番外編その7 漂泊の守護神 第五話
「ユウトくん、どうぞ」
「ありがとう。いただきます」
再び真紅の眼帯を身につけたアルシアから深い木皿を手渡されたユウトは、その匂いをかぎ、安心したように木製のスプーンを手に取った。
中身は、一部の具材を除き、変哲もないクリームシチューだ。けれど、その普通さがいい。こんな状況で豪華な食事を出されても逆に困る。
スプーンでシチューを混ぜて冷ましながら、ユウトは強ばっていたものが解れていくのを感じていた。
「ルウを使うのは初めてだし、料理自体久しぶりだから、上手くできているか分からないけれど」
煙の出ない魔法のたき火にかけた中型サイズの鍋。そこから自分のシチューをよそいながら、アルシアが控えめに言う。
だが、料理などほとんどしたことのないユウトからすると、それは謙遜にもほどがあるというものだった。
「美味いよ。昔を思い出すな」
控えめに絶賛し、ユウトは二口三口とクリームシチューを食べ進めていく。
鶏肉ではなく燻製の山羊肉を使用しているが、エグザイルが用意してくれただけあって臭みはまったくない。かみしめるとコクがあり、思ったよりもジューシーだった。
牛や豚とは異なる味わいだが、この野趣が今の状況にはよく合っている。
無限貯蔵のバッグに入っていた、タマネギとニンジン。それに、クリームシチューのルウでアルシアが手早く作り上げたそれは、なぜかユウトに冒険者時代を思い出させた。
当時は、クリームシチューなんて存在もしていなかったのに。
「だんだん作らなくなっていったけど、アルシア姐さんの料理は楽しみだったんだよな」
「そう言われると……なんだか恥ずかしいわね」
ユウトから目を背けた――真紅の眼帯をしているが――アルシアが、あぶっていたバゲットの状態を確認する。明らかに照れ隠しだ。
ヴァルトルーデには任せられない。別の意味で、ラーシアにも。エグザイルに任せたら、胃もたれする未来しか見えない。それで担当した料理当番が、ユウトを喜ばせていたなんて。
そして、それを今になって知るなんて。
なんて、ひどく。なんて、ずるい人だろう。
アルシアは、平静を装うので精一杯だった。
「ああ、ユウトくん。チーズがいい具合に溶けているわよ」
「ありがとう」
串に刺したバゲットを手渡――そうとし、二人の手がぶつかるように触れる。
「あっ」
「ん?」
驚いたアルシアがあわてて手を離し、その反応にユウトが首を傾げる。
正しいのは、ユウトの反応だ。それは間違いないし、アルシアも認めざるを得ない。とっくに、それ以上のこともしているのだから。
それでも、余裕を感じさせるユウトの態度は不満だ。慌てふためいてほしいとまでは言わないが、もう少しなにかあってしかるべきではないだろうか。
アルシアは、再びバゲットを手渡しながら、わずかに唇をとがらせた。
このように、小さな不満はある。
けれど、幸せで、愛おしくなるほど穏やかな時間だった。
「今日は無理しないことにして正解だった。落ち着いて、こんな美味いご飯を食べられたんだから。もう、動く気なんて起きないな」
「……そうね」
雰囲気を変えるために発したユウトの言葉に、アルシアが穏やかにうなずいた。
ベースキャンプを構築し、無限貯蔵のバッグの整理という形で装備を確認したユウトたちは、無理に活動しようとはしなかった。
まだ動こうと思えば動ける時間であったが、英気を養うことにしたのだ。
幸いにして、食料は大量にあった。
正確には、ラーシアがいつの間にか無限貯蔵のバッグに入れていた。
二人では一ヶ月かけても食べきれないほど大量のカップめん。
カレーやハヤシライス、牛丼などのレトルト食品。
今回使った、シチューやカレーのルウ。
チョコレートやポテトチップなどのお菓子類に、ペットボトルに入った飲み物。
アルシアとともに発見したときには、ユウトは、いつの間にこれだけ溜め込んだのかと膝から崩れ落ちてしまいそうになった。
「でも、ラーシアもいいところがあるのではない?」
「恩に着せまくって、倍返しさせられるに決まってる」
「……そういう意見もあるわね」
「いっそ、コンビニ一軒丸ごと買い取ってファルヴに運び込んでやろうか」
