09.追うモノ、追われる者
「ギッガガガアアッッッ!!!!」
「くっ」
耳をつんざく咆哮。
魔法的な効果は――まだ、ない。
いくらレッドドラゴンとはいえ、目の前の個体は生まれたての雛のようなもの。
周囲を恐怖で満たす圧倒的な霊気も、物理的・魔法的な防御能力も備えてはいない。
それでも、脅威は本物。
狼たちを焼き尽くした残骸の上に立ち、再び大きく口を開いた。
炎の吐息がくる。
逃れられないと悟ったユウトは地面に伏せ、なんとかやり過ごそうとする……が。
「……遊んでるのか」
しかし、予想された炎はこなかった。
自分で勝手に地面に倒れて泥だらけになったユウトを前に、ギィギィギィと汚い笑い声をあげるレッドドラゴンの雛。
生態系の頂点に立つ絶対王者は、子供であっても可愛らしさなど微塵もない。ただただ、憎たらしいだけだった。
「どうする……なにができる……」
呪文書に記した呪文。巻物に残された呪文。
地面に倒れたまま必死に思考を巡らすが、打開策は出てこない。
「ギギャギャギャッ」
ドラゴンとしては小さな。
しかし、馬と同じ程度の体を浮かせてユウトへと落下するレッドドラゴン。
「考える時間もなしかよっ」
その押しつぶし攻撃を、なんとか地面を転がって避ける。
「くっ、そっ……」
だが、運悪くドラゴンの爪先がユウトの左腕に引っかかった。
ドラゴンにしてみれば、ただじゃれただけかもしれない。
けれど、ただの人間。それも、地球の高校生にとっては致命的だった。
なんとか起き上がりつつ、呪文書を小脇に抱えて傷口を押さえる。だが、血が流れるのは止まらない。
じくじくと痛む。どの程度の深さなのか、確認するのが怖い。
どこか落ち着いた場所で、補給した魔法薬を使わないと待っているのは失血死だ。
「これじゃ、呪文も使えねえな……」
ゲームではないのだ。理不尽なまでに強い相手と遭遇することはあるだろう。
ゲームではないのだ。一度負けて、成長して再挑戦……など都合よくできるはずもない。
負けたら死ぬのだ。
死んで終わりの世界ではないが、わざわざ金をかけて復活させてくれるとも思えない。
負けたら終わりだ。
ヴァルトルーデとも会えず。
地球にも帰れず。
それで、終わりだ。
「ちっ、くしょうっっ」
ユウトは走った。
呪文を使う余裕はない。残った呪文で、どうにかできる当てもない。
だから、ユウトは走った。
「ギギィ、ギャギャギャッッ」
つかず離れず。
レッドドラゴンの雛は、ユウトの背中を追って翼をはためかす。
時折、思い出したように爪を繰り出してユウトを狙う。
「くっ」
「ギャギャッ」
攻撃するのが目的というよりは、それで慌てふためく様を見るのが目的なのだろう。
身をよじり、速度を上げてなんとか逃れようとする。
「ギャギャッ」
それでまた、レッドドラゴンの雛は楽しげな声をあげた。
頑丈なおもちゃ。
それは、レッドドラゴンにとっては得がたい存在。
「はっ、うっ、はあ……」
ユウトは走った。ぽたぽたと血を流しながら、走り続けた。
古傷の膝が痛む。サッカー部で現役だった頃でも、ここまで必死になったことはない。苦しいを通り越して笑えてくる。
それでも、ユウトは走った。傷の痛みも忘れて走り続けた。
目的地も成算もなにもなく、ただ死神の鎌から逃れるためだけに走った。
下生えに足を取られそうになり、枝で顔を切っても、レッドドラゴンの追跡速度が遅くなるようあえて鬱蒼とした森の中を進む。
走って。
走って。
走って。
目の前が大きく開け、川に出くわした。
上流で雨でも降ったのか。かなり流れが速い。
逡巡したのは、一瞬。
「ドラゴンよりは、マシだろ!」
呪文書や巻物は、きちんと防水処理が施されている。
師匠から聞いたその情報を信じて、勢いよく川へと飛び込んだ。
火照った体に、冷たい水が気持ちいい。
腕の傷から流れる血が、川に消えていく。
あっという間に急流が体を捕らえ、水分を含んで重たくなった服も関係なく下流へと運んでいく。
「うわっ、ぷっ」
流木を掴んで、なんとか傷口を水面から出す。
「ギィガガガガッ」
そこに、苛立ったようなレッドドラゴンの雛が飛行し様の攻撃。掠め飛ぶような軌道で接近し、爪の攻撃を見舞う。
「うっぷ」
だが、ちょうど流れが合流するところでユウトの体が沈んだ。そのせいで、爪は空を切り姿勢を崩す。
彼我の距離が、今までになく開いた。
「ギャギャガ」
レッドドラゴンの雛は、ついに追跡を諦めた。
ほっと息をついたのも、束の間。
「この音……滝!?」
水が落ちる音。
