番外編その7 漂泊の守護神 第六話
「アルシア姐さん、大丈夫?」
「なにがかしら?」
「いや、なんか顔色が悪いから」
「そんなことはないと思う……のだけど」
アカネの手紙により悶々とした気分を抱えた翌朝。
テントから抜け出したアルシアは、見張りを続けていたユウトから目を背け――もちろん、真紅の眼帯はしている――追及から逃れようとしていた。
だが、それは逆効果。
「そうかな?」
「あの……ユウトくん……?」
おもむろに近づいてきたユウトが、吐息を感じられるような距離でまじまじと見つめてくる。
遠慮のない。不躾な。
それでいて、心配そうで真剣な視線。
見えないがユウトの気持ちは痛いほど伝わり、アルシアの心臓が早鐘のように鳴る。
けれど、知られるわけにはいかない。
アルシアは、平然を装って小さく頭を振った。
「なんでもないのよ」
嘘である。
「野営なんか久しぶりで、環境も変わって寝付きが悪かっただけだから」
大嘘である。
アカネからの手紙で悶々としていたアルシアは、途中でユウトと見張りを交代した後も寝付けなかった。
その原因は、アカネからの手紙――というか、指南書――にあった。
暗視の眼鏡まで持ち出し、アカネの手紙の続き――応用編――に目を通してしまったのだ。止せばいいのに。ドキドキを抑えられず。
これを知られたら、今後ヨナになにを言っても説得力がなくなってしまう。
絶対に知られるわけにはいかなかった。
しかし、貴重な知識を得ることはできた。
たとえば、世の中にはコスプレなる行為があるのだという。
扇情的な衣服で異性の興奮を誘うなどとは、考えたこともなかった。
そもそも、ベッドの上では衣装は脱がされるものである。それなのに、衣装で喜ばす。コロンブスの卵的発想の転換。パラダイムシフトが発生した。まあ、アルシアはコロンブスなど知る由もないのだが。
そんな価値観の転換がもたらされたのだが、意味の分からない文言もあった。
アカネは、『アルシアさんの制服姿とか、破壊力ありそうよね』と記していた。だが、制服とは、なんの制服だろうか。それに、破壊力があっても意味はないと思うのだが……。そもそも、なにを破壊するというのだろう?
もちろん、それはユウトの理性しかないのだが、アルシアには及びもつかない。
そうやって、世の中にはパートナーをその気にさせるため、様々な手練手管があるのだなと感心していたら……夜明け近くになっていたのだ。
もっとも、アルシアは気づいていなかった。
今まで、そういった変化球なしでも、ユウトを満足させていたという事実に。
気づいてしまったら平常心ではいられなかっただろうから、それは幸いなことなのだが。
「とにかく、私は大丈夫よ」
そう言って、やや強引にユウトを押しのけるアルシア。
ふとした拍子に唇が重なりかねないほど近い距離だった。危ない。
「まあ、それならいいけど……」
そこまで言われては、ユウトとしても引き下がらざるを得ない。注意しておこうと心に刻み、焚き火の側へと戻る。これから、アルシアは身支度なのだ。覗くわけにはいかない。
その間に、ユウトは朝食の準備を進める。
――と言っても、レトルト食品ばかりだ。
昨夜のうちに洗っておいたシチューの鍋に魔法具で水を張り、焚き火で湯を沸かしていく。
沸騰する前に、そこへレトルトのカレーとご飯のパックを入れて温める。ついでに、卵も無限貯蔵のバッグに入っていたので、悪くなる前に投下した。
電話としては使えないが、便利なので持ち歩いている携帯電話でタイマーをセット。あとは待つだけの簡単な準備だ。
食料においてはラーシアのお節介が奏功している。
感謝すべきところなのだろうが、調子に乗らせるだけなので、ユウトは心を無にした。
「色即是空、空即是色。色即是空、空即是色」
よく分かっていないフレーズを口にしつつ、ユウトは薬缶で――本当に、無限貯蔵のバッグにはなんでもある――お湯を沸かす。
こちらは、インスタントコーヒー用だ。朝の必需品だろう。
外から漏れ伝わる風の音を聞きながら、ユウトは空っぽの心で煙の出ない魔法の焚き火を見つめる。
