波瀾の名はアムネジア(中)
「……もう一回いいかな?」
ベッドの中で半身を起こしただけのユウトが、目の前にいるアルビノの少女に言った。
そんなことはあり得ないと、笑い飛ばすように。
……ではなく、すがるように。
「名前は、ヨナ」
「いや、そこじゃなく」
名前は憶えている。今、自己紹介されたばかりだ。
問題なのは、その続き。
「ユウトの婚約者」
「いやいやいや。結婚できる年齢には見えないんだけど!?」
「だから、婚約者」
「ま、まあ、理には適っているけど……」
問題は、その理論の土台がおかしいということだ。
「いや、待てよ……」
アカネから聞いた限りでは、ファンタジーな世界に迷いこんでしまいなんやかんやあって世界を救って領地を経営しているらしい。
そんな自分なら、政略結婚で形だけの婚約というのもあり得るだろう。
しかし、儚き希望は蜻蛉よりも短命に終わる。
「もちろん、恋愛」
「そっか……。そうなんだ……」
恋愛。
このアルビノの少女と恋愛。
白い肌、白い髪、赤い瞳。
顔立ちは幼いながらも整っており、将来、とんでもない美人になるのは間違いなさそうだった。
そう、将来だ。それは、今ではない。
「恋愛結婚なんだ……」
「正式には、まだ婚約」
子供のように馬乗りになっているヨナという少女は、残念そうに言った。
それだけで、彼女が本気で望んでいることが分かる……が。
ユウトにとっては、経営の傾いた家族経営の街工場ぐらい問題だらけだった。
「でも、俺、あの黒い髪の人と同じベッドで寝てたんだけど……」
「アルシア?」
「たぶん」
「赤い髪でなければ、問題ない」
「意味が分からない」
分からないが、赤い髪と聞いた瞬間に悪寒が走った。
思い出そうとして頭痛……というわけではない。これは、思い出してはならないという無意識下の警告だ。
そこまでは理解できなかったが、ユウトは素早く話を続ける。
「どうして、問題ないのかな?」
「結婚してる」
「結婚」
「ユウトとアルシアが」
「そっかー。そうなんだ」
アルビノの少女と婚約しているうえに、あのベッドの中の美人と結婚していたらしい。
美人局でなかったのは僥倖だが、現実感がなさ過ぎた。
アカネから聞いた限りでは、ファンタジーな世界に迷いこんでしまいなんやかんやあって世界を救って領地を経営しているらしい。
つまり、あの黒髪の美人――アルシアという人が貴族で、婿入りしたということなのだろうか?
そこにさらに、アルビノの少女まで? 許されるのか?
「なにをやっていたんだ、俺は……」
「ヴァルやアカネとも結婚してる」
「つまり、三重婚……?」
「四重」
自分を忘れるなと、ヨナが頬を膨らます。
それは常に無表情なアルビノの少女の可愛らしさをさらに引き立てる反応だったが、ユウトに観賞している余裕などない。
「朱音もかぁ……」
「他に愛人もいる」
「だめだろ、それは……」
女の敵にもほどがある。
記憶を失う前の自分が目の前にいたら、説教では済まない。
「というか、俺はどうやって、そんなにたくさん……」
アカネは、まあ、まだ分からないでもない。
しかし、それ以外はさっぱりだ。というか、ヴァルという女性に至っては顔も知らない。
「記憶をどうこう以前に、話し合いが必要だな」
「話し合い? もっと、増やす?」
「逆だよ、逆」
「だめ」
「え?」
ベッドの上で馬乗りになっていたアルビノの少女。
その赤い瞳がすっと細くなり、威圧感が伴う霊気が吹き出る。
それに正面から当てられ、ユウトは身動きを封じられた。
「ユウトは――」
「ヨナっ! そこまでだよッッ!」
扉をバタンと開く音がする。
それと同時に、光――にしか見えないなにか――が六条。それぞれ別の軌道を取ってアルビノの少女へと迫ってきた。
「……いいところだったのに」
しかし、慌ても騒ぎもしない。
「《エレメンタル・ミサイル》」
精神力を用いて源素の矢を創造し、すべて相殺してみせた。
「は? は?」
