08.レベルアップ
その時が来たのは、突然だった。
前触れもなく、予感もなかった。
「……あれ? 分かる? 分かるのか……。そうか、そういうことだったのか……っっ!」
狼にリベンジを果たし、樹上のハンモックへ戻ったユウトは巻物を手に興奮していた。彼を知る者が全員驚くほどだ。
今までぼんやりとしか理解できずにいた、第二階梯の理術呪文。
その構成式が、理解できるようになっていた。水が染み渡るようにすっと。そうなるのが当然のように、はっきりと。
いくら練習してもできなかったプレーが、ある日いきなり実戦でできるようになる。
サッカーと同じ感覚を、魔術でも味わう日が来るとは思わなかった。
ぱさぱさの携帯食を食べていたからではなく、興奮にユウトの口が渇く。
「《透明化》、《蜘蛛の糸》、《炎熱塊》……って、《安全圏》の呪文があれば最初からこんな苦労は……」
学習用にと持たされていた、各種呪文の巻物。それを背負い袋から取り出し貪るように読み始める。
対象を、呪文名の通りに透明化する《透明化》。
何者かに敵対的な行動を取ると解けてしまうが、逆に言えば必ず不意打ちを仕掛けられるということでもある。ラーシアからすると垂涎の的だろう。
粘着性の糸を召喚する《蜘蛛の糸》。
四隅に支えは必要になるが、広い範囲に放たれた《蜘蛛の糸》は集団をあっさりと拘束する。
イルカのような形の炎の塊が物質界に留まり周囲を焼き焦がす、《炎熱塊》。
術者のコントロールに従い、ある程度の距離を移動させることもできる。つまり、持続するということ。一回撃って終わりではないのは、一日の呪文使用回数に制限がある魔術師には特に有用。
そして、《安全圏》は地面に突き刺したナイフを中心にして狭間の次元界への入り口を作り、人間サイズの生き物を8名まで収容できる理術呪文。
持続時間は8時間。見張りをすることもなく、ぐっすりと眠ることができるだろう。
「当然だけど、どれも第一階梯の呪文より使い勝手がいいな……。見習いじゃないけど、所詮第一階梯だけじゃ駆け出しってのがよく分かるぜ」
できることが一気に広がったと興奮していたユウトが、意気消沈してため息を吐く。世界一有名な名探偵のような躁鬱振りだが、ある意味で当然。
「《安全圏》、最初から使えてたらレンも……」
両肩が、どんと疲労で重たくなる。
第一階梯程度で充分に成長したと認識していた思い上がり。
なぜもっと早く憶えられなかったのかという腹立たしさ。
下を見れば後悔しかなく、上を見れば果てしない。
「……いや、全部未練だな」
ユウトは、巻物や呪文書を一旦背負い袋に仕舞い込んだ。代わりに、狼を撲殺してひしゃげたヴァルトルーデのスコップを取り出す。
「《修理》」
呪文で借り物を直し、原点に立ち返る。
理術呪文は、どんなに素晴らしくても道具に過ぎない。それを生かすも殺すも使い手次第。
そして、いくら理術呪文でも刻は止められても巻き戻すことまではできない。
「とりあえず、寝よう」
興奮した今の状態で、呪文の見極めができるとは思えなかった。
一度リセットするしかない。
ユウトは樹上のハンモックに横たわり、無理やり目をつぶった。
支えのない、寝返りを打つのも命懸けの寝床。
にもかかわらず、しばらくしてユウトは寝息を立て始めた。
自分が用意した装備で事故が起こらないように、しっかりと点検するはず。
なぜか、そんな信頼があったから。
もちろん、帰ってからラーシアはそのことをねちねち言ってくるのだろうけど。
今のユウトにとっては、それすらも楽しみだった。
「《理力の弾丸》」
「ブモオオオッッ」
呪文書から切り放たれたページが光の矢となって、こちらへ突進してきたイノシシの鼻面を強かに打ちすえた。
一本ではなく、二本続けて。
さすがにそれだけで倒すことはできなかったが、力量を示すには充分。
丘のようなイノシシが、泡を食って逃げ出していくのをユウトはそのまま見逃した。倒した証明は得られなかったが、もう、そこは重視していない。
自分自身で、成長したという実感があればそれで充分。
そして、《理力の弾丸》の呪文でそれを実感した。