さらに、速くなる流れ。
滝壺に落ちる。
どこからか、「それは逆に生存フラグよ」という幼なじみの声が聞こえた気がした。
慌てて流木を手放し、目の前に迫っていた大きな岩に取りつく。
「俺は、そんな主人公じゃねえよっ」
もし主人公だったら、格好良く呪文でドラゴンを倒しているはず。
それなのに、現実はなんとか岩にしがみついている。
ユウトは、自分のできることを確実にこなしていった。
即ち、腕の傷に眉根を寄せながらも、少しずつ滑らないよう慎重に川岸を目指す。
これが映画だったら、流木が流れてくるとか肝心なところで足を滑らせるところだろう。
「サメ映画だったら、川でも関係なくサメが襲ってくるな」
幼なじみと見たB級。いや、C級映画だろうかを思い出す。なぜか、アマゾンの奥地にサメがいた無茶苦茶な映画だった。
めちゃくちゃつまらなかったが、その思い出がユウトに力を与えてくれた。
それで、気力が回復したのか。それとも、ようやく幸運の女神がこちらを見てくれたのか。
なんとか川を横断し、危機から逃れることができた。
川岸に倒れ込み、全身を投げ出す。
固い石も、まったく気にならない。
息を整えようとし、傷の痛みを思い出す、腰に差した保持具から魔法薬を取り出し、一息に飲み干した。
傷は治っても、さすがに体力はどうにもならない。立ち上がることもできず、ユウトは憎たらしいほど青い空を見つめる。
「レンがいなくて良かった……」
そんな状況で思い浮かんだのは、小さな姉弟子のことだった。
「マジかよ……」
なんとか気力と体力を回復し、樹上のハンモックへと戻ったのは日が落ちてから。
しかし、そこにはすでにハンモックは存在していなかった。
「なんで、俺の拠点が分かったんだ……」
木は無事だが、その間につないだハンモックは残していた背負い袋と一緒に焼き払われていた。
明らかに、レッドドラゴンの雛の犯行。
もう少し成長していたら、こんなところまで入り込めなかっただろう。雛だからこそできた所行。
全身から力が抜け、わめき散らしたくなる。
……その激情をぐっとこらえ、ユウトはできることに注力する。
「仕方ない。今日は元のキャンプ地に……」
しかし、それも駄目だった。
「マジかよ……」
元のキャンプ地も、綺麗に焼き払われていた。
あるいは、ユウトを逃した鬱憤晴らし――八つ当たりなのかもしれない。
「どうするよ、これ……」
呪文書は肌身離さず。
巻物や魔法薬も、腰に差した保持具に入れて無事。というよりも、川で流されているときも自分の体よりも大切にしていた。
そもそも、冒険者の蛮用にも耐えられるようになっているのだから問題はない。
逆に言うと、ユウトにはそれしかない。
ヴァルトルーデから預かったスコップも失われてしまった。
「は、ははははは……」
笑うことしかできなかった。
その笑いも虚ろだ。
「……待て、落ち着け。自棄になるな。ここで冷静さを失ったら、本当に終わりだ」
自分で自分の頬を叩き、ユウトは強引に理性を取り戻した。
けれど、それで起死回生のアイディアが思い浮かぶわけではない。
とりあえず、身も心も休ませねばならない。
その方策はひとつだけ。
「《安全圏》を使うしかないのか……?」
地面に突き刺したナイフを中心にして狭間の次元界への入り口を作り、人間サイズの生き物を8名まで収容できる理術呪文。
巻物から使用することはできる。
だが、簡単に使っていい物か。保持具を掴みながら、ユウトは思考する。
巻物には、ふたつの用途がある。
ひとつは、魔術師の学習用。
巻物の内容は失われてしまうが、代わりに魔術師の脳へと刻まれ呪文書へ転写し自らの呪文として使用できるようになる。
もうひとつが、そのまま呪文を解き放つ用途。
同じく巻物の内容は失われてしまうが、一日の使用回数を超えて呪文を使用できる利点がある。
ユウトが悩んでいるのは、ここで《安全圏》の巻物を使用したら、それで終わり。明日以降は使えなくなるから。
今日の安眠か。
明日以降の安全か。
「そんなの、決まってる。今日生き延びなきゃ明日なんかこない」
完全に、貧者のジレンマに陥っている。
その自覚はあったが、どうしようもない。
「《安全圏》」
巻物が空中でナイフの形を取り、地面に突き刺さる。
ユウトがそれに触れると、この世のどこでもない白い空間へと一瞬で移動した。
もう、限界だった。
ユウトは気絶するように倒れ伏し。
そして、泥のように眠った。
ドラゴンが生き延びた!(快挙)
なお、次回で番外編完結です。