波乱の名はアムネジア(後)
「私は、ヴァルトルーデ。聞いての通り、この三人はユウトの妻ということになる」
「あ、はい……。それは聞いています、ヴァルトルーデさん」
ヴァルトルーデから目を逸らしつつ、ユウトはふらふらと対面の席に着いた。病人か夢遊病者のように地に足が着いていない。
「……ユウトから、そんな風に呼ばれるのは久し振りだな」
そんなユウトを心配しつつ、違和感があるというよりは寂しいとヴァルトルーデは微笑んだ。
「ヴァルでもヴァル子でも好きに呼んでくれて構わないのだが」
「それは、将来的な課題ということで……」
無理!
と言いたかったが、ユウトはギリギリのところで妥協した。これでも、二時間ドラマの犯人ぐらい崖っぷちだ。
特にあの寂しそうな笑顔は危険だった。もはや、物理的に。
「早速で悪いのだけど、私たちはユウトくんに記憶を取り戻してほしいと思っているわ」
だから、地球へ戻すわけにはいかない。
申し訳なさそうに。それでいて断固とした決意とともにアルシアは言った。
「ああ……。そうか、帰れるのか……」
どういうわけか、その選択肢は思い浮かばなかった。
見知らぬ城塞だったが、ここが自分の居場所だと認識していたようだ。
やはり、今まで聞いた話に誇張はあっても誤りはなかったらしい。
「なんだか、損な役回りをさせているみたいで申し訳ないです」
「ユウトくん……」
「記憶を失った幼なじみが天然ジゴロなんだけど、どうすればいいと思う?」
「幼なじみから変なことを言われた俺こそ、どうしろって言うんだ」
言いたくもないだろうに、言わなければならないからと言わせてしまった。
それを労っただけでジゴロ呼ばわりは不本意だと、アカネをにらむユウト。
「どうしろと言われたら、早いところ記憶を取り戻してほしいわねぇ」
「朱音から正論を返されるなんて」
そこだけ遠慮のないやり取りに、ヴァルトルーデとアルシアは慌てて笑顔を取りつくろう。
嫉妬ではない。
ただ懐かしかったのだ。大げさなのは分かっているが、感情は止められない。
そんな二人の心中には気付くことなく、ユウトはさらにアカネへ問いかける。
「というか、朱音。いいのかよ、こんな状況で」
虚を突かれたように、アカネが動きを止めた。
ユウトが期待したのとは別の意味で。
「そこはもう、終わった話なのよねぇ」
「そりゃそうだよな!」
まったくもってその通りだった。
たとえ非常識な結論でも、そこに至るまでの過程はしっかりと存在しているはずなのだから。
「朱音たちに、現状への不満はないわけか」
「ま、あったとしても無視できる程度ね」
「でも、どうやったら記憶が戻るのか……。頭を打ったわけでもないんだよなぁ」
「いいかしら?」
「あ、はい。すみません。どうぞ」
他人行儀な言葉にアルシアは少しだけ動きを止めたが、それを悟らせることはしなかった。
「ユウトくんが記憶を取り戻す鍵は、理術呪文……魔法を再び使えるようになるか。そこにあると大賢者ヴァイナマリネンは指摘したわ」
「大賢者ヴァイナマリネン……」
初めて聞いたが、とても威厳を感じる名前だった。
たぶん、すごい魔法使いで、人格者で、後進の教育にも熱心だったりするんだろう。
もしかしたら、自分の師匠なのかもしれない。
「この世界で一番の魔術師と呼ばれているな。それだけでなく、神の世界で大いなる智慧を手に入れたとも言われている」
「へえ……」
なぜかちょっと得意げなヴァルトルーデに、ユウトは目を合わせず軽くうなずいた。
そこまでの人が言うのであれば、間違いない話なのだろうが……。
「というわけで、これが勇人の呪文書よ」
「呪文書ねえ……」
残念ながら、中世ヨーロッパで作られたような分厚い呪文書を目にしても特に記憶が刺激されることはなかった。
