番外編その7 漂泊の守護神 第九話
ラーシアが用意した『なんかいい気分になるお酒』や『なんかいい雰囲気になるお香』は不要だったが、『腰とかによく効く軟膏』は必要かもしれない。
そんな翌朝。
「……腹減った」
ユウトは、空腹とともに覚醒した。
手元に携帯電話はなく、《不可視の邸宅》で作り出した部屋だから窓もない。
ただ、空腹感の理由は心当たりがあった。ありすぎた。
「アルシア……」
顔にかかっていた髪を優しい手つきで直しながら、ユウトは傍らで眠る愛妻の名を呼んだ。ある意味で、彼女こそユウトが空腹を抱える原因だった。
大きくふかふかのベッドに横たわるアルシア。今は真紅の眼帯はしておらず、整った容貌をそのまま晒している。
安心しきった寝顔。朝からそれを眺められることが嬉しく、無防備な寝顔を浮かべさせていることが誇らしい。
アルシアの肢体は薄い掛け布団で隠されているが、同時に、豊満ですらりとしたスタイルが一目瞭然となっていた。
この世界で、ユウトだけが見て触れることが許される特権を有している。
「いけない、いけない」
これ以上アルシアと一緒にいると、朝から特権を行使してしまいそうだ。
軽く頭を振って同時に煩悩も振り払うと、ユウトは静かにベッドから出る。昨夜は、この島へ来ることになった探索行を果たすべく活動したため、当然と言うべきか一糸まとわぬ姿だった。
ユウトをただの魔術師と認識している者は、その筋肉質な体つきに驚きの声をあげるかもしれない。
もちろん、エグザイルは例外としても、アルサス王やヴァイナマリネンよりも細い。
だが、引き締まった筋肉は男らしさを感じさせ、魅力的なシルエットを作り出している。しかも、機械やサプリメントで作り上げたのではない。
自然にできあがった筋肉だ。伊達に、冒険者として活動し、ヴァルトルーデと剣の修行をし、ヨナを受け止め続けたわけではない。
「ん?」
そのまま風呂にでも入るかと部屋から出ようとしたユウトの足に、なにかが引っかかった。
それは、ユウトも見覚えと身に覚えがある――水着だった。下着ではない。水着だ。
昨晩、アルシアが着てこの部屋へ訪れた水着だ。
「海で水着になると、こういう風には使えないでしょう?」
ユウトの愛するアルシアが、はにかみながら言った。
そして、自信なさげに付け加えたのだ。
「嫌でなければ……だけど?」
と。
ユウトは、言葉ではなく行動で返答した。
この上なくストレートで、誤解の余地が一切ない行動で。
否応なく昨夜の情事を思い出し、今さらながらユウトは赤面する。まあ、ある意味のそのために来たという面もなきにしもあらずというよりは大いにあったし、ユウトとしても望むところであった。そもそも、ユウトが自らの手ではぎ取った水着でもある。
そこに一片の後悔もなく、むしろ男子の本懐を遂げたと言っても過言ではなかった。
「ううん……。ユウト……くん……?」
物思いに耽っていたユウトの背後から、少しだけ悲哀を感じる声がした。
そこにいるはずの愛する人の姿を求めてアルシアがダークブラウンの瞳をさまよわせ……ユウトを見つけて微笑んだ。赤子のように無垢で、邪気のない笑顔。
「起きたときにベッドにいないと、寂しいわ」
「ごめんごめん」
泣く子と動物には勝てない。
ユウトはあっさりと踵を返し、ベッドへ逆戻りした。
アルシアは我が意を得たりと、またにこりと笑う。ベッドに横たわったまま両手を広げてユウトを迎え入れ、抱き枕のようにして、胸に顔を埋めた。
息がかかってむずがゆいが、それもまた幸せのひとつ。愛する人の体温を感じながら、ユウトもアルシアを抱き返す。
アルシアは、満足そうに鼻を鳴らした。
「仕方がないから、許してあげるわ」
寝起きのアルシアは、少し甘えん坊になる。
拗ねるので後でからかうようなことはできないが、しっかりと記憶して思い返す自由はあるはず。
それに、魔術師は頭と記憶力に優れているのだ。それが、大魔術師となればなおさら。
「ユウトくん、でも、まだ足りないわ」
「仰せのままに」
