものとは……?」
「うむ。この地にはかつて、奈落との次元門が開いておってな。奈落に住まう悪魔諸公の一人、腐肉の公主テュェラ・ズ・ラニュズの居城とつながってしまったことがあったのじゃ」
ヘレノニアの分神体が、数百年前のことであるから誰にも知られてはおらぬだろうがなと、当たり前のように続ける。
「そのため、我らをはじめとする神々と源素の王たちが直接介入を行い封を施したのだが、絶望の螺旋の牢獄同様、永遠の封印などありえぬのでな」
「重大な地であることは理解いたしました。しかし、それが王の証と、どう関係するのでしょうか」
「そこよ」
何がおかしいのか、ヘレノニアの分神体が花のように笑う。
「我と、源素の王が封の両輪となった。源素の王は上手いことやりおってな。あの大渦でいろいろまかなったのだが、我にはあのようなことはできぬ」
では、どうしたのか。
アルサスにひとつの考えが思い浮かんだが、あまりにも突飛なそれを心の中で否定する。
「その通りよ」
しかし、いかなる手段によって見抜いたのか。ユーディットの姿をした神の欠片が、あっさりと肯定する。否、見抜かれぬとの考えたほうがおかしいのか。
「信仰の力を集め、封印を維持する。そのために、この地域で最も支持を集める人間に我が証を与えることにしたのよ」
「それは……」
反対だったのだ。
その身に証を受けたことで、偉大なる王となったのではない。
偉大なる王であるからこそ、その身から証を失うことはなかったのだ。
「元より聖堂騎士であるその身に、新たな加護など得られぬ。ただ我より証を授けられたとの名誉があるのみ。それも、愚鈍な、民の支持を得られぬ王であると判断したならば、剥奪されるやもしれぬ」
それでも我が証を受けて、王を目指すか。
何故、王となるか。
そなたが、王でなくてはならぬのか。
愛しいおなごとひっそりと生きる。そうせぬ理由はあるのか。
人を堕落させる、砂糖菓子のような声で。
毒々しく、花のように輝く笑顔で。
ユーディットの、アルサスが最も愛する者の声と笑顔で、決断を迫った。
「精神世界で試練を受けてる的な、そんな感じなんだろうか」
「どういうこと?」
長剣を握ったまま動かないアルサス王子の様子を、そんな風に表したユウト。けれど、ヨナには通じなかった。考えても上手くイメージを伝えられそうになかったので、苦笑でその質問を流す。
「さあ、俺たちは今のうちに準備をしようか」
「落とし穴とか、掘る?」
「道具は……なくもないか」
いつも腰にくくりつけている無限貯蔵のバッグを漁れば、スコップぐらいは出てくるだろうか。手持ちの巻物から、呪文で援助できなくもない。
「3メートルも掘ればいいか?」
「深さだけでなく、大きさも大切だろう」
肉体労働の予感に岩巨人と聖堂騎士が顔を輝かすが、これもユウトは笑顔でやり過ごした。
「それより、吸血鬼を迎え撃つ準備をしましょう」
「そうだよ! 不死の怪物に急所を生やす呪文とか、ないの!?」
「不死の怪物を生き返らせてないか、それ」
そんな奇跡、そうそう起きるものではない。
アルシアが吸血鬼などの魅了や催眠を防ぐ《聖なる防護》などを使用し、ユウトも持続時間が過ぎてしまった呪文はかけ直していった。
「今日の呪文は、もうあんまり残ってないな」
呪文書をめくりながら、知らない人間が聞いたら無責任と言われかねない発言をする。
だが、咎める人間は誰もいない。
「いつも通りだ。私たちに任せろ」
「ユウトが《瞬間移動》を残してくれるから、全力全壊できる」
「今、おかしな翻訳が働いた気がするな……。って、そうだ。今回、ヨナは切り札のために温存したい」
「ええー?」
露骨に不満の声を上げ、珍しく頬を膨らませる。
「……おいしいもの」
「は?」
「おいしいもの食べさせてくれたら、許す」
「美味しいものってな……」
アルビノの少女からの無茶な要求に、ユウトが一瞬固まる。
「どこへ連れていけば良いんだ……。いや、分かった。朱音に頼もう」
「アカネに?」
「ああ。例えば、この前食べたハンバーグを野菜と一緒にパンで挟むとハンバーガーというファストフードになる」
「はんばーがー……」
味を想像しているのか、それとも以前食べたハンバーグの味を思い出しているのか。ヨナの色素の薄い肌が期待で赤みを差す。
「他は、肉まん……小麦粉で皮を作ってその中に豚肉とかで作った餡を入れて蒸したのとか。これは、今みたいな寒い時期に食べると美味しい」
「ふんふん」
この辺で止めておけば良かったのに、さらに期待に輝くヨナの瞳に押され、ユウトは思いつくまま口にしていく。
「あと、香辛料たっぷり使うけど、フライドチキンも良いな。ジャガイモがないから、フライドポテトは無理なのが残念だ」
「じゅるり」
「甘い物なら、ドーナッツもあるな。揚げたパンに砂糖やらをまぶしたお菓子だ」
