9.ケラの森へ
「これは、思っていた以上にマズいことになってるね……」
立ち止まって森を見渡しながら、ラーシアが独りごちる。普段の陽気さは、すっかりなりを潜めていた。
ファルヴとハーデントゥルムの間に広がるケラの森。
その奥にあるとされるヘレノニア神の古き祭壇を訪れるため、この森を実質的に治めている自然崇拝者へ使者を送ったが、設定した書簡への返答期限を過ぎても反応はなかった。
無視されているのであれば、それはそれで構わない。やりようはある。
だが、書簡を送ってからの短期間に、返事ができないような状態が発生しているようであれば話は別だ。
「そういう意味では、ボクを派遣したのは良いことなんだろうけど」
鬱蒼と生い茂る木々が月光を遮り、完全に夜闇の中に沈んでいた。
自然崇拝者たちの集落へ赴くも、無人の家々が連なっているだけ。朝から出発していたラーシアだったが、未だ一人の人間も確認できていない。
獣はおろか、虫の声さえ聞こえない完全な夜。
ラーシアは干し肉を乱暴にかみちぎり、無理やりのどの奥へ押し込んだ。
「ユウトたちは、アカネの料理を食べてるんだろうなぁ。いや、あの二人は気苦労がすごいか。やはり真の敵は、格好だけの護衛で美味いもん食ってるエグだ」
さすがのラーシアでも、ヴァルトルーデが酒も食事も堪能しているとは見抜けなかった。
「とりあえず、戻るか進むか……」
森を広く捜索していたため、肝心の遺跡には――近くまでは来ているが――まだたどり着いていない。
夜の闇も、呪文で補えば問題はなくなる。
多少の疲労はあるものの、集中力は失っていない。
冷静に状況を分析し、ラーシアは反対の結論をくだした。
「まだ行けるは、もう危ない。ここは、やっぱり――」
戻ろう。
そう決めたところで、ラーシアは複数の気配を感じた。
同時に、霧が立ちこめ始める。
「あちゃー。なんか来ちゃったよ」
油断なく警戒をするラーシアへ、冒険者としての経験が相手がどんなモンスターかを告げていた。
のろのろとした足音。
一気に低下する気温。
鼻をつく腐臭。
「急所のない連中かよ!」
屍生人、塚人、食屍鬼。
あらゆる不死の怪物の混成軍が草原の種族を取り囲む。食い散らかそうというのか、あるいは仲間にしようとでもいうのか。意図は分からないが、徐々に包囲の輪を狭めていく。
「王都に出た連中と関係があるのかなぁ」
証拠はない。
根拠もない。
「でも、無関係ってことは、もっとありえないよね!」
ラーシアが魔法の短杖を取り出しつつ、そう断定した。
不死の怪物がそれを肯定するはずもなく、一歩一歩確実に迫ってくる。
「理力の弾丸」
振り下ろした魔法の短杖から解き放たれた純粋魔力の弾丸が、屍生人を吹き飛ばす。駆け出し冒険者ならともかく、ラーシアにとってこの程度の相手、問題にもならない。
「うう、オーバーキルだ。もったいない」
そんな余計なことを考える余裕もある。
しかし、ラーシアから笑顔は消えていた。
「数が多いなぁ……」
その声に焦燥は感じられない。
同時に、敵の数が減ったようにも感じられない。
「どうしよ、これ」
生者の存在しない森で、その言葉に応える声は無かった。
「つーかーれーたー」
「本当にお疲れさま」
「死ぬかと思ったわ、ほんと」
「死んでも、アルシア姐さんに頼んで生き返らせてやるよ」
「そういうことじゃないでしょ?」
「はいはい」
ベッドでだだっ子のようにゴロゴロするアカネの頭を、ぽんぽんと撫でてやる。
それで満足したのか、気持ちよさそうに目を細めるとそのままシーツに顔を埋めた。
ユウトのベッドに。
「ところで、なぜ俺の部屋に来る」
もちろん、労いの気持ちは誰よりもあるつもりだ。勝手の違う中、しかも王族相手など本当によくやってくれたと思う。
しかし、もう夜遅い。
未婚の男女が同じ部屋に二人きりという状況に、目くじらを立てる人間がいる程度には。
「今日の私には、ご褒美があっても良いと思うのよね」
「ご褒美か……」