なにを求められているのか、言われなくても分かる。
なぜなら、ユウトも同じだったから。
目をつぶったアルシアの唇に、頬に、まぶたに、額に、キスの雨を降らせていく。顔を晒すことを恥ずかしがるアルシアは、逆に顔へのキスを好む。昨晩の新発見を、早速実践する。
朝は来ても、まだ夜は終わっていなかった。
「ユウトくん、今日は自制しましょうね」
「うん……。そうだね……」
朝の諸々を終え《不可視の邸宅》から出たユウトが、容赦なく照りつける陽光に顔をしかめながら同意した。
ただしそれは消極的というか、言葉の正しさは認めつつも、その通りにはいかないのではないかという疑惑がつきまとってもいた。
「……なんだか、返答に真剣味が感じられないのだけど」
アルシアも眩しいのか手で庇を作りながらダークブラウンの瞳をユウトに向ける。
しかし、大魔術師はなにも答えずに、ただ肩をすくめただけだった。
(そもそも、やり過ぎないようにしましょうという時点で、する前提ではあるんだよなぁ)
その場合、自制心がどこまで持つか。
アルシアの奇手に翻弄された我が身を思えば、懐疑的にならざるを得ないユウトだった。
「とりあえず、森を見て回る前に昨日の後片付けをしようか」
「そうね。さすがに、そのままにはできないわね」
異次元空間から砂浜に降り立った二人は、そのまま海沿いを歩いて移動する。
第七階梯の理術呪文《不可視の邸宅》。
空間の一点を指定して呪文を発動すると分厚い木の扉が現れ、そこをくぐった先には豪壮な邸宅が存在しているという、おとぎ話のような呪文だ。もちろん、呪文を使った術者が許可しない人間には、その扉を開くことはできない。
つまり、昨夜の二人は外界と完全に隔絶した空間にいたことになる。
「……まさか、サメが一晩でドロップアイテムに化けるとは。朱音が喜びそうだなぁ」
「ユウトくん、現実逃避は止めましょう」
だから、まったく気付かなかった。
昨日倒して放置していたツインヘッドシャークの死体が、綺麗さっぱりなくなっていたことに。
そして、その代わりとでも言いたげに、雑多な物資がうずたかく積まれていることにも。
マンゴーの実に似た果実、石斧、粗末なロープ、なにかの黒焼き、綺麗に磨かれた石等々が、大きな葉っぱ――バナナの葉だろうか?――の上に乗せられている。
ツインヘッドシャークの死体の代価というには、敬意が感じられた。
まるで、供物か笠地蔵だ。
「……ここ、無人島って話じゃなかったっけ?」
「狭義の人間はいないというだけで、エルフやドワーフみたいな人間以外の種族はいるのかもしれないわね……」
「それ、無人島じゃなくてエルフの島とかドワーフの島って言うべきなんじゃないかな?」
アンフェアな叙述トリックに遭遇したような顔をして、ユウトは軽く息を吐いた。
まあ、相手は神だ。これくらいは、想定してしかるべきだったかもしれない。
「このお供え物を見る限り、海から来たわけじゃなさそうだ」
「もしそうだったら、話としてはシンプルだったのだけど……」
海の暴れ者だったツインヘッドシャークを倒した恩返しに、海に住む亜人種族が貢ぎ物を置いていった。
生息域がかぶらないので、以降、積極的に関わることはない。
そんな単純なストーリーは、貢ぎ物自体の内容で否定せざるを得なかった。
「なにより、これはコロの跡よね」
「……足跡も一緒にあるし、そうなんだろうなぁ」
コロといっても、もちろん天草家の愛犬ではない。
砂浜に残っていたのは、ツインヘッドシャークを乗せて運んでいったのだろう、丸太の棒の跡だ。そして、その周囲には小さな足跡がいくつもあった。
「あの森になにかが住んでいるんなら、関わらざるを得ないよなぁ」
「まだトラス=シンク神からの迎えもないし……そもそも、彼らと関わることこそ、探索行の本来の目的かもしれないわよ」
「なるほど。それなら、俺たちを派遣するのもうなずける」
ヴァルトルーデの魅力、エグザイルの腕力、そして、ラーシアやヨナのリーダーシップ。いずれも、未知の種族との交渉にはうってつけだ。
だが、やり過ぎの危険性もつきまとっていた。
