2.私にできること(前)
ようやく、ヒロインの出番だ……。
「勇人~。起こしにきたわよ」
返事も待たず――寝ているはずなので返答があるはずもないが――籐のバスケットを持ったアカネがユウトの私室へと入っていく。
ユウトの部屋といっても、王都の家からベッドだけ運び入れた寝るだけの部屋だ。
昨日、王都へ行くと言い残して瞬間移動していったユウトは、夜になって疲れた顔で帰ってきた。
それから打ち合わせや書類の処理を行い、寝たのは深夜になってからだったようだ。
アカネは、まだ手伝える状態ではないので見ていることしかできなかったのだが、メイドさんに起こされるという癒しは提供できるはず。
そう、メイドだ。
「うふふ、気持ちよさそうに寝ちゃって」
バスケットを足下に置き、膝立ちの体勢で横からユウトの寝顔を観察する。
ベッドですやすやと眠る幼なじみの頬を突きながら微笑むアカネが身につけているのは、確かに世間で言うメイド服だった。
仕立てた平織りの絹のブラウスにエプロンを合わせて、胸元は大きなリボンが飾っている。ただしスカートは自前という微妙な出で立ちではあるが、この際それは仕方ない。
「まったく、ここだけなら異世界だなんて思わないわよね」
さわさわとユウトの髪を撫で、顔全体を包み込むように両手でなぞっていく。
起こしに来たと言いつつ一方的なスキンシップが展開されているが、昔からこんなものだった。
「ここにキス、しちゃったのよね……」
頬のある一点を指でなぞり、その指先で桜色のつぼみのような唇に触れる。
アカネの頬は紅潮し、瞳はわずかに潤んでいた。
思い出すだけで、身悶えする。
正確には、あの日の夜、自室に戻ってからベッドへ飛び込んでごろごろと転がり回った。一緒に、奇声を発していたような記憶もある。
恥ずかしい、嬉しい。
期待もある、不安に襲われることもある。
だけど、踏み込んだ。
一度決めたなら、アクセルを緩めてはいけない。
(この格好は、なんか違うような気がするけど……)
でも、ユウトが喜んでくれるなら、それでいいかな……とも思う。
「アカ……」
ユウトの寝言に、アカネの心臓が跳ねる。
呼吸を止めて、食い入るように幼なじみの寝顔を見つめる。
「……シア」
――冗談ではなく、コントのようにずっこけた。
「……アカシア?」
体勢を整えたアカネが、鋭い視線をユウトへ向ける。
幸せそうに寝ている、幼なじみに。
「おっけーおっけー。私は寛大だわ」
いつかユウトと一緒に見た映画に出てきたペルシャの大王のような台詞で、アカネは心を落ち着けた。
「アカシアね、花の名前みたいね。つまり、女の人ね」
しかし……と、ここで短絡的に飛びつかない。
アカネは冷静だった。
怖いほどに。
「でも、ユウトの言動や周囲の態度からすると、寝言で名前を呼ぶほど親しい人を私が知らないはずがない」
アカシア、アカシア。
アカ……シア……。
「なんだ、簡単じゃない」
アカネは笑った。
満面の笑みだった。
「ユウト、そろそろ起きなさい」
「んっ、ああ……。朝……?」
夢と現実の狭間にいるユウト。デスクトップ画面は出ているが、まだハードディスクがカリカリ動いているような状態だろう。
そんな状態のユウトへ、アカネは耳元で優くささやいた。
「アルシアさんに、こんな風に起こされたことある?」
「ああ……」
ある。
確かにあったはずだ。
夢見心地で、ユウトは頷き返す。
「あるのね」
有無を言わさぬ断定。
雪崩を思わせる冷気。
「なんっ?」
生存本能に突き動かされ、半開きだったユウトの目が見開かれる。
「そこ、詳しく聞きたいわね」
「あ、はいっ」
ユウトは、いつのまにかベッドの上で正座になっていた。
なぜアカネがいるのか。
こんなに至近距離に。
どうしてメイド服みたいな格好なのか。
いや、対外的には今のところメイドだからいいのか。
それにしたって、着る必要はないだろう。
案外悪くない。
頭が回っていないのか、現実逃避なのか。
とにかく、拒絶という選択肢はどこにもなかった。
「なんか、寝てたらアルシア姐さんが、俺の顔を触っていたと言いますか」
「どういう状況よ」
近い。
吐息が混ざり合い、アカネから――香水かシャンプーか分からないが――ほのかに良い香りがする。
