06.撤退
レンがまぶたを閉じた。
その瞬間、ユウトは心臓から冷たい痛みを感じた。まるで、幽鬼の手で掴まれたようだ。
死。
今まで、野獣たちの命を奪ってきた。ならば、逆も覚悟すべき。
そんな理屈など、大切な人が失われようとしている現状ではなんの役にも立たない。
「魔法薬だっ」
やるべきことをやる。
ユウトの思考は、瞬時に切り替わった。
テントへ駆け戻り、無事だった荷物から魔法薬の瓶を取り出す。
大丈夫。気を失っただけ。間に合う。充分に間に合う。
そう言い聞かせながら、キャンプの中心。火が消えたたき火の側へと駆け戻る。
「レン、頼む飲んでくれ」
無事だった虎の子の魔法薬。
その栓を抜き、口元へ近づける。
最悪、口移しでも。
そこまで覚悟を決めていたユウトだったが、杞憂に終わった。
どろりとした液体が唇に触れると、レンは口を開き。少しずつ、だが確実に嚥下していく。
「良かった……。これで、なんとか……」
レンの全身が、淡く光る。
まるで逆再生するかのように傷が塞がっていくのが分かる。魔法薬はただの治療薬ではない。司祭の奇跡を水薬にしたものだ。
ゆえに、傷は塞がっても失った血は戻らないなどということはない。
「レン、どうだ? 痛いところはないか?」
「…………」
しかし、レンからの応えはなかった。
星明かりの下だったが、見れば傷がすべて塞がったわけではないことが分かる。
「傷薬もっ」
またテントに戻って塗り薬を手にし、そのまま出ていこうとしてから着替えが必要なことに気付く。
「悪い、レン。今は我慢してくれ」
ボロボロになってしまった服をいろいろと苦労しながら脱がし、布で綺麗に拭いてから傷薬を塗っていく。
もう、この服は《修理》でも修繕できそうにない。
不器用な手つきで包帯を巻き、新しい服を着せた。
治療を終えたレンを、テントへと運び横たえる。
これで一安心。
そう思ったが、レンが目を醒ます気配はない。
それどころか、顔には汗が浮かび呼吸も苦しそうだ。
「まさか、病気か……?」
神の奇跡を再現した魔法薬。
ただし、病気には効かない。
これは、元にした呪文がそうなのだから当然だ。
「レン、レン、レン……」
汗を拭く。水で濡らしたタオルを額に載せる。手を握る。
だが、レンは苦しそうに目をつぶったまま。
名前を呼ぶ度に、不安が増していく。
破傷風に、敗血症。もしかしたら、狂犬病。
医療知識の乏しいユウトでも、怪我からの感染症の恐ろしさは理解している……つもりだ。
もし、そんな病気にかかっていたら……。
「落ち着け。今日は、補給の日だ。助けは呼べる」
だが、こんな状態のレンを残してはおけない。
つまり、レンを背負って合流地点まで戻ることになる。
最悪、共倒れ。
きっと、その判断は誤りだ。
それでも、ユウトは揃って生き延びる方策を練り続ける。
荷物はすべて残す。というよりも、どうでもいい。修業の成果である獲物の角や牙も、ポケットに入る分だけしか持っていかない。
今日の呪文も、攻撃呪文や足止めの呪文は捨てる。
ただ、二人で移動するためだけに呪文は使う。
「絶対に、二人で帰ろうな」
レンに声をかけ続け、汗を拭き、手を握りながら夜明けを待った。
まんじりともせず朝を待ち、日が昇ると同時に行動を開始した。
「《縄芸》」
修理しておいたロープを操り、がっちりと巻き付けた。
貴重な理術呪文の枠を使ってしまうのは、ユウトとしても舌打ちしそうなほど悔しい。
けれど、レンを背負ったままロープで結びつけるなどできそうになかった。かといって、しっかり縛っておかないと安定しない。
まさに、命には代えられない。
「《全速転進》」
続けて使用したのは、走る速度を上昇させる理術呪文。
リトリート。
ユウトに馴染み深いサッカー用語では、後退しつつ守備をすること。
つまり、撤退。
まったくもって、その通りだ。全速で全力で逃げ帰る。
「レン、ちょっとだけ我慢してくれよ」
「……う……ん……」
うめき声なのか、返事なのか。
分からないが、生きて呼吸してくれているだけでユウトはうれしかった。
軽く息を吐いて、同時に覚悟を決め。
ユウトはテントから出て、足にすべての力を込めた。
怪我で足をやってから初めての全力疾走。
治っているからか、それともアドレナリンが出ているからか。膝に痛みは感じない。
レンの重みも、ほとんど感じなかった。元気になったら、たくさん食べさせないと。
関係ないことを考えながらも、スピードは落ちない。
普段の倍。あっという間に、景色が流れていく。
しかし、それは短距離走の速度でマラソンをするようなもの。無謀すぎる。
それを可能とするのが理術呪文。
むしろ、呪文の持続時間内にどれだけ移動できるかが勝負。
自分の庭とまではいかないが、もう慣れた森の中
野生動物でも出せないような速度で、レンを背負ったユウトは走る。
不安はある。というよりも、恐怖しかない。
それでも、今は走ること。それだけしかできない。それしかない。
やりたいことと、やるべきことが重なり、ユウトはかつてない集中力を保っていた。
