9.聖女と女帝、再び
絶望の螺旋。
世界を滅びに導く、狂気の存在。
悪神ダクストゥムが、運命を操作して作り出したその核。絶望の螺旋を滅ぼす核を倒した直後の裏切りにもかかわらず、聖堂騎士は責めようともしない。
ただ、鋭い視線で赤毛の――だいぶ短くなっていたが――女帝を射抜くだけ。
「随分と、優しいことだな」
「なに。きっちり負けを認めさせねばな。あとから、未練たらしく化けて出られても、困るであろう?」
「同感だ」
ヴェルガが放った右の拳は、ヴァルトルーデの頬をえぐっている。
秀麗な相貌を歪めながら、聖女は女帝と言葉を交わす。そこに怒りはあっても、驚きは微塵もなかった。
その態度。いや、覚悟に満足したのか。ヴェルガは淫猥な微笑を浮かべて拳を引く。
最大の戦いは終わった。
しかし、それは最後の戦いではなかったようだ。二人の間には、それに匹敵する戦意が横溢している。
「もう、充分楽しんだであろう? そろそろ、婿殿を返してもらうぞ」
「なにを言う。まだまだこれからだぞ。カイトやユーリの成長もそうだ、アカネも子供を産むし、ユウトと一緒なら一生楽しいことばかりだ」
「……憎たらしいことよ」
「ユウトは渡さん」
「ならば、奪うのみよ」
傷ついてもなお、美しさは損なわれていないヴァルトルーデ。
往時に比べれば子供同然の容姿だが、淫靡さは変わらぬヴェルガ。
二人の間で、緊張が高まっていった。
悪の半神を教育していたヘレノニア神は、未だ、神々が作り上げた正八面体の結界で眠りについている。絶望の螺旋の核が排除されたことで狂気の波動はなくなったが、影響は深刻なのだろう。
とても、ヴェルガを止めることはできそうもなかった。
そして、それはほかの神々も同じ。
「天草勇人、我々は帰還しなくてはならない」
「……それは、そうですね」
ヴァルトルーデとヴェルガに意識を釘付けにしていたユウトが、ゼラス神からの言葉で事態を悟る。
善と悪の神々の間で結ばれた青き盟約。地上への介入を禁じたそれの例外である、絶望の螺旋は撃退した。
完全に滅び去ったのか、それとも神々の牢獄へと戻っただけなのかはまだ分からないが、地上を去らねばならぬ時がきたのは間違いない。
「この度の功績、感謝に堪えない。必ずや、厚く報いるだろう」
「いや、そういうのは、いいんですけど……」
言外に、そんなことより、ヴェルガも連れ帰ってくれと要求するユウト。
それに知識神が答えようとしたところ――
「無用だ」
――まさか、身内から反対意見が飛び出した。
「この女は、私が天上送りにしてやる」
「言うてくれるの」
自信満々に言い切るヴァルトルーデに、ヴェルガは余裕の笑みで答える。
「それに、私たちに報償があるということは、ヴェルガにもなにかはあるのだろう」
「それで妾が天上への帰還を拒めば……」
もしかすると、善と悪の神々の衝突が勃発するかもしれない。
「最悪だ……」
最悪だが、仕方がない。
「承知しました。この場は、任せてもらいます」
「うむ。よろしく頼むぞ」
知識神ゼラスは大きくうなずき、リィヤ神に目配せをする。
「アカネ先生によろしく伝えて」
まさか、アカネのおかげで美と芸術の女神の力が増し、この書き割りの結界を維持できたなどとは想像もしていない。ただの挨拶だと深くは考えず、ユウトは軽くうなずく。
それで満足したリィヤ神が、再び絵筆を取り書き割りの世界を解除した。
単色の世界が徐々に薄くなり、レイ・クルスが虐殺を働いた平原へと戻る。
その時には、もう、すべての神は姿を消していた。
変わらないのは、にらみ合う聖女と女帝だけ。どちらも、隙をうかがっている。
「はっ。見てる場合じゃない」
ユウトは粘液にまみれても健在な呪文書を取り出し、残る呪文を確かめる。
原因は、朧気ながら――といよりは、はっきり分かりたくないのだが――分かる。ならば、原因である自分がどうにかしなくては。
まだ粘液にまみれているような状態だが、構っていられない。ユウトは、二人の下へと飛び出そうとし――
「おっと。そこまでだよ、ユウト」
――ラーシアにインターセプトされてしまった。
未だ片足を失ったまま、しかし、その程度では草原の種族は変わらない。
にやにやとわざとらしい笑みを浮かべ、ユウトを止めたラーシア。
ただ、それも嫌がらせというわけではなかった。
「なんで、止めるんだよ」
「ユウト……。ヴァルの味方をするつもりでしょ」
「そりゃそうだ」
当たり前のことを言うなと、ユウトが不機嫌そうに答えた。