「毎朝、使用する呪文を選んで自ら書き写すのよ」
「それって、俺の頭に呪文が入ってるってことになるような……」
「そうらしいわよ。あたしは一瞬でドロップアウトしたから、よく知らないけど」
手に持ち、ひっくり返しても同じ。
重たい、実用性に欠けた本だなというだけ。
「ああ、本当に中身は真っ白なんだな……」
新しいおもちゃを与えられた子供のようなユウト。
それはそれで新鮮ではあったが、やはり、落胆も大きい。
呪文書を見せたら、それで解決。
そこまで甘い夢を見ていたわけではないが、ここまで無反応だと長期化も覚悟しなければならない。
「アルシア、アカネ」
「……止むを得ないと思うわ」
「手遅れになるよりいいでしょ」
「ん? なにか?」
少し雰囲気が変わった。
それに気付いたユウトをまっすぐに見たヴァルトルーデが、ためらいを捨てて伝家の宝刀を抜く。
「ユウト、実は秘密にしていたことがある」
「秘密と事実って、今の俺には大差ないと思うんですけど……」
戸惑いつつも、ユウトは言葉を待った。
相変わらず、ヴァルトルーデから微妙に視線を外しながら。
「実は、私の中には子供がいるのだ」
「……朱音?」
「事実よ」
天から下りる蜘蛛の糸が、すぽりと抜け落ちた。
そんな表情でさらに、ユウトの顔色が紙のように真っ白になった。
「そうか……。そうなんだ……」
誰の子供かは言われていない。
言われていないが、このタイミングで切り出されるということは間違いなく自分との子供。
「……考える時間もらっていい?」
呪文書をテーブルに置き。
ユウトは、そう答えるのが精一杯だった。
「記憶喪失かぁ……」
夜。
まったく憶えのない自分の部屋。
一人で。
その大きく柔らかなベッドに横たわりながら、ユウトは今日一日のことを思い出す。
いろいろあった。
波瀾万丈というにもほどがあるほどに。
定番。あるいは、王道。
そんな状態になるなど、想像もしていなかった。
「それ以前に異世界へ行ってるとか、どういうことなのやら」
しかも、貴族の家を差配する重要ポジションにいて、世界最高峰の魔法使いなのだという。
そのうえ、結婚というか重婚というか。
客観的に見るとハーレムになっていた。
「どんだけだよ。大河巨編すぎるだろ」
アカネは、まあ、意外とまでは言えない。
美人で、頭も良く、コミュニケーション能力もある幼なじみなら選び放題なのは間違いない。
だが、アカネが最もアカネらしくいられる相手はユウトしかないだろうという漠然とした思いがあった。
その一方、ヴァルトルーデ、アルシア。そして、ヨナに関しては今でも半信半疑。
嘘ではないだろうと思っても、それとこれとはまた別だ。
「ユウト・アマクサって、随分とすごい人みたいだなぁ」
そう、他人事のように言ってみた。
けれど、思ったような効果はない。
まったく知らない。
なのに、それは自身のことだという奇妙な想いがある。
それがまた、心に微妙なささくれを生む。
「そのうえ、子供……。子供か……」
それも、あのヴァルトルーデとの子供。
それはつまり、彼女と愛し合ったわけで……。
「ああ、まったくなにを考えているんだ」
自分自身に嫉妬なんて馬鹿げてる。
理性はそういさめるが、感情はさざなみが立ち続けていた。
ごろりと向きを変えた、そのとき。妙に堂々としたノックの音がした。
「夜遅くにすまない。もう、眠ってしまっただろうか?」
「ああ、いや。起きています」
反射的にベッドから飛び出し、扉を開いた。
その向こうには、憂色を湛えた絶世の美女――ヴァルトルーデがいた。
「中にどうぞ」
一瞬、夜に同じ部屋はまずいかなと思ったが、取り消すには遅すぎた。
ヴァルトルーデは当たり前のように部屋に入り、前置きもなしに用件を告げる。
「ユウト、お願いがひとつある」
「俺にできることなら、聞きますけど……」