経験したことがない高速で移動しているにもかかわらず、足下のくぼみはきちんと避け、枝が自分だけではなくレンにも当たらないように配慮している。
レーサーをも凌駕する集中力。
けれど、それに水を差すかのように前方の茂みが動いた。
慌てて立ち止まり、なにかが出てくるのを待つ……。
「なんだ、風か……」
だが、なにも出てこなかった。
安堵の息を吐き、そうしてまた走り出そうとしたその時。
低い、うなり声が聞こえてきた。
いくつも。
今度は、気のせいではなかった。
毛皮はごわごわして。
目は血走り。
威嚇の声を上げ。
牙も爪も鋭い。
そんな獣が、周囲を取り囲んでいた。
狼。同じ群れかは分からない。
けれど、こっちを追いかけてくるのであれば一緒だ。
「相手してやる余裕なんかねえぞ!」
レンが聞いたら驚くだろう、乱暴な口調。
ユウトは怒っていた。なにに対してかは分からないが、とにかく怒っていた。
魔術師らしい冷静さなどかなぐり捨て、包囲されていることなど無視して。
ただ正面を向いて再び駆け出した。
虚を突かれ、慌てて放たれた牙は虚空を噛んだ。
しかし、それで諦めるような狼の群れではなかった。
一瞬で態勢を整えると、自棄のような速さで森を征く人間を追う。
ユウトは、それをほとんど気にしていない。
他者は関係ない。自分との戦いだ。
それはつまり、《全速転進》が切れるまでの勝負。
命懸けの追いかけっこが始まった。
レンを背負ったまま、ただまっすぐに走り抜けていくユウト。
獣の誇りで、それを追いかける狼の群れ。
石を蹴飛ばし、大木の横を駆け抜け、下生えを踏み、枝を払いながら獣道を征く。
森が拓けた。
しかし、そこはゴールではない。
合流地点は、まだ先。
狼の群れは、勝利を確信した。
いや、していた。
最初から、ここに追い込んでいたのだ。
この崖に。
にもかかわらず、ユウトは止まらなかった。
そのまま駆け抜け、崖から――空に飛んだ。
「レン、命を預けてくれ」
レンの次に大事に持っていた呪文書から、1ページ切り取る。
それを宙に放って呪文を発動させた。
過去最高の集中力。過去最高の速度。
それに本人は気付かず、ゆえに完璧な呪文発動となった。
「《浮遊》」
術者自身と、その荷物を縦方向に浮かべることができる第一階梯の理術呪文。
魔法の浮力によって落下せず、空に漂う。
狼の牙も、爪も届かない虚空に。
当然だが、浮かばすだけでなく下ろすことはできる。
悔しそうな狼の声は、もはやBGM以上の意味はない。
「まあ、結果としていいショートカットになったか。レン、もうちょっとだけ辛抱してくれよ」
地面に足が付かない不安のほうが大きい。
負け犬の遠吠えを背に、ユウトとレンはゆっくりと崖から落ちていった。
《全速転進》が解けてから、どれだけ走り続けただろうか。
時間感覚など完全になくなったユウトは、それでも諦めることだけはしなかった。
絶え間なく動き続けた足は、その持ち主と大切なものを目的地へと運ぶことに成功した。
「ユウトくん、レン!? 無事なの!?」
「良かった。アルシア姐さん……」
真紅の眼帯をした死と魔術の女神の司祭を目にし、ユウトは安心して吐きそうになった。
神が実在する異世界に迷い込んでから、その存在に感謝したのはこれが初めてだった。
今なら、入信してもいいと思えるほど。
「夜、狼に襲われて、それで……」
「ええ。大丈夫よ、ユウトくん。なにも心配は要らないわ。そこに寝かせてちょうだい。ゆっくりね」
言われるままにロープを解き、
「怪我をして、熱を出しているのね。ええ、大丈夫。私が呪文で癒すわ」
「お願い……します……」
「その次は、ユウトくんの診断ですからね」
返事もできず、ユウトはその場で大の字になった。
テルティオーネは地面に横たえられた娘の姿を一瞥し、アルシアに任せれば問題ないと判断したのだろう。
一服しようとして、手にした煙草の向きが逆だったことに気付く。
何事も無かったように紙巻煙草を戻すと、今度はユウトへを見下ろした。
「ご苦労だったな。修業はここで終わり――」
「続けます」
「やめとけ、意地を張るもんじゃあねえぞ」
「続けます」
意固地になっているわけではないようだ。
ただ真剣な弟子の瞳に、見下ろしていたはずのエルフの魔導師は気圧される。
「ここでやめたら、レンが哀しむ。だから、俺だけでも続けます」
説得は無駄。
そう悟ったテルティオーネは、今度こそ正しい向きで煙草をくわえて火を付けた。
「分かった。ただし、補給物資はちゃんと持って帰れ」
「それはルール違反では?」
「こっからは、ユウト。お前一人の修業。最初からやり直しだ。だから、好きなだけ持っていけ」
「分かりました……」
「ああ、それから。しばらく休んでいけ。こいつは、師匠の命令だ」
しかし、ユウトは答えない。
答えられない。
安心して、疲労は限界で。
そのまま、気を失うように眠ってしまったから。
書いてて思ったんですけど、ユウトこれ責任取らないと駄目なのでは?