5.癒しの時間
「MPを、MPを回復させなくては……」
その日の仕事を終えたユウトは、廊下をふらふらと歩きながら意味不明なつぶやきを漏らしていた。
無理もない。
報告書は、他にもいろいろあったのだ。
今やフォリオ=ファリナに次ぐ貿易港となりつつあるハーデントゥルム――次ぐというだけで、規模の差はとてつもないのだが――の状況を評議会がまとめたもの。
看板はアカネとレジーナが率い、王都にも進出したヴェルミリオだが、それだけではない。
周辺から海賊がいなくなった――最近、ヨナが海へと進出していることとの関連は報告書で語られていない――お陰で貿易港としての地位が高まっている。
さらに、新たな消費地であるファルヴの街が順調に発展している上にイベントも多く、供給元であるハーデントゥルムは我が世の春を謳歌していた。
当然、イスタス公爵家という太陽があっての春であることは忘れていなかったが。ハーデントゥルムの評議会は、ユウトによって、同じように我が世の春を謳歌していたブルーノ・エクスデロが処刑場の露と消えたことを忘れてはいない。
ドワーフの里、メインツにおいて産出された鉱石の種類とその量。及び、生産された品々の輸出額を調査し、ミランダ族長から提出された報告書もある。
玻璃鉄の需要はまだまだ満たせたとは言えず、馬車鉄道が延伸する度に仕事は増えていく。また、南方大陸遠征で有用性が証明された瓶詰め用のボトル生産も新たな産業となりつつあった。
他にも、クロニカ神王国に租借して作った交易の玄関口、ロートニアの状況。そして、税収の推移とイスタス公爵家が投下した資本についてなど。
正直やりすぎたと、ユウトが後悔するほど膨大だった。
まとめるのも大変だっただろうが、それをチェックするのも同じとまでは言わないが、消耗することには変わりない。
こうなると、疲れ果てたユウトがわけの分からない言葉を発するのは、ある意味で仕方のないことのかもしれない。
ただ、第三者視点では理解できないというだけで、ユウトとしてはきちんと内容があった。
肉体的な疲労であるHPは、寝ることで――深い意味はない――回復する。まだ若いし、実時間の倍に相当する睡眠時間を得るヒューバードのベッドもある。
しかし、精神的な疲労。すなわち、MPはそうはいかない。趣味に興じる、愛する人と過ごすなどしてMPを回復させなくては。
そして、HPだけでも、MPだけでも人は労働できない。
癒し。癒しが必要だった。
それを求め、ユウトは子供部屋へと足を向け――その途中で、それに匹敵する癒しに出会った。
「おお、コロ!」
まさに、子供部屋へと顔を出した帰りだったのか。
天草家の愛犬コロが、大好きなユウトめがけて駆け寄ってくる。
こうなると、その背後にいる両親も眼中にない。
ユウトは、片膝をついて愛犬を迎え入れた。
「ああ……。頑張ってよかったなぁ」
後ろ足で立ち上がり、ユウトの足をひっかくようにして喜びを表現するコロ。
それも長くは続かず、コロがその場にごろんと転がってあっさりとお腹をさらす。そして、撫でるが良いと言わんばかりに何度か身をくねらせた。
こうなると、ユウトも我慢の限界。
求められるままに手のひら全体でコロのお腹を撫で、残った手で耳をこしょこしょとしごいてやる。
幸せそうで、それでいて疲れているようにも見える透明な笑顔だった。
「ゆうちゃんとコロちゃんのかわいいところを同時に見てる、私たちが一番の勝ち組ね」
「私たち……? いや、いい」
春子の感想に頼蔵は異議を差し挟もうとしたが、結局、取り下げた。
どの角度から見てもカタギではない頼蔵ではあるものの、彼にも勝てない相手はいるのだ。
だからというわけではないが、頼蔵は射抜くような視線で息子を観察する。