その点、ユウトとアルシアであれば適切な対応を取れる……と、トラス=シンク神が期待したのだろう。
「予定通りだし森を探索するのはいいとして……その前に、ひとつ大きな問題がある」
「……なにかあったかしら?」
呪文を阻害する要因はなくなり、その呪文も状況に合わせてしっかり準備できている。
確かに、直接的な攻撃力には欠けるかもしれないが、その程度のことが問題になるとはアルシアには思えなかった。
けれど、ユウトは真剣そのもの。
「こいつを片付けないと」
「ええ……。そうね……」
あっさりと、アルシアも同意した。
はっきり言ってどうしようもない物ばかりだが、真心や誠意は痛いほど伝わる。
それを放置するのは、ユウトとアルシアとしては大いに気が咎めるところだった。
「無限貯蔵のバッグに入れておくしかないわよね……」
「エレメンタル・リアクターなんて危険なもんと、このほのぼのとしたお供え物が同居してる無限貯蔵のバッグって……」
いっそ、ラーシアへのお土産にしてやろうか。
そんなことを思いつつ、ユウトは供物をひとつひとつ無限貯蔵のバッグへ収納していった。
そんな予定外の出来事はあったが、森の探索を妨げるほどのタイムロスではない。
一時間もせず、ユウトたちは砂浜の向こうにある森林地帯に分け入っていた。コロや足の跡は森の中も続いており、野外行動を修めていない二人でも、問題はなかった。
「植生は詳しくないんだけど、雪が降るような地域の植物には見えないなぁ」
「機能を停止させていたら雪も止んだのだから、あの塔が関わっていたということになるのでしょうね」
「つまり、吹雪いてたのは本当にあの山の周辺だけだったのか」
背の高い木々に遮られ、森の中はやや薄暗い。だからというわけではないが、アルシアは真紅の眼帯を身につけていた。
視覚が遮られていても、擬似的な感覚で周囲の状況を把握できる魔法具は、この熱帯雨林にも似た環境には最適だった。
備えは、それだけではない。
《透明化》の呪文を使用して移動しているし、第三階梯の理術呪文《魔術師の瞳》により、ユウトの知覚は数十メートル先も感知している。
ラーシアがいればここまでしなくてもいいのだが、少し用心のしすぎだったかもしれない。
「なんだか、ダァル=ルカッシュのいた永劫密林に似ているわね」
「ああ、恐竜の……」
言われてみれば、確かに近いものがある。
しかし、危険度は段違いだ。
こちらの森には恐竜はおろか危険なモンスターの姿もない。いるのは普通よりも大型の昆虫や木の枝を飛んで渡る猿程度のもの。
森は下生えもなく歩きやすく、保温の外套のお陰で蒸し暑さも感じない。
もう少し環境が良ければ、ピクニックと表現しても構わないぐらいだった。
「ユウトくん、ツインヘッドシャークを持ち去ったのは、どんな相手だと思う?」
「小型で、二足歩行……ってだけじゃ、特定は難しいな」
「そうね。これだけだと草原の種族も候補に入るものね」
「代価を置いてくような連中じゃないから、それはないよ。絶対に」
自らに言い聞かせるかのような言い方に、アルシアは思わず笑ってしまった。それに気付き、ユウトはあからさまに嫌そうな顔をする。
「そんな顔をしないで。私が悪いことをしているみたいだわ」
「そうは言うけどさ」
この状況で草原の種族――しかも、群れだ!――と遭遇するのは喜ばしい事態ではない。
だが、幸か不幸かこの先に待ち受けているのは草原の種族ではなかった。
ユウトが唐突に立ち止まり、アルシアに警告の声を発する。
「アルシア姐さん」
「……なにかいたの」
「うん。だけど、これは……」
なんとも言えない表情で、ユウトが口ごもる。
「コボルドだと思うんだけど……」
《魔術師の瞳》を通してユウトが目にした光景。
それは、ツインヘッドシャークを背にする犬に似た頭部を持つ小柄な亜人と、やはり小型だが鱗を持ち、爬虫類の頭部を持つ亜人が相争う姿だった。
・よく分かる次回予告
アルシア「どっちにつくの?」
ユウト 「犬」
アルシア「でしょうね」