「たぶん、あれだ。目が見えないから、代わりに触って確かめていた的なサムシングだろ」
「それで、アルシアさんは『ウォーター』とか叫んだりしたわけ?」
「創作エピソードらしいぞ、それ……」
ユウトのそんな様子を見て、アカネは矛を収めた。
なにも無いだろうことは、最初から分かっていたのだ。ただ、まさか、こんなことをする人が他にいるとは思わなかっただけ。
「納得してあげるわ。それより、なにもないわけ?」
一歩離れ、そこでくるりと一回転。スカートがぶわっとめくれ、健康的なふくらはぎが露わになる。
「大変よろしいと思います」
「それはなにより」
そのリアクションは人としてどうなのか。それは考えないことにする。
アカネが満足していれば、それで良いのだ。
「んで、なんの用だよ?」
「朝の部屋に幼なじみ二人。学校でしょう?」
「学校なー。早いところ作りたいんだけど、割り込みで仕事が入ってきやがる。俺、この仕事が終わったら、ブルーワーズにサッカーを普及させて、未来の日本代表を作るんだ……」
「頑張りなさいよ。それで、一緒に朝ご飯を食べに行く予定だったじゃない。二人で」
「ん? ああ……。今日だっけ?」
「そうよ」
「すまん」
小さく謝ってから、身繕いのためベッドからようやく出る。
「仕方ないわよ。昨日も遅かったんでしょう?」
「だが、このベッドは2倍の睡眠が得られる魔法具なんだ。言い訳はできない」
「夢のアイテムだわ……。修羅場中とか」
「金貨一千枚するけどな」
「それは夢でも、夢のまた夢ね」
日本円で五百万から一千万円払える人間が時間に追われるはずもない……とは言い切れないが、少なくとも、アカネには手が出ない。
「じゃあ、これ着替えね。っと、先に、こっちで顔をふいて」
持ち込んだバスケットから、いつもの制服にローブ。それから、熱々のタオル――タオル地の素材はないので、厚手の手ぬぐいのようなもの――を出して、甲斐甲斐しく世話をしていく。
「修復だったっけ? 便利よね」
「クリーニングいらずなのは間違いないな」
さすがに着替え中は後ろを向いたが、まるで熟練夫婦のよう。
「よし。朝ご飯を食べに行きますか」
「そのためにこれって。非常識よね、ほんと」
周囲に展開する呪文書のページを見回しながら、アカネが苦笑した。
「瞬間移動」
眩い光に思わず目を閉じる。
本当に、それだけの間。
次に目を開いた時、ユウトたちはファルヴの城塞から離れたカイエ村の入り口に立っていた。
冬の朝日は、まぶしいが嬉しいものだ。
寝起きの体に生気を取り込むかのように、ユウトは大きく伸びをして陽光を全身に受け取った。
「う~ん。びっくり。私たちが今いる場所の空気は、どこへ行ったの?」
「知らん。だけど、そういうことを考えてるから呪文が使えないんだよ」
冷たい息を吐きながら、アカネへ半眼で答える。
その表情はしかし、すぐに渋いものへと変わった。
「その格好じゃ、寒いよな」
ローブを脱いで着せられれば格好良かったのだろうが、そうもいかない。
結局は、脱いだローブを脇に挟みつつ制服の上着を脱ぎ、アカネに自分で羽織ってもらうという迂遠なものになってしまった。
「格好悪いな、俺……」
「現実なんてこんなものよ」
そうドライに返すアカネだったが、嬉しそうだった。
「じゃあ、そろそろ行くか」
冬まきの小麦畑が並ぶ農道を揃って歩きながら、ふと思いついたようにアカネが言う。
「そういえば、街の外を歩くのって初めてだわ」
「う。それは不自由をかけて悪いな」
「別に、冒険をしたいってわけじゃないから構わないけどね」
本当にただなんとなくそう思っただけだと、手を振って否定する。
「旅行に来てるわけでもないんだし」
「普通に移動すると、時間かかるからなぁ」
今後の生活に頭を悩ましながら、村の正門に到着。交代で門番をしている村人と挨拶をかわし、村長の家へと歩みを進めた。
村を囲む石壁や堀にアカネが目を丸くしていたが、呪文で作ったなどと本当のことを言うとあきれられそうなので、自発的に黙秘権を行使しておく。
ゴブリンたちの襲撃を受けてからそれほど経っていないが、村は既に平静を取り戻していた。
どの村も、負傷者は出ても死者が出なかったのは幸いだった。