ベッドにうつ伏せになりながら首だけこちらに向けて、蠱惑的な瞳でベッドに腰掛けるユウトを見上げた。
ユウトは、アカネが見た目ほど“軽い”わけではないと知っている。
それでもなお、そんな風に無防備を装って誘う仕草が、彼女の華のある容姿にはよく似合っていた。ヴァルトルーデの顔がよぎらなければ、請われるままご褒美とやらをあげてしまいそうになる程度には。
「今度、なんかプレゼントするよ」
「それは婚約指輪的な、なにか?」
「なにか? って、この上なく特定してるじゃねーか」
「ダメなの?」
「ダメ……ではないけど……」
往生際が悪い。
そう、自分でも思ったのだろう。
脇に手を入れてアカネを座らせ、すぐ近くで目を合わせて言った。
「前に言ってた、ヴァル子と朱音を婚約者にするって話な?」
「うん」
「あれ、一ヶ月ぐらい前に、王様に言った」
「え? なんですって?」
信じられないと、アカネが真っ正面から聞き返す。
「私にも言わず?」
「うん」
「ヴァルにも、まだ言わず?」
「ああ……」
「あんたはバカなの?」
「そうだよ。どっちかを選べなかったバカな男だ」
言った、言ってしまった。
もう後戻りできない一言だ。
ユウトはベッドへ倒れ込み、アカネから視線を逸らす。
「まあ、あれね。そういう優柔不断も、時には悪くないわよ」
「……そうか?」
今度は、アカネがユウトの髪を優しく撫でる。せっかく用意した服がしわになりそうだが、今は良いだろう。
「ええ。天の時、地の利、人の和がそろっていれば」
「戦争でもするのか……。いや、ある意味、そうか」
「そうよ。今回、偉い人に私の宣伝しまくったでしょ? 勇人の女ってことになってなかったら、これからめんどうが起こるとこだったんでしょ?」
「くっ」
気づかれていたとは、思ってもいなかった。
図星を突かれ、珍しくユウトは言葉を失った。
「……で、ご褒美がまだなんだけど?」
「今度って言わなかったか?」
「前金よ」
そう言って男を駄目にする笑顔を浮かべると、アカネがユウトの上にのしかかる。
そのまま二人の距離がゼロになる――ことは無かった。
控えめなノックの音が響き、弾かれたようにアカネが飛び退いた。
「きゃっ」
決して大きな音ではなかったが、効果は絶大。
「頭、沸いてたわ……」
真っ赤になった頬を押さえながら、深く反省する。
疲労で頭が働いていなかったのだろう。冷静になってみると、大胆すぎて我ながらあきれる。
だから、ベッドの上であたふたと居住まいを正しているアカネには、ユウトと彼を呼びに来たアルシアの声は届かない。
「朱音」
「なにか問題が起こったの?」
ユウトの硬い声で分かったのだろう。心配そうにアカネが聞く。
「ああ。ラーシアがちょっとな」
そのまま寝るなよと言い残し、ユウトはアカネを置いて出ていった。
呼ばれなかった。
ということはアカネが役に立つ事態ではないということ。
「戦いが……あるのかしら」
知っていたはずだ、分かっていたはずだ。
ヴァルトルーデは世界を救い、その褒賞として領地を得たのだという。
つまり、世界を脅かした魔王のようなものと戦って勝利したのだ。
ユウトと一緒に。
ユウトも戦ったのだ。ただの高校生でしかなかった彼が。
ユウトがなにをしていても――たとえ人を殺していたって、アカネに責めるつもりはさらさらない。
生きていてくれたのだから。また、会えたのだから。
だけど、そうなると彼女は待つことしかできない。
戦いなど、自分の役割ではない。
そう分かっていても、納得するのに時間がかかる問題だった。
「遅くなった、済まない」
いつもの食堂兼会議室へ、ユウトはアルシアを伴って息せき切って駆けつけた。
「ラーシアが大変なことになったんだって?」
「ああ……。不死の怪物どもに囲まれて……」
エグザイルが重たく低い声で答える。
「生きてるからね! っていうか、怪我ひとつしてないからね!」
「なんだ、ラーシア。エグザイルのおっさんの陰で見えなかった」
「嘘だッ!」