微妙に距離を取って、ユウトは答えた。
その他人行儀な態度に、ヴァルトルーデは少しだけ傷ついたような笑顔を浮かべる。
けれど、それもほんの一瞬。
受け入れてくれるかどうかに比べたら、問題とすら言えない。
「せっかくだから、私たちの街を見てもらいたくてな」
「ああ……。なるほど……」
話には聞いていた、記憶を失う前の自分が作ったというファルヴの街。
なにが起こるか分からないと城の中に留まっていたが、記憶を刺激するという意味では有用だろう。
行く・行かないではなく、いつ行くかというレベルの話だ。
「分かりました。いつ行きます?」
「うむ。今から、飛んでいく」
「は?」
「安心しろ、落とすことは絶対にない」
ヴァルトルーデはユウトの返事も聞かず、ぐっと体を抱き寄せた。
滅多にどころか、絶対にいないレベルの美女と密着し、ユウトは体も思考もフリーズしてしまう。
本当に、浮かぶまでは。
「ま、魔法!?」
無意識にベッドサイドにあった呪文書を掴みつつ、ユウトは驚きの声を上げた。
「飛行の軍靴。魔導具だが、呪文を封じ込めているので魔法でいいのではないか?」
微妙にずれた会話。
二人ともそれには気付かない。
「って、子供がいるのにこんなことしていいんですか?」
「なにか問題があるのか? それよりも、しっかり掴まってくれ」
ヴァルトルーデは部屋の窓を開け、躊躇なく外へと飛び出した。
果断な聖堂騎士にとっては、いつも通りの行動。
「うおぉっ」
しかし、今のユウトにとっては命綱のないバンジージャンプのようなもの。
ヴァルトルーデにしがみついてしまったが、むしろそれでスイッチが入ったかのようにぐんぐん上昇していった。
「この辺りで、いいだろう」
「浮いてる……」
曇天だったためか。ファルヴの夜は暗い。
かなり上空を飛んでいるのだろう。お互いの顔も見えないほど。それを少しだけ残念に思いながら、ユウトは戸惑いの声をあげる。
「……意外と怖くないな」
「体が憶えているのかもしれない。他の街へ視察に行くときも、こうして空を飛んでいたからな」
「無茶やるなぁ」
「その足で、ジャイアントの群れを倒したりもしたな」
「今の俺でも、それが非常識なことは分かる」
非常識なシチュエーションだからか。遠慮のない会話になっていた。
体だけでなく、心の距離も近づいている気がする。
いつまでも、こうしていたい。
そんな甘美な誘惑を振り払い、ヴァルトルーデは眼下へ宝玉のような瞳を向ける。
「街を見てくれ」
「……明るい」
アカネからはファンタジーの世界だと聞いていたので、当たり前のように文明は進んでいないのだろうと思っていた。
その先入観を粉々にしてあまりあるほど、ファルヴの街は光り輝いている。
「この光も、ユウトがもたらしたものだ」
「俺が……か。実感はないけど……」
「そちらでは珍しくもないのだろうが、このブルーワーズではファルヴにしかない光景だろう」
今のユウトに、この光が持つ本当の価値は分からない。想像はできるが、実感には至らないだろう。
その明かりひとつひとつに、人々の営みがある。
それを作り上げたのは、記憶を失う前の自分。
そう思うと、我ながらすごいなと感心してしまう。
「私の自慢だ」
そう断言したヴァルトルーデは誇らしげで、嬉しそうで。
少しだけ、悲しげで。
彼女がどんな表情をしているのか。
見たかった。
知りたかった。
確認したかった。
しかし、暗い。ラーシアやエグザイルなら夜目が利くから、分かっただろうに。
(まったく、準備が悪い)
どうして、あの二人の暗視能力を知っているのか。
今のユウトは、そんな疑問すら思い浮かばない。
彼の心を占めているのは、たったひとつのこと。
(明かり……。明かりがあれば)
こんなことになるなら……と後悔しても遅い。