組織を裏切っている疑いのある部下の真偽を見抜こうとしている組長にしか見えないが、もちろん違う。迫力がありすぎて、雰囲気だけでラーシアがスカウトしに来たこともあるが、違う。
ユウトのことを考えていたのだ。
孫が生まれるのにあわせて、ブルーワーズへ移住した頼蔵。
引っ越しの片づけもそこそこにユウトの仕事を手伝うようになったのだが……。
正直、頼蔵としては非常識だ、ありえないと叫びたかったことは何度もある。
けれど、そこは部下が暴走するのを、ぐっとこらえる若頭のような表情でやり過ごした。
だからといって、放置できるはずもない。
発端からして異常だったのは理解しているし、義務教育を終えた程度でもこの世界では貴重な戦力だというのも分かっているが、いくらなんでも属人性が高すぎた。
そこで、ユウトの父親と持ち前の押しの強さ――頼蔵としては黙っているだけなのだが――で、効率化と分散化を押し進めた。
それでも、トップにしかできない仕事はある。それは仕方ないと、頼蔵も思ってはいるのだが……。
「そもそも、なにか危機が起こったら駆り出されるというのがおかしいのだがな」
人の息子と、その嫁と友人をなんだと思っているのかと言いたくなる。
言いたくなるが、お門違いだと独り言にとどめる。
だから、口にしたのは別のこと。
「勇人。いつまで、そうしているつもりだ。二人とも、眠そうにしていたぞ。さっさと行きなさい」
「はっ。じゃあな、コロ。父さんと、母さんもおやすみ」
最後に、ぽんぽんと愛犬のお腹を叩いたユウトが、挨拶もそこそこに走り去っていく。
先ほどより表情は明るくなっており、頼蔵は密かに安堵するが、もちろん表には出さない。
そんな夫と息子に、春子は名前のように朗らかで幸せそうな微笑を浮かべた。
「ああ……。やっぱり、ヴァルの子供だけあって、かわいいなぁ」
ベビーベッドの柵に体を預けながら、ユウトがとろけそうな声で言う。
頼蔵が危惧していたとおり、カイトもユーリも眠ってしまっている。それは少し残念だったが、両手を上げて紅葉のような手を――本当に、紅葉の葉のように小さい!――握って寝ているその姿といったら、もう、言葉にならない。
ユウトは、人には見せられない――ラーシアがいたら、からかわれるのではなく引かれるぐらい――表情を浮かべていた。
「かわいいのはそうだが、ユウトの子供でもあるのだぞ? 私としては、ユウトの子供だけあってかわいいと言いたいところだ」
「そうは言ってもさ。俺の遺伝子は、表に出ないほうが子供のためだろ」
「勇人、真顔で言う?」
一緒に子供を眺めるヴァルトルーデの抗議にも、ユウトはまったくぶれない。
少し離れたところでノートパソコンと格闘していたはずのアカネが、顔を上げてあきれたように言った。
「言うさ。だってもう、ヴァルに似てる時点で、人生イージーモードだろ?」
「それはそうだけど……。性格次第じゃないかしら?」
「そこは、まあ、今後の教育次第ということで」
「なんだか、ほめられている気がしないのだが」
少し不満げに頬を膨らます聖堂騎士。
そんなヴァルトルーデたちを、アカネの隣に座るアルシアは慈母のように優しく見守っていた。
子供部屋には、カイトとユーリが眠るベビーベッドのほか、親が休むためのベッドやソファも運び込まれている。就寝前に家族が集まり、双子を囲んで語り合うのが常だった。
この部屋には、ユウトが許可した人間しか入れない魔法の鍵がかけられており、セキュリティも万全だ。
「ただ、まあ、そうだな。教育は重要だな。特に、読み書きはできたほうがいい」
「重みが違うなぁ……」
本気すぎて、ユウトは反応に困ってしまう。
そんな夫にして子供の父親の手を引き、ヴァルトルーデはソファに移動しアカネやアルシアの前に座った。