忙しい日常から解き放たれた、ゆったりとした時間。
(動物園のついでに、キャンプをするのもいいかもしれない)
決して、野営ではない。モンスターに襲われる心配もない。神々も介入しない。世界の危機など訪れない。魔法具も使わない。
そんな状況で、あえて不便な自然の中で過ごす。
それは、とても贅沢な時間の使い方だった。
できれば、コロも一緒に連れていきたい。
(うん。それはいい。いいな)
仕事が嫌なわけではないが、たまには、そんな逃避もありだろう。
ユウトが、ブラック企業に勤めて限界の社員のような考えを巡らせていると、身支度を終えたアルシアが戻ってきた。
「任せてしまって、ごめんなさいね」
「大した手間じゃないよ」
先ほどと比べると、今のアルシアはいつも通りに見えた。
椅子代わりの丸太に座る愛妻をちらりと観察しながら、ユウトは安堵する。
顔色も普通で、雰囲気にもぎこちなさは感じない。
この後のことを考えてか、真紅の眼帯も外している。もしかすると、これが一番の安心材料かもしれなかった。
ただ、対人関係に限っては、自分の目は節穴に近いという自覚がユウトにはある。
過信しないように言い聞かせていると、ちょうどお湯が沸いたので薬缶からお湯を注いでインスタントコーヒーを作る。アルシアの分にだけ砂糖とミルクをたっぷり加えて。
さらに続けて、携帯電話のアラームが鳴った。
「もうできるから、アルシア姐さんはコーヒーでも飲んでて」
「……ええ、そうね。いただくわ」
熱く、甘く、わずかに苦い。
幸福な恋と同じ味をした液体を嚥下しつつ、アルシアはぎこちなく微笑んだ。
ユウトに任せきりにするのは妻として思うところはあるが、二人でやるような作業でもないし、
火傷しないように注意しつつ、ユウトは鍋から食材を取り出していった。
昨日も使った木皿にご飯を入れ、軽くほぐしてからカレーをかける。そして、丸のままゆで卵を加えれば完成だ。
センスにも栄養にも欠けているが、カレーの香りはそれだけで食欲をそそる。
「じゃ、食べようか」
「ええ。いただきます」
隣り合って座りながら、同時に食べ始めた。
「うん。チープだけど、いいな」
多めの一口を飲み込んだユウトが、満面の笑みでほめているのかいないのか分からない感想を漏らした。
できた母と優秀な幼なじみのお陰で、調理実習以外で料理を経験したことのないユウト。
そんな自分でも、充分に食べられる料理が提供できるのだから、レトルトは偉大だ。
それに、朝からカレーというメニュー選びも正解だった。非日常感がスパイスとなって、さらに味わい深くなっている気がする。
「そういえば、初めて地球へ行ったときにも食べたわね」
「あんな高級品じゃないけどね」
「大丈夫よ。刺激的だけれど、元気が出そうだわ」
あまりカレーを食べ慣れていないアルシアも、気に入ってくれたようだ。
安堵したユウトは、スプーンでゆで卵を解体していく。
ゆで卵をつぶして混ぜ込むと、また違った味と触感が楽しめる。この雑なところが、実にいい風情だ。
そんなユウトへ、アルシアが確認をする。
「ユウトくん、今日で解決するつもりなのよね?」
「ああ。戻るまで何日あるか分からないけど、残りは全部バカンスにするよ。俺は、夏休みの宿題を初日で終わらせるタイプなんだ。朱音とは違ってね」
アルシアにはその例えは分からなかったが、ユウトがなにを言いたいのか。そして、なにをしたいのかも理解できた。
表立っては言わないが、アルシアとしても反対はしない。
賛成するには、羞恥心をかなぐり捨てなくてはならないだろうが……。
「食べ終わったら、神力解放したうえで、《念視》して魔力が集まるところを見つける。あとは、そこに乗り込んで終わらせるよ」
そのために、既に呪文の準備はしている。焦点具となる、鏡も無限貯蔵のバッグから取り出してある。
「あまり気負わないでね」
「うん。気合いを入れすぎないように気をつけるよ」
そう口にしつつも、やはり、ユウトはやる気がみなぎっていた。
それを証拠に、あっさりとカレーを食べ終えるとコーヒーの残りを一口で飲み干し、先に後かたづけを始めてしまった。