「嘘だけど、この扱いはおいしいなって思ってるだろ?」
「草原の種族だからね。当然だね!」
「まあ、怪我もないようで良かったよ」
「ないがしろにしつつ心配するところを見せるとか、ユウトはほんと天然だね」
「ラーシア、うるさい……」
ユウトとラーシアの掛け合いに、ヨナが露骨に不機嫌な声を出す。
眠たくて仕方がないのだろう。見れば、目をしばたたかせ前後に頭が揺れていた。
「子供か」
「子供ですよ」
ユウトとアルシアが席に着き、ようやくメンバーが揃う。
だが、この問題に関しては、もう一人ゲストが必要だった。
「私が、最後のようだな」
簡素な――けれど、生地も仕立ても一流の――チュニックに着替えたアルサス王子が、最後に部屋へと入る。
いつもヴァルトルーデがいる上座を譲り、代わりに彼女はユウトの隣に座っていた。
「儀式の件で、緊急の話があるということだが」
「詳しい話は、まだ私も聞いてはいません」
「それではラーシア、お願い」
アルシアに促され、ラーシアが椅子から立ち上がって報告を始める。
「まず、自然崇拝者たちの集落はもぬけの殻。死体もなんにも無し」
「それでは、返答がないのも当然だな」
ヴァルトルーデが重々しく頷く。
「そだね。で、ケラの森を慎重に探索してたんだけど、かなり奥の方で不死の怪物がいきなり大発生してさ」
「それは、めんどくさかっただろう」
「うん。あいつら急所ないし。百ぐらいはいたかな?」
結局、包囲網を突破した後は、距離を取りながら殲滅したよと当然のようにラーシアが報告を終える。
「不死の怪物でも、屍生人や塚人は自然に現れるものではないな」
「そうなると例の遺跡が?」
「少し待ってほしい。不死の怪物が、百以上?」
軽く流したユウトたちとは異なり、アルサス王子には――というよりは、普通は――看過できない発言だった。
「見える範囲のは殲滅したから、すぐに他へ飛び火ってことは無いと思うよ……思います」
「いや、緊急時だ。言葉遣いなど、どうでもいい」
「それは助かるなー」
建前などものともしないラーシアが、口調はおろか姿勢まで自由にする。そして、その言葉を聞いていたわけでは無いだろうが、ついにヨナは陥落してアルシアの膝の上に頭を乗せていた。
「アルサス王子も、同じことはできるのではないか?」
「屍生人程度に、後れを取るつもりはないが」
それでも、百以上を同時に相手取るというのはぞっとする話だ。
アルサスは、エグザイルへとそう返答する。
「タイミングから考えると、ラーシアが言っていた王都での事件との関連も疑われるところだけど……」
「その件は、宰相から伝え聞いている。解決には、至っていないようだがな」
「不確定な話ではありましたからね。ところで、例の遺跡や祭壇に関して、屍生人が出現するような伝承などはなかったのでしょうか?」
首を振って静かに否定するアルサス。
王家の秘として語れないこともあるだろうが、これは本当に無関係のようだった。
「アルシア姐さん、明日にでも」
「ええ。神託を授けてもらいましょう」
情報が出そろったためか、沈黙が訪れる。
「行くしかあるまい」
それを打ち破ったのは、ヴァルトルーデの静かな言葉。
たった一言で皆の瞳に士気が宿り、一気に戦う集団へと生まれ変わる。
アルサス王子を除いて。
「殿下?」
「いや、すまない。そうだな。申し訳ないが、明日以降の予定は取り消させてもらおう。私自ら乗り込んで、真相を確かめさせてもらう」
「承知いたしました」
ユウトが聞き入れることで、方針が確定する。
「しかし、こうなると留守番を残したいところだけど……」
そう言って顔を見回すが、誰一人として残留を望む者はいなかった。特に、ヴァルトルーデを残しでもしたら、尾を引きそうだ。
「信用ができて、実力があって、すぐに招聘に応じてくれる。そんな相手が――」
「……適任者に一人心当たりがある」
そう言ったユウトは、笑顔を浮かべながらとても嫌そうな顔をするという、困難な行いを達成していた。