出産前も大きく体型が変わらなかったヴァルトルーデだが、出産後も同じだ。とても、子供を二人も産み、現在進行形で育てているとは思えない溌剌さ。
母親になったことで精神的な余裕が生まれたせいか、一層華やかさが増しているように見える。
その超人的なフィジカルに、アカネは密かなプレッシャーを受けていた。
(元々負けてはいるけど……。たるんで勇人に愛想を尽かされたら死ぬわ)
もちろん、ユウトが愛想を尽かすようなことはないだろうし、肉体的に死にはしないが、精神やプライドは死ぬ。死ぬのだ。
「まあ、初等教育院に入れるから、そこは大丈夫だろ。その先は、剣か魔法か信仰か芸術か……。そこは、本人たち次第だけど」
子供たちには、無限の可能性がある。
神々の加護のお陰で、健やかに成長することは約束されていた。だから、未来のことだけを思い描くことができる。
それは、とても幸福なことだった。
「でも、ユーリちゃんは結婚が決まってるじゃない?」
ユウトが子供の自主性に任せると言った言葉に嘘はない。
しかし、現実として、二人の将来は決まっている部分もある。
アカネの当然の指摘に、ユウトは眉をぴくんと跳ね上げた。
「別に、現時点だと形だけだからな。ユーリが嫌だって言ったら、取り消すさ」
「ユーリちゃんが、王妃になる!って言ったら?」
「そりゃ、相手がユーリにふさわしいと判断できるまで鍛えなくっちゃ」
「そうだな」
ユウトとヴァルトルーデが、王子様の教育係になるらしい。
0歳児には酷な未来だが、是非とも頑張ってほしいとアカネはエールを送った。
心の中で。
心の底から。
「それで、ユウトくん。仕事のほうは、どうなんです?」
インスタントだがコーヒーを淹れ、ユウトへと差し出しながらアルシアが問う。疲れている様子のため、スティックシュガーも添えて。
「終わらないけど、目処はつけてきたって感じかな」
心遣いに感謝しつつ、ユウトはコーヒーを口に含む。
暖かな液体が体中に染み渡り、カフェインを摂取したばかりだというのに眠たくなってくる。
「ユウトは、少し頑張りすぎではないのか?」
「そろそろ、次のイベントがあるからな。それまでには、いろいろ片づけておかないと」
「イベント?」
大祭は終わったばかりだぞと、ヴァルトルーデが頭上に疑問符を浮かべる。
しかし、分かっていないのは、彼女だけだった。
「そういえば、またサミットをやるんだったわね」
「そして、その先は……」
近く予定されている、周辺国の元首を集めた頂上会議。
その議題は、ヴェルガ帝国征伐について。
「ああ。そうだったな」
忘れていたというと、若干語弊がある。
ヴァルトルーデは、常在戦場。当然のことと、意識していなかった部分も大きい。
そして、ユウトたちにとって他人事ではない。
参加するのは当然。
それが終わるまではと、アルシアは子供を我慢しているのだから。
自然と、彼女へ視線が集まっていく。
「どうかしたの?」
それなのに、見られる理由がまるで分からないと言うアルシア。
ユウトとアカネは、一瞬視線を交差させ、これ以上の追及を行わないことで同意した。
いわゆる、武士の情けというものだ。
しかし、聖堂騎士であるヴァルトルーデは違った。
「なに。今までは、悪がいるからと戦ってきたが……」
アルシアを。次いで、背後の子供たちを見てから、再びアルシアのダークグレーの瞳をのぞき込む。
「未来のために戦うのも悪くはない。そう思っただけだ」
そして、英雄譚の主人公そのものの決意を口にした。
冒頭のHPとMPの話は、ブラック企業勤めの友人の経験談です。
それはそれとして、もしかすると来週は書籍化作業のため少々お休みが入るかもしれません。