すると、分かってないなとラーシアが肩をすくめて首を振る。
思わずいらっとしながら、ユウトはなにがいけないんだと問い返す。
「ヴァルの味方をするのは、当たり前だろう?」
「それじゃ、どっちにしろ遺恨が残るって言ってるのさ」
「ユウト。珍しく、ラーシアの言う通りだ。今回は、好きにさせたほうがいい」
「当事者なのに……」
ラーシアだけでなく、エグザイルにまで諭されては諦めるしかない。
「大丈夫よ、ユウトくん。大好きなみんなを信じましょう」
「うああああああ」
絶望の螺旋が生み出した塑像の偽物たちへの、口説き文句を思い出してしまったのだろう。ユウトが、気恥ずかしさに身悶えする。
「さすが、アルシア。容赦しないね……」
「ああ……。的確に急所をえぐっていくスタイルだな」
ラーシアとエグザイルが、戦慄に顔をひきつらせる。
なお、めんどうだから両方とも攻撃して黙らせる――とでも言い出しそうなヨナは、また気を失ってそのアルシアの背にいた。幸いである。
「……なにを言っているのか分からないけれど、怪我を治しましょう」
さすがに、《奇跡》は種切れ。
そのため、呪いなどを解除する防御呪文と、高階梯の治癒呪文を組み合わせて治療を施していった。
逆説的だが、それが可能であることを見越し、神々も手出しをしなかったのであろう。
ヴァルトルーデはもちろん、ヴェルガにも治癒を行うことを見越して。
「妾まで癒すとは、これはまた随分と優しいことよ」
元の世界に戻り、傾きつつある日の光を浴びながらヴェルガが皮肉げに言う。
さすがに髪までもとはいかなかったが、外傷はすべて癒えている。
「万全の状態でないと、困るもの」
しかし、アルシアにはその皮肉は通じない。
ダークブラウンの瞳で赤毛の女帝をまっすぐに見つめ、自分たちのためだと説明をする。
「あなたには、言い訳のできない状態でヴァルにやられてもらう必要があるから」
ストレートに叩きつけられた、本音。
エグザイルに託されたヨナが、ぴくりと反応する。
実は起きているのか、それとも、ヨナを抱いているエグザイルが気圧されたのか。あるいは、眠っていても反応してしまうほど、苛烈だったのか。
真相は明らかではないが、その輝くような意志はヴェルガの意識を引き寄せるに充分だった。
「確か、そなたも婿殿の妻であったな。そこまで言うのであれば、参加しても良いのだぞ?」
「ヴァルの足かせになる気はないわ」
ばっさりと切り捨て、アルシアは二人から離れた。
最後に、ヴァルトルーデ――幼なじみに、信頼の視線を注いで。
それにうなずきを返した聖堂騎士は、再び悪の半神と向き合った。
「先に、一発殴っていいぞ」
「……どういうつもりかの?」
「さっき、先制された分も、一緒に治癒してしまったからな。仕切り直しだ」
「なるほどの」
得心したと、ヴェルガはうなずいた。
その堂々とした振る舞いに、感心しているようにも見える。
「では、やるかの」
ぶらりと、散歩にでも出るかのような所作で、ヴェルガはすっと前に出た。
そして、右の拳で遠慮なくヴァルトルーデの頬を打つ。
頬骨や歯の堅さなど、関係ない。
拳を痛める心配など、思いつきもしない。
ましてや、相手の堂々たる振る舞いに感心して遠慮する……など、ありえない。
全力で、すべての力を振り絞って拳を放った。
体重だけでなく、嫉妬――そう、妬ましい妬ましい妬ましい――も乗せて、不倶戴天の敵を打ち砕く。
離れた場所から固唾を飲んで見守っているユウトたちのところまで、ばちんという音が聞こえてきた。
ヴァルトルーデの美貌が歪む。リィヤ神がその場にいたら、美への冒涜だと憤りそうなほどだ。
「先ほどよりも、力がこもっていないか?」
「不意打ちではなくなった分、差し引きではおなじであろ?」
「なるほど……」
ヴァルトルーデは、ひとつ頭を振る。
「それは、道理だ」
相手の言い分を認めると同時に、ヘレノニアの聖女も拳を振るう。
ただし、狙いはヴェルガの顔ではない。
腹だ。
肘を折り畳み、下から突き上げるようにして肝臓の辺りを狙う。
それは綺麗に決まり、ヴェルガが体をくの字に折り曲げる。短くなっても、なお豪奢な赤毛が舞った。
「素手で殴り合いが始まったんだけど……」
これが自分のための戦いだというのは、否定しない。
そのほうが解決に近づくというのであれば、傍観するしかない無力感も受け入れよう。
「でも、想像してたのと違う……」