賢哲会議に知られたら、即座に動き出しそうな構想を口にしたユウト。その目は、かなり本気だった。
それが実現するかはさておき、ユウトはさらに二杯ほどシチューをおかわりをしてから、これからの計画をアルシアへと伝える。
「というわけで、明日は神力解放を試そうと思ってる」
「その方法は私も考えたし、早期決着を目指すのなら、それしかないのでしょうけど……」
真紅の眼帯の上から目の辺りをなぞりつつ、アルシアは懸念を口にする。
「純粋に、今の状況で使って大丈夫なのかしらという心配があるわね」
神力解放をすれば、この状況を打破できる可能性は高い。そこには、アルシアも異論はなかった。
だが、当たり前のことだが、確定はしていない。
今まで通り吸収されて無効化されるのなら、まだいい。実害はないのだから。
「簡単に言ってしまえば、神力解放をすることで暴走でも引き起こされたら厄介ではない?」
「もちろん、その可能性は俺も考えたよ」
先ほどのアルシアと同じような言い回しで、ユウトは応えた。
「アルシア姐さんが、同じような心配をするだろうことも含めて」
「それでも、やるのね?」
「本当のピンチに陥ってから使う羽目になるよりは、マシだと思うし」
それもまた正論だった。
こんな状況だ。手札はあるに越したことにないし、どうせ切るのであれば安全な状態で確認をしておきたい。
「そもそも、神力解放まで封じられるような環境って、想像もつかないんだよね」
そこまで反則な現象だったら、そもそも転移できていない。
トラス=シンク神の力が及んだ環境なのだから、いつも通りとはいかなくとも、通用するのではないか。
それがユウトの見立てだった。
「確かにそうだけれど……こんな時、昔なら、神託を乞うて確認していたわね」
「うん。お世話になったなぁ」
期せずして、二人とも、昔のことを思い出していた。
推測はできる。
しかし、確定はできない。
まさに、今のような事態に直面したとき、神託を乞うて事実を確認したことが何度もあった。当時は真剣だったが、振り返ってみれば懐かしい思い出。
こうして野営をするのもそうだ。
こうしてたき火の周りに集まって、エグザイルは一人瞑目し、ラーシアは酒を飲んで陽気に歌ってはユウトに絡み、ヴァルトルーデがそれを止める。
それから、ヴァルトルーデはユウトと少しだけ言葉を交わして嬉しそうにする。ユウトも、はにかみながらそれに応え、いじろうとするラーシアをエグザイルが物理的に止める。
そんな仲間たちの存在を、一歩引いた場所から感じて満足するアルシア。
まだ今ほど気の置けない仲ではなかったが、そういう部分も含めて懐かしく楽しい記憶。当時は目も見えず、感情は声や雰囲気から察するだけ。姿も想像しかできなかった。
それなのに、アルシアの脳裏には――当時はいなかったはずのヨナも含めて――仲間たちの生き生きとした姿が思い浮かんでいた。
それは、ユウトも同じだった。
しばし、煙の出ない魔法のたき火を前に、思い出に浸る二人。
「なんだか、不思議な気分ね」
「昔は、こんなことになるなんて想像もしてなかったよなぁ」
こんなこととは、〝虚無の帳〟を打ち倒し、世界を救って領地を任されることか。
それとも、地球へ戻らずブルーワーズに骨を埋めることになったことか。
あるいは、ヴァルトルーデやアルシアと夫婦の契りを結ぶことになったことだろうか。
そんな物思いにふける……が、結論は出なかった。
それが中断を余儀なくされたのは、遠くから遠吠えのような音が聞こえてきたから。
現実に引き戻され、ユウトがこれまでではなく、これからのことを語る。
「それで、今夜のことだけど……」
このままなら、一緒のテントで寝ることになるだろう。いや、寝る。
その場合、どうするか。トラス=シンク神から言われたからではないが、こんな状況だし、そこはコンセンサスを形成したうえで、結果にコミットするのが重要ではないか。
そんな、洋食屋のオムライスみたいにふわっとした思考は、アルシアによって切って捨てられた。
「そうね。先に私が見張りをするから、ユウトくんはしっかり休んでて」
「あ……。うん、そうか。そうなるのか……」