「そ、そこまで言うなら、今回はユウトの指示に従う」
「あ、ヨナが陥落した」
「一緒に珍しいものを食えるオレたちは、一方的に得してるな」
「いや、勝手に作ることになっているアカネのことも考えるべきだろう」
「ヴァルは食べないのですか?」
「アルシアまでも!?」
こんな状況だというのに、リラックスした雰囲気。
そんな中、不意に濃厚な闇が世界を覆った。
それはほんの一瞬で、鋭敏な感覚が見せた錯覚に近いものだったが、一瞬で戦闘準備を整える。
ヴァルトルーデとエグザイルが前線に立って壁となった。敵を撃滅し、ユウトたちを守る絶対の壁。
その後ろにユウト、アルシア、ヨナが並び、ラーシアは自由なポジションを取る。
「出迎え大儀である……とでも言えば良いかな」
闇を背負って、その男は現れた。
見るものに恐怖と甘美な夢を見させる美貌。青白い肌に片眼鏡をかけ、漆黒のコートをなびかせながら祭壇の間に侵入する。
「一度、入ってしまえば、招かれる必要はないらしいな」
「元々、そんなことは必要ないさ。私は、腐肉の公主テュェラ・ズ・ラニュズに招かれているのだからね」
「悪魔諸侯……」
奈落に住まうという、高位の悪魔。不死の怪物の出現はそのせいだったかと、驚く前に納得する。
「まずは、自己紹介といこうか」
そんなユウトの驚きを置き去りにして、吸血鬼は優雅に腰を折った。
「ジーグアルト・クリューウィング。畏れ多くも、この世界で最も尊い悪しき御方より、侯爵位を授けられている」
「ヴァルトルーデ・イスタス。“常勝”ヘレノニアより、魔を討つ剣を授けられし者だ」
善と悪。
ふたつの美が正面からぶつかり合う。
「美しくはあるが……味が容易く想像できる。飽き飽きだ」
「頼まれてもいないのに論評か。どれだけ自意識過剰なのか」
ヴァルトルーデが討魔神剣を抜き放ち、その切っ先をジーグアルトへと向ける。
まさに、一触即発。
「王都で暗躍してたのも、ジーグアルト・クリューウィング、あなたの仕業か?」
そこに、ユウトが割り込んだ。
「そうさ。せっかく、セジュールで騒動を起こしたというのにね。こうも腰が重たいとは予想外だった」
「仕事が忙しくてね」
「それはいけない。私ぐらいになると、寝ている間に使用人がすべて片付けてくれるよ。うらやましいかね、来訪者くん?」
「それはもう」
「ユウト!」
敵と馴れ合うなと、ヴァルトルーデが言った。
「それでは、私がユウトに仕事を押しつけているようではないか」
「あっ、はははははは」
本当に楽しそうに、吸血鬼は哄笑を上げる。
「ああ、なんて愉快なんだ。良い気分だ。だから、苦しまずに殺してあげよう」
そのまま両手を開いて闇の太陽を生み出した。
「《闇の陥穽よ在れ》」
それは闇の光を放ち、ユウトを、アルサスを、祭壇を。
すべて飲み込み、押しつぶし、塗りつぶす。
「魔術の女王、トラス=シンクよ。死後の魂を守る慈悲深き御方よ。死を冒涜する者を、御身自身の力をもって、暗闇を駆逐し、照らし出さん」
同時に、アルシアの祈りが完成した。
「《奇跡》」
彼女を中心に、光があふれた。
柔らかく、暖かな、生者を祝福する光。
それは吸血鬼が生み出した闇と衝突し、拮抗し――相殺した。
「あれ、ブラックホールなんじゃ……」
アルシアの最大の呪文により事なきを得たが、力の片鱗を目にしてユウトは冷や汗をかく。
あれが乱発できるとは思えないが、あまりにも危険すぎる。
「なんて忌々しい光だ。死んでしまうじゃあないか」
「打ち消すのが限界でしたか」
「やれやれ、さすがに同じ手は通用しないだろうねぇ」
余裕を崩さないジーグアルトに対し、アルシアが珍しく悔しさを露わにする。
それが引き金になったわけではないだろうが、空隙を縫ってヴァルトルーデが突進を仕掛けた。
「危ない危ない」
まるで闇から闇へ移動するかのように、瞬時に姿を消して距離を取り、その致命的な攻撃をかわす。
「はァッ」
その出現地点へ、エグザイルがスパイク・フレイルを投げつけるように振るうが、同じように影から影へと移動してその身に不埒な武器を寄せ付けない。
「正義の味方が、たった一人を集中攻撃とは卑怯じゃないのかい」
「民主主義では、数は正義なんでな」
「では、こちらもその流儀に則ろうじゃあないか」
吸血鬼が、パチンと指を鳴らす。
同時にジーグアルトの周囲に黒い円盤が四つ現れた。
「我が眷属たちだ。卑怯とは、言わないだろうね?」
それが消えると同時に、そこから一人ずつ異形の存在が姿を現した。
全身に棘のついた鎖を巻き付けた女。
獣頭人身。直立した狼のような、獣身病の男。
全身を金属鎧で覆い、金属の塊のような両手剣を背負った岩巨人にも匹敵する闇色の騎士。
そして、人皮の呪文書を手にし、露出の多い革の衣装を身にまとった妖艶な美女。
「さて、諸君。闘争を始めよう」




