3.王子様、働く(前)
急成長を遂げる、イスタス侯爵領の中心地ファルヴ。
大賢者ヴァイナマリネンによって行われた基本設定に則ってユウトが土台を作り、トルデク率いるドワーフの若者たちが建物を造っていく。
そこに、ファルヴで働く人々――城塞で働く文官たち、神殿関係者。それに、ドワーフたち自身――が入居し、また、彼ら目当ての商売人たちが移転してくる。
そうして発展を遂げていったファルヴには、珍しいことに貧民街が存在しない。
ユウトが過度な人口増加を抑制しているというのもあるし、ラーシアが裏社会を律しているというのもある。
それ以上に、ここ数年好景気に沸くイスタス侯爵領には働き口はいくらでもあり、定職につけていること。そして、ドワーフたちの建築速度が人口増加を上回っていることも大きい。
加えて、健康保険がセーフティネットとなり、病気や怪我で社会からドロップアウトすることもほぼなくなった。
食うや食わずの貧民が、ほとんど存在しないのだ。これで貧民街ができるはずもない。
だが、最近になって、それに近い街区が生まれた。
三階建ての集合住宅が集まる一角。
下水道が完備されているファルヴでは、それとの兼ね合いで二階建ての建物が多い。この集合住宅は、暫定的な居住が前提の宿舎。
正式に勤め先が決まれば、その近隣の住居へ移動する仮の住まい。
そこに、南方からやってきた解放奴隷たちが、大量に入居した。というよりは、詰め込まれたといったほうが適切かもしれない。
過酷な労働と、最低限を割り込みかねない衣食住しか提供されていなかった過去。それに続く船旅。それらに比べればましな待遇だろうが……舵取りを誤れば、そのまま貧民街化しかねない。
その舵取りを任されたのは、否、舵取りに立候補したのはクレス。
もちろん、