ユウトは食器を地面において腕を組み、うなずきながら首をひねるという器用な真似をする。
どうやら、ユウトはそういうつもりであったらしい。
それは、些細で当然のことではあるのだが……。
アルシアは、胸が暖かくなるほどの喜びを感じていた。
物事は、見る角度によって様々な事実が存在する。
例えば、ヴァルトルーデを愛するユウトと、アカネを愛するユウトと、アルシアを愛するユウト。
このユウトたちはもちろん同一人物であり、そこにはなんの矛盾も存在しない。虚偽もない。
つまり、夜間の見張りを買って出たアルシアがアカネからの手紙を開封しても、そこに矛盾は存在しない。虚偽もないのだ。
明日に備えてテントの中で眠るユウトをわずかに意識しつつ、真紅の眼帯を外したアルシアは、ダークブラウンの瞳で文章を追う。
『アルシアさんのことだから、積極的に迫るんじゃなくてその場の雰囲気とか流れに乗って、そうなったら……ぐらいの気持ちでいると思うので、この手紙を書きます』
のっけから断定と駄目出しだった。
余りと言えば余りの書き出しに、思わず手紙を取り落としそうになる。
こういう方面の話だとは、手紙を見つけた瞬間に分かっていた。だから、ユウトから隠したのだ。それでも、実際目にするとショックだった。
(なにをさせるつもりなの、アカネさん!)
信じてはいる。同じ男を愛する同輩として、信じてはいる。
だが、自らのキャパシティを超えそうな教えが書いてありそうで、読み進めるべきかどうか迷ってしまう。幸いにして、目の前に焚き火もある。
(いえ。でも、せっかくのアカネさんのアドバイスなのだし)
さすがに、なかったことにはできない。
誠実な人柄が偲ばれる判断を下し、アルシアは門をくぐることにした。
『いろいろ書いても分からなくなると思うから、要点を簡潔に書きます』
やっぱり言い足りなかったらしく、後に応用編が書き足されるのがそれはともかく。
『大事なところを髪とかで隠しつつ、自分からユウトに抱きつけば、それでオッケーだから!』
そのアドバイスは、簡潔と言うよりも単純に過ぎた。
(いえ、無理。無理よ、アカネさん)
要するに、こちらから誘えと言っているわけだが……。
無理。絶対に無理と、アルシアは無言で――しかし、顔を真っ赤にして――首を振る。そんなの恥ずかしいし、そもそも、男性に望まれればという前提の行為ではないのか。
それをこちらからなど、破廉恥だ。非常識だ。どうなっているのだ。いや、それでユウトが喜ぶのであれば考慮に値するのだろうが、無理、無理、無理だ。
しかし、その反応はアカネにしても織り込み済みだったようだ。
『恐らくというか確実に無理だわ、恥ずかしいわと思っているでしょうが、そんなことはないのよアルシアさん』
続きに目を通せば、呆れつつ諭すような文言が記されていた。
(なぜ、私は手紙と会話しているのかしら……)
驚くべきは、アカネの先読みか。それとも、分かりやすい反応を見せている自分自身なのか。
アルシアの思考能力は、段々と低下していった。
『この程度、地球じゃ普通だから。宇宙の法則世界の基本だから』
(それは、地球が間違っているだけではないの!?)
『迫られても、ユウトはアルシアさんのことをアレだとか絶対思わないから。むしろ、一方的なアレじゃなかったんだって喜ぶから。ノリノリになるから』
やけに指示語が多く具体性に欠くが、ユウトが喜ぶらしいことは理解できた。しかも、ノリノリになるらしい。
(ノリノリって、つまり、いつも以上ということでいいのかしら……?)
それはとても喜ばしい……と無条件にうなずきかけて、アルシアは慌てて首を横に振る。
無理、無理、無理だ。
あのユウトがいつも以上に求めてくるなんて、心も体もどうにかなってしまう。
(いえでも、ユウトくんが喜んでくれるのであれば、それを受け止めるのも妻の務めでは?)
否定する度にそれを覆す理由が思い浮かび、続けて、やっぱり無理だと手紙を持った手で顔を覆う。
大司教の懊悩は続く。
こうして、無人島での初めての夜は更けていった。
並行してノクターン向け作品を書いているせいか、
アルシア姐さんの脳内がピンクのしおりみたいなことになっていますね。
ですが、次回からは大丈夫だと思います。