乱入していきなり矢を撃ってきたのは、アルビノの少女と同じぐらいの子供。
しかし、その動作も表情も子供のものとは一線を画していた。
そのアンバランスさが、逆に決まっている。
だが、当のユウトにとってはそれどころではなかった。
「いやなに? これ?」
「あ、ちょっと黙ってて」
「ええ……?」
「こら、ヨナ。ユウトが記憶喪失だからって、適当に吹き込んじゃだめだよ」
「うそは言ってない」
「本当のことだから、ショックが大きいんでしょ」
「ええ……?」
婚約だとか重婚が実は嘘だった。
そんな希望は、またしてもシャボンのように壊れて消えた。
「で、どこまで話したの?」
「婚約してるところまで」
「あれ? ユウトとヨナって、そんなに具体的に話進んでたっけ?」
「進んでる」
「そっか。まあ、時間の問題だしね」
「いやいや。そこ重要だから」
ユウトが抗議するが、当然のように流された。
「それよりも、ヴァルたちとのことは?」
「言った」
「で、ユウトはなんて?」
「減らすって」
「むぅ……。危惧していたことが」
「大丈夫。させないから」
「ま、ギリギリセーフってところかな」
「そっちの話が無理なら、さっきの矢と魔法? みたいなのについて説明を求めたいんですけど……」
ちょっとじゃれ合ったぐらいに流されているが、どう考えてもおかしい。普通ではない。
「ユウトも、これくらいできる。余裕」
「できないんですけど……」
「ま、それは追々ね」
含みのある笑顔を浮かべながら、ベッドサイドの椅子にぴょんっと腰掛ける。
単に、魔法を使えるようになるのが記憶回復の近道という情報を出すのは混乱を招くだけと判断しただけなのだが。
「いやぁ、それよりもユウト。その他人行儀さ。初めて会ったときみたいだね」
「実際、今の俺にとっては初対面なんで……」
「うんうん。録画しておきたいね」
「だから、あなたのことも分からないんですが?」
助けてくれたにもかかわらず、ユウトの言葉にはとげがあった。
それなのに。だから気に入ったとばかりにその子供は笑う。
「ボクはラーシア。これでも、成人してるんだ。あと、ユウトの親友だよ」
「ラーシア……親友……」
「ボクは本当のことしか言わないから、安心していいよ!」
「今、安心感が銀河系の彼方へ吹っ飛んでいったんだが」
思わず、素でツッコミを入れていた。
「ところで。俺が、そのヨナちゃん? と、婚約しているというのも本当なんですか?」
「う~ん……。事実上の?」
「事実上の」
どうやら、首の皮一枚のところで耐えていたようだ。
記憶を失う前の自分を褒めてあげたい。
「まあ、まあ。とりあえず、こっちの常識は地球非常識だと考えればいいよ」
「地球のことを知って……」
「うん。何度もユウトに連れてってもらってるから」
「同じく」
「なにやってるんだ、俺……」
「ホテルで、サッカー見ながらカレー食べたり?」
「海にも行ったよ、海水浴と温泉」
「観光じゃねえか」
話を聞けば聞くほど、いろいろと信じられなくなってくる。
主に、過去の自分が。
「でもさすがに、重婚というのは……」
「それは本当」
「うそは言わない」
「それはマズいでしょう。人として」
「問題ないよ」
ユウトのもっともな指摘に、ラーシアは立てた人差し指を振って断言する。
「だって、ユウトが重婚オッケーって法律作ったもん」
「それ、こっちでもだめってことじゃねーか!」
「だめじゃないよ。一般的じゃないだけで」
「私利私欲が過ぎる……」
そこに至るまでは、いろいろあったのだろう。
想像するしかないし、他人である今の自分が引っかき回していいことではない。
だが、さすがに倫理にもとる行為は容認できない。
「……詳しく話を聞かないと」
その結果がどうなるかは分からない。
だが、父親に顔向けできる答えを出さなくてはならない。
ユウトは、そう決意を固めた。
とっくに、父親の頼蔵は認めているにもかかわらず。
「ラーシア、どうなった?」
そこに、三人目の人物が現れた。