「ようこそ、お待ちしておりました」
カイエ村のロシウス村長が、家の前で出迎えてくれる。
横には、その息子で元冒険者のグレン・ミュラーもいた。
「どうも、朝から申し訳ありません」
「とんでもない」
「あ、今度使用人として雇ったアカネです」
「アカネです。よろしくお願いします」
いちいち来訪者であることを説明する煩わしさと、小さな嘘を吐いているという罪悪感。
天秤にかけてしまえば、前者に傾いてしまう。
「どうぞ、なにもありませんが朝食を用意しておりますでな」
家の中では、母親になったばかりの元冒険者で魔術師のマリアンがユウトたちを歓待する。
挨拶もそこそこに、暖炉の前に置かれたテーブルへと移動。
初めて見る"普通の家"に、アカネはきょろきょろと家の中に視線を走らせた。
今まで見てきた建物は基本的に石造りだったが、この家は木造。密閉度が低いためか空気は冷たいが、パチパチと燃える暖炉の火がそれを忘れさせてくれる。
「その後、なにか問題はありませんか?」
「おかげさまで、無事でしたわい」
ユウトと村長のロシウス。そして、グレンが襲撃についての話や魔法薬の備蓄、アルサス王子の訪問などに関して話を進めていく。
(後任を息子に任せるつもりになったのかな?)
少なくとも、補佐はさせるようだ。
ゴブリンたちの襲撃時に奮戦をして、信頼を勝ち得たのかも知れない。
その横で、アカネはテーブルの上に並べられたメニューに視線を走らせた。
大きな木の皿に黒パンがいくつかまとめて置かれ、それぞれにスープの皿が用意されている。
他は、豚肉のハムが何枚かと、チーズ、ゆで卵。漬け物代わりなのか、塩を振った蕪といったところか。
「アカネ、先に食べてて」
気を使ってというよりは、そのために来たので遠慮するなというユウトの言葉。それに反対するものは誰もいない。
「そうですね。男の人たちは話に夢中ですから、先にいただきましょう」
「……はい」
メイドという設定のため、一応のためらいを見せてから、アカネが木製のスプーンでスープを口に運ぶ。
「これは……」
「どうかしました?」
「いえ、おいしいです」
「おかわりもありますから、遠慮せずにどうぞ」
赤毛のマリアンの笑顔に、アカネの良心がうずいた。どういうわけか、ニシンのパイが頭に浮かぶ。
端的に言えば――食べられないほどではないが――不味かった。
キャベツのような葉物野菜に、豆――レンズ豆だろうか?――が入ったスープだが、筋張って食感が悪く、スープも味がやたらと濃い。
あらかじめ、スープにラードが入っているという話は聞いていたが、これほどとは思わなかった。
パンも当然硬く、こんなスープに浸さなくては食べられない。
「勇人……。恨むわよ……」
誰にも聞こえないようぼそりと幼なじみへの怨嗟の言葉をもらし、それをチーズを飲み込むことで誤魔化した。
これも、日本で食べたチーズに比べると、どうしても劣る。
味付けは、なんとかなるだろう。
しかし、基本的な素材はこのレベルなのだ。それは、ファルヴの市場で購入した野菜を味見したことからも確認済。
本当の意味で、ようやく理解できた。
この世界の食は、あまりレベルが高くない。
こちらに来て初めて食べたあの朝食。
あれが基準だと勘違いしたのが、不幸の始まり。あれは呪文で生み出した例外中の例外。いや、最高級料理だったのだ。
あのレベルの料理が食べられるということは、材料も良いものが手に入るのだろう。そう思っていたので、どうせなら地元で取れた食材を使おうとリサーチに来た結果がこれだ。
財力はある。貿易港であるハーデントゥルム経由であれば、たいていの食材は手に入るだろう。
しかし、それは王都でも食べられるだろうし、王宮の方が料理人の腕だって良い。
「どうしよ……」
メニュー作りが、入り口で暗礁に乗り上げてしまった。
そもそも、ユウトは昔から美味しい方が良いけど不味くても食べられるなら食べるという作りがいの無い人間だったのだ。
そんな幼なじみの口車に乗って引き受けた自業自得。
惚れた弱みと言ってもいい。
「ヒモ男を作る女って、こういう心理なのかしらね……」
食事を進めるほど、アカネの憂慮は深くなるばかりだった。