熾天騎剣と例の王錫が変化した大鎌で打ち合うと思っていたのだ。確かに、素手のほうが安全ではあるが……。
「ちょっと、生々しすぎる」
ユウトが、どう処理していいのか分からないと嘆く間にも、聖女と女帝は意地と意地とをぶつけ合う。申し合わせたように、一発ずつ、交互に。
「あれもヴァルの作戦だよ。いや、お互いにかな?」
「作戦?」
「そうさ。ヴァルもヴェルガも、リソースはほとんど使い切ってるんだから」
「……それでか」
体力は回復しても、呪文の使用回数はどうにもならない。
そして、絶望の螺旋は余力を残せるような相手ではなかった。
それでも、今、この場で決着をつけなくてはならない。
決着は、肉体的にではなく、精神的に屈服させなくてはつかない。
だから、感情がストレートに伝わる素手を用いた。
「鎧を着込んでいる割には、軽い拳よの」
「拳の重さが想いの重さなどと、言うのではあるまいな?」
「言ったとしたら?」
「ヴェルガの拳など、ラーシアも倒せぬな」
口の端から血を流しながら、二人はニィと笑う。
刹那、ゆらりと同時に動く。
ビシィと大気を切り裂く音が響き、二人の頬を拳がかすめた。
「おや、顔が傷つくのは嫌かの?」
「無論だ。私だけのものではないのだからな」
「おやおや。まるで、顔で釣ったかのような物言いよの」
「うらやましいか?」
「婿殿も、妾の美貌にはときめいておったぞ?」
「ぬかせっ」
俺が顔だけで選んだみたいに言うな――という抗議は、当然ながら届かない。
今度は、力比べをするかのように二人が手を合わせた。
「しかし、不思議なものだな」
「ほう、奇遇よの」
ぎりぎりぎりと、どちらも引かず中空で静止する。
「あの時のような、憎しみを感じない」
「別に、認めておるわけではないがの」
あの時――フォリオ=ファリナで戦ったときのように、ユウトがヴェルガに捕まっていたからというわけではないのか。ヴァルトルーデの心に、燃えるような憎しみはなかった。
ヴェルガも同じで、妬ましさはあっても憎しみはない。
「案外、共闘して情が湧いたのかもしれんの」
「否定はしないが……」
と言いながら、ヴァルトルーデは爆発的に押し込み、中段蹴りを放つ。
鋭い蹴りがヴェルガの脇腹に突き刺さる――寸前、小さくなったヴェルガは左腕の肘を振り下ろし、左足の膝とで挟む。
アクロバティックな動きだが、それだけでは終わらない。
手を放して体を仰け反らすと、残った右足でヴァルトルーデの胸を蹴り抜いた。そのまま、空中を聖堂騎士が吹き飛んでいく。その小さな体躯からは想像もできない威力だ。
「しかし、駄目だな」
「ああ。駄目だ」
「私の、私たちのものだ」
「奪い取る」
「譲ることなど――」
「――できるはずがない」
蹴り飛ばされたヴァルトルーデが空中でトンボを切り、拳を天に掲げる。
「カイト、ユーリ。私に力を」
我が子の顔を思い浮かべ、ヴァルトルーデは拳をぎゅっと握った。
勝つ。
子供たちのために。子供たちに、相応しい、誇れる人間であるために――勝つ。
「妾の矜持に懸けて……勝ち取る」
初めてユウトに会ったときの高揚感。
夢で重ねた逢瀬。
絶対に、ユウトしかいないとという信念とともに、ヴェルガも拳を握った。
「もう、そなたの顔を見るのもうんざりよ」
「それは、お互い様だ」
拳を握った二人が、それを振り上げ宙を翔る。
「ヴェルガァッッ!」
「ヴァルトルーデ・イスタスッッ!」
名前を呼び合い、お互いに意地をぶつけ。
己のすべてをこめた一撃が、二人の顔に突き刺さった。
刹那、すべてが静止する。
永遠とも思える一瞬が過ぎ去り……最初に動いたのは、ヴェルガだった。
「ふっ。此度も及ばずか」
ふらっと体を揺らし、空中でバランスを崩す赤毛の女帝。
「貴様に勝つ機会があったとするならば、最初だけ。私がまだ、ユウトを手にしていなかった最初だけだ」
「そのようなこと、百も承知よ」
ゆえに、催眠でユウトの最初の女になろうとしたのだ。
しかし、ヴェルガに敗北感はない。
空中から地面へと落下しながら、それと自らの状況とを重ね合わせて淫猥な苦笑を漏らす余裕すらある。
「まあ、良いわ」
これで終わりではない。
終わりがくるまで、負けではない。
これはまだ、長い長い戦いの途中に過ぎない。
戦いというものは、最初から最後まで勝ち続けている必要はないのだ。最後、終わりのタイミングで勝ちさえすれば、それで良いのだ。
そして、悪の半神は、姿を消した。
これにて、本編は終了。
明日エピローグを投下し、完結です。