岩のような巨人。
地球には絶対にいない存在。
その絶対的な迫力に、ユウトは完全に気圧されてしまった。
「大丈夫。カタストロフィは防いだよ」
「もうちょっとで押し切れた」
「そうか。まずは良かったな」
その岩のような巨人がこちらを、じっと見つめる。
ユウトは、軽く会釈を返すことしかできない。
「ふむ……」
渋い重低音が響く。
思わず、聞き入ってしまう声。
「ユウト、風呂にでも入るか」
「はい……。……はい?」
団扇のように大きく、万力よりも力強い手に肩を掴まれる。
逃げ場はない。
そういうことになった。
城塞内には、巨大な浴場がある。
神様が作った建物ということだが、それを信じてしまいそうになるほど立派で荘厳さえ感じられた。
そのプールのように大きな湯船の中で、ユウトは今日何度目かになる思いに囚われていた。
(なぜ、こんなことに……)
温くもなく、熱くもなく。つまり、適温の湯に浸かって緊張はほぐれたが、この状況そのものへの疑問は尽きない。
隣には、本当に岩のような肌をしたエグザイル。
反対側には、子供のように小さいが成人しているというラーシア。
正面から見たら、階段状の電波状態を示すマークのようになっているはずだ。
「それで、どこまで理解しているんだ?」
前置きもなにもない、ただただ純粋な問い。
ユウトは答えに詰まったが、むしろ、ありがたいことでもあった。
「自分が記憶喪失なのは、そうなんだろうなと思ってます」
記憶にあるときよりも、身長が伸びている。
体つきも引き締まっており、まるで何年も鍛えていたかのよう。
なにより、この日本ではあり得ない光景に違和感はあっても拒否感はない。
それこそが、一番の証拠なのだろうとユウトは思っていた。
「なるほどな。それなら話は早いか」
「アカネが一緒にいてくれて良かったね! そうじゃなかったら、アルシアもただの不審者だし!」
「最近は、わりとユウトを頼りにしていたからな。完全に拒絶されたら動揺していたかもしれないな」
「はあ……」
自らの頭上を飛んでいく、まるで実感の湧かない言葉。
それを聞き流しながら、ユウトは次々と湧き出るお湯をすくって顔を洗った。
あんな美人に頼られている?
我が事ながら想像すらできない状況だった。
「ヨナは、旅の途中で拾ったんだが、オレは男だと思い込んでいてな」
「え? そうだったんですか?」
「ああ。こうして風呂に入れようとしたところで気付いて驚いたものだ」
「それで、アルシアがヨナのお世話係になったんだよね」
「でも、本人が言えば良かっただけの話なんじゃ……?」
「出会った当初のヨナは、今以上に喋らなかったからな」
それは想像が……できた。
「それを変えたのが、ユウトだ」
「そうそう。パーティで役割を振ってあげて溶け込めたんだよね」
「役割……」
それが、ひたすら大火力で敵を攻撃――否、殲滅するポジションだとは想像もしていないユウトだった。
「だから、今のユウトがどう思うかは別にして、あまり邪険にはせんでくれ」
「ま、配慮されるべきなのはユウトのほうだと思うけどね!」
「それは……実感がないのでなんとも……」
完全になにも分からない状況だったら別だろうが、地球で十数年間生きてきた記憶がある。
加えて、アカネもいる。
だから、そこまで困っているという実感がなかった。
「ならついでに言わせてもらうが、アルシアもそうだ。ヴァルの影みたいに生きてきたが、ユウトと一緒になってからはそこから自分の幸せってものを理解するようになったからな」
「健気だよねぇ」
「朱音は俺のほうが詳しいとして……もう一人のヴァルという人は?」
なんだか気恥ずかしくて、ユウトは露骨に話題を変えた。
しかし、返ってきたのは予想外の反応。
即ち、沈黙だった。
「ああ、ヴァルねぇ」
「なんと言えばいいか……」
二人して言葉を濁す。それでいて、悪感情は見受けられない。
一体全体、どういう人間なのか。
ユウトの中で、不安だけが大きくなっていく。