術者の力量が上がると、既存の呪文も威力や持続時間が増す。そうなれば、かつては使い物にならなかった呪文も自然と評価が変わってくる。
魔術師とは、刻々と変わる環境や条件を見定め最適な選択をしなければならない存在なのだ。
ヴァルトルーデたちとともに冒険をするのであれば、少なくともそこはクリアしなければならない。
「修業は、残り五日か」
さすがに、また次の階梯へ進めるとは思えない。
魔術師の最終段階である第三階梯は象徴とも言える《火球》の呪文もあり、一刻も早く使えるようにはなりたい。
だが、焦ってはいけない。今は、ここでしっかり足固めをするべきだろう。
「あとは、第二階梯の呪文を試したいところだけど……」
そうそう、都合良く野獣と遭遇できるはずもない。
欲はかかずに樹上のハンモックへと戻ろうとしたその時。
「囲まれてる……な」
もう、何度目になるか分からない。
森の中。鬱蒼と茂る草木で見えはしないが、気配で分かった。
「グルルッルルルウゥゥゥッッ」
低いうなり声とともに現れたのは、狼の群れ。
すっかり因縁の相手になってしまった。
ユウトは視線を鋭くして、表情を険しくする。
狼たちの瞳は、ユウトを獲物として――だけでは見ていなかった。
復讐心。
それが視線にも声にも表れている。
ユウトはすっかりリベンジを遂げた気でいたが、向こうからするとそうではない。
一人は重傷に追い込んだが、胃に収めたわけではなく。
撤退を余儀なくされ、まんまと逃げられもした。
そして、群れの仲間も撲殺された。
それをどこまで正確に認識しているのか分からない。
そして、差し引きで簡単に片付けられるような話ではないだろう。
それでも、明らかにマイナス。
ユウトが狙われる理由は、充分過ぎるほどにあった。
しかし、黙ってやられる理由はひとつもない。
「《蜘蛛の糸》」
後ろに下がって狼の群れ全体を効果範囲に収められるよう、ユウトは呪文を唱えた。
実戦でのデビューとなったが、発動は完璧だった。
白い粘着性の糸が、周囲の木々や地面を支えとして出現。
ユウトに襲いかかろうとしていた狼たちを絡め取った。だけでなく、そのまま周囲一帯を真っ白な《蜘蛛の糸》が埋め尽くす。
ここがもしダンジョンの通路だったら、完全に塞いでしまっていただろう。
「キャウウンウナウンンギャッッッ」
爪や牙では《蜘蛛の糸》を食い千切ることはできず、逆に絡まってしまう。
この呪文の持続時間は約20分。
炎には弱いが、狼が使えるはずもない。
もはや、生殺与奪の全権は握ったと言っていいだろう。
これもまた、あの夜に使えていればレンをあんな目に遭わせずに済んだかもしれない呪文。
だから、二度とそんな後悔をしないようにこれからも呪文という手札は増やしていく。
ユウトは、悶える狼たちを見ながら決心する。
――その時。
ばさりと音を立て、頭上からなにかが降ってきた。
「なんだっ!?」
然程大きくはない。
精々、馬と同じぐらいのサイズだろうか。
しかし、それが翼を持ち。赤く燃えるような鱗と太い爪を備えているとなれば別。
まだ大きくはない口から放たれた炎の吐息が《蜘蛛の糸》諸共、狼たちを灼いた。
「ドラゴン……なん……そうか……ドラゴンがいたから……」
思い出すのは、あの夜のこと。
この世ならざる怪獣王の咆哮で狼の群れを追い散らしたが、ユウトの呪文が良かったからだけではない。
存在していたのだ。
あの怪獣王の咆哮を出しかねないと考えられていた生物が。
この森には、いたのだ。
それが、爬虫類のギョロリとした瞳をユウトへ向ける。
怖気。
その縦に割れた瞳からは、なんとも言えない嗜虐心がにじみ出ていた。
子供が、楽しそうにアリの巣に水を注ぐような。
悪意のない残虐さ。
純粋で曇りのない暴力。
単なる偶然。
ユウトのことなど認識しておらず、ただ通りがかっただけなのか。
それとも、最近縄張りの近くで粋がっている動物がいるので見物にでも来たのか。
分からない。
人間にドラゴンの意思を推し量ることなど不可能だ。
確かなのは、そう。
狼狽する魔術師を眺め、赤竜はニィと嗤った。
ただ、それだけ。
今度のドラゴンは最強だ!(レベル比)