結局、朝食を食べ始めてから15分もせず計画は実行に移された。
焚き火の側に立てかけられた手鏡。
ダンジョン内で角の向こうを確認するときなどに使用され……無限貯蔵のバッグに残されていた品。鏡自体は特別なものではないが、上手くいけば、この鏡面に目的地が映し出されることになる。
「ユウトくん、見守っているわ」
「うん。始めるよ」
神術呪文がほぼ封じられているアルシアは、成功を祈ることしかできない。
だが、ユウトにとっては、それで充分だった。
アルシアがいる。
愛する人が信じてくれている。
それだけで、成功が確信できた。
「神力解放」
手の甲に、呪文書と球体――地球が意匠化された紋章が浮かぶ。
魔力に似た、それとは異なる力が体内でうねり、出口を求めて荒れ狂う。
ユウトは慌てず騒がず、それを飼い慣らし、制御し、指向性を持たせる。
「《念視》――オルタナティヴ」
呪文書から4ページ切り裂いて神力刻印からの力を乗せ、それが手鏡を取り巻いた。
「……大丈夫そうだ」
きっちり、発動した。
そして、なにかに吸収されることもない。やはり、ここまで強大な力には手が出せないのだろう。いや、違う理由があるのかもしれないが、きちんと作用したという事実の前には真相など霞む。
「さすが、ユウトくんね」
感心するアルシアに、ユウトは照れたように笑った。
普段なら謙遜するところだが、それもない。それくらい、会心の出来だった。
やがて手鏡を取り巻いていた呪文書のページが弾け、代わりに、ここではないどこかの風景が映し出される。
吹雪の向こうに塔が見えた。
先端は雪に煙り、どの程度の大きさかは分からない。相変わらずの悪天候で太陽が遮られ、全体は杳として知れない。
だが、確かに塔だった。
「なるほど。あそこが……」
諸悪の根元とまでは言わないが、糺すべき場所。
「素直に歩いては行かないのよね? 《瞬間移動》で飛ぶつもりかしら?」
「それもいいけど、安全第一で行きたいな」
「……ユウトくんから言われると、逆に不安になる言葉だわ」
「えー。そんなことはないと思うんだけど?」
「ラーシアから同じことを言われたら、ユウトくんはどう思うかしら?」
「……それはともかく、ひとつ試したいことがあるんだ」
手鏡を見つめながら、ユウトは言った。
アルシアからは横顔しか見えなかったが……。
それはまるで、名案を思いついた草原の種族のような笑顔だった。
結論から言うと、ユウトの草原の種族的名案は成功した。
その証拠に、ユウトとアルシアは雲の上に浮かんでいる。
そして、浮かんでいるのは、二人だけではなかった。
山の一部を切り取った岩塊と一緒だ。
亜神級呪文、《浮遊島》。
かつて、ヴェルガ帝国への警告に使われ、一方的に求婚される原因となった亜神級呪文。
キャンプを引き払ったユウトたちは雪山へ出てこの呪文を行使し、その一部を浮遊島として雲の上を目指していた。
そう。神力刻印と同様に、第九階梯を超える亜神級呪文は正常に効果を発揮したのだった。
「なるほど。俺たちが呼ばれるはずだ」
「この展開を予想していたとは思えないのだけど……」
そう言いつつも、アルシアの口元は楽しそうな笑みが浮かんでいる。
自分自身のためではなく、誰かのために無茶苦茶をする。
本当に、ユウトらしい。
そして、それが、今はヴァルトルーデでもアカネでもなく自分のため。
二人に比べて、なにかが劣っていると思っているわけではない。けれど、ユウトが最も大切にしているヴァルトルーデ――それは、アルシアも同じなのだが――や、ユウトとの付き合いが最も長いアカネに比べると……という思いがあったことは否定できない。
「さあ、行こうか」
「ええ」
ユウトと一緒なら、どこへでも。どこまででも。
たどり着いた先にはきっと、予想を超えた驚異が待っているはずだから。
なんだか終わりそうな雰囲気を醸し出していますが、まだ半分ぐらいです。
まあ、無人島に来てから今までの部分って当初のプロットには存在していなかったんで当然ですが!
ほら、これが文字数という制限から解放された作者と作品のなれの果てだよ。