「ヴァルは、まあ、見れば分かるよ」
「雑じゃないですか?」
「そういうレベルではないからな」
とんでもない高レベルらしい。
「……とりあえず、記憶を失う前の俺は上手くやっていたらしいのは分かりました」
それでも、三重だとの四重だのは歪すぎる。
アカネと、一緒に寝ていたアルシアと。
そして、まだ見ぬヴァルという人。
本当に、好きだったんだろうか。
本当に、愛されていたんだろうか。
まずはそれを確かめなければならない。
「それで、どうするつもりなのです?」
「ああ、それがあったわね……」
ユウトたちが裸の付き合いで命の洗濯をしている頃。
そのまま食堂兼会議室に残ったヴァルトルーデ、アルシア、アカネは爆弾の処理方法に頭を悩ませていた。
ちなみに、ヨナは今までの経緯を報告したあと、アルシアから雷を落とされふて寝している。
「どうとは、どの話だ?」
「ヴァルと勇人の赤ちゃんのことよ」
「ああ……」
自らの体内に宿る新たな命。
忘れていたわけではないが、記憶を失ったユウトとつながらない。そのため、ヴァルトルーデの反応は鈍かった。
「いずれ話さねばならぬのだろうが、今決めるべきことだろうか?」
「勇人が聞いたら、良くない方向に覚悟を決めるか逃げ出すかの爆弾よ?」
「前者はともかく、逃げることはあるまい」
転移した後のことしか知らないが、それは直後のことも知っているということ。
ヴァルトルーデが認識する限り、ユウトがそんなことをすることはない。絶対に。
「そうなんだけど、勇人はまだ高校生……学生の意識なのよねぇ。あっちの常識だと、それはもうとんでもないことなのよ。人生終了級よ」
「かといって。ユウトくんの性格からすると、黙っていたほうが悪い方向に行きかねないわよ?」
良くも悪くも責任感が強い。
その性格はこの三人で共有するところだった。
ヴェルガのこともあったとはいえ、その性格につけ込んだ……という側面もなくはないのだから。
「では隠すべきか?」
「長期化した場合が問題ね」
「どこから漏れるか分からないか……」
あの騒動の後なので、ファルヴの城塞内には限られたメンバーしかいなかった。けれど、それも一時的なものでしかない。
これが長期化すれば、カグラやマナ、レンなどとの接触は避けられない。
「一番いいのは、早めにこっちから言うこと……かしらね」
「そうだな。アカネ以外、こちらがユウトにどう思われているかも分からぬしな……」
「大丈夫よ、勇人も男の子だもん」
二人なら絶対大丈夫と、アカネがサムズアップして太鼓判を押す。
「それより、秘密にすると言ったらあの赤い人のことでしょう」
「ああ、ヴェ――」
「ダメよ、名前を呼んだら出てくるわ」
とりあえず、ヴェルガのことは絶対に言わない。
三人が視線でうなずき合った。
――そのとき。
「あの……。ここに、行くように言われて……」
控えめなノックとともに、話題の人物が姿を現した。
「勇人、さっぱりしたわね」
「ユウトくん、食欲はある? 少しでも、胃に入れたほうがいいわよ?」
「……あ、うん」
アカネとアルシアに話しかけられても、生返事。
否、それすら意識していなかったに違いない。
ユウトの視線の先には、ヴァルトルーデ。
幻想ですら、衒いなくここまでの美を生み出せはしないだろう。
しかも、その天上の神々にも匹敵する美女は、実際に生きていて言葉も喋るのだ。
「どうかしたのか?」
しばらく動きどころか呼吸さえ止めていたユウト。
頬を染め、口はだらしなく開いている。
ヴァルトルーデから話しかけられると、慌てて目を逸らした。
これはもう、明らか。
三人の心はひとつに――
(勇人、これあれね。絶対、あれね)
(二度目も、一目惚れというのかしら?)
(ユウトの様子が、やはりおかしい。実は体の調子が悪いのではないか?)
――なってはいなかった。
やっぱ(ユウトは)チョロインでしょ!
むしろヴァルが鈍感系主人公かもしれない……。
というわけで、次回で完結です。