可能性があるのは、ひとつ。
現実を改変する。
無から有を生み出す。
――即ち、魔法だ。
「《燈火》」
小魔法と同じ。第一階梯に満たない、その前段階の基礎呪文。
呪文書さえ必要としない、魔術師でなくとも使用できる者もいる。その程度の呪文。
それでも、煌々と輝いていた。
魔法の明かりが中空に浮かび、天上の神々すら称賛するであろう美貌を照らす。
「ユウト、呪文が……呪文を……」
「ああ、うん……」
驚きか。それとも、興奮か。
どちらにしろ、感情が溢れる寸前のヴァルトルーデには胸をかきむしりたくなるほど感動的だった。
芸術作品ではあり得ない。ひとつの生命としての尊さ。
今、そんな彼女の腕に抱かれている。
夢のような現実だ。
「なんか、使えちゃったな……」
最愛の人に生返事をするユウト。
記憶が戻ったという自覚があるのかも、怪しいところだ。
「思い出したのだな? 私のことが分かるな? いや、私だけでなく――」
「たぶんね……。ちょっと、自分で判断はできないけれど……」
「ああ。そうか、そうだな。混乱してしかるべきだな……」
「だから、ヴァル。もっと顔を見せてくれ」
「なに? それは私のセリフだぞ」
ひとつ、確かなことがあるとしたら。
二度目の一目ぼれに、胸を焦がしている。ただ、それだけだった。
「百の言葉よりも、ひとつのぬくもりか」
「別にね、抱き合って記憶が戻ったわけじゃないからね?」
「愛だな、愛。つまり、こいつの思想と理想を形にしたわけだ」
「愛なんて抽象的なものを持ち出したら、どうとでも言えるんじゃね?」
「ならば、愛はなかったというのか?」
「人の家庭に不和をもたらそうとするの、やめてもらっていいですかね?」
口では勝てない。
ラーシアと並ぶ鬼門に、ユウトは心の底からため息をつく。
「まったく、ワシの想像を悠々と超えてきおるわい」
と、呵々大笑するヴァイナマリネン。
執務室に呼び出し、すべての元凶となった奥義書、秘められし幻想の書を突きつけても動じる様子はなかった。
さすが大賢者だ……と称賛する気にはなれないが、ある意味感心してしまう。
「雨降って地固まるというやつだろう」
「それ、雨を降らした張本人が言っていい台詞じゃないんだよなぁ」
正論。
だが、大賢者には通用しない。
「ふむ。性別転換、入れ替わり、記憶喪失……次はなんだ? 幼児退行か?」
「フラグなんて立てさせねえよ!」
これ以上の騒動は絶対にごめんだ。
その強い意思を込めて、そもそもの原因となった奥義書を押しつける。
「ま、仕方あるまい。こいつは、20年ぐらい封印だな」
「俺の子孫に渡す気満々じゃねーか」
まだ見ぬ我が子に恨まれるのもごめんだ。
ユウトは、事前に考えていたアイディアを俎上に載せることにした。
できれば口にしたくはなかったのだが、背に腹はかえられない。
「ジイさん、飛行船とか作ってみる気ないか?」
「呪文で飛べば良かろうが。昨日、いちゃいちゃしていたときのように」
「うらやましいかよ」
「で、なにを考えておる?」
皮肉をのろけで封じ込め、ユウトはさらにたたみかける。
「魔法で飛ぶんじゃなく、この世の法則を理解し、機械の力で飛ぶ。大賢者の暇つぶしには、ちょうどいいだろう?」
「ほう。なるほどな……」
ヴァイナマリネンが食いついた。
この機を逃さず、ユウトは航空力学の本を取り出した。
これでしばらくは大人しくしてくれるはず。
その読みは、正解だった。
しかしまた、それは別の騒動に発展するのだが……。
この程度は必要経費だと割り切るのは簡単なこと。
それに、完成した飛行船は子供たちのお気に入りとなるので、作戦としては成功だと言えた。
少しだけ、将来が心配にはなったけれど。
大晦日らしく、しんみりいい話っぽく終わりです。
それでは皆さん、良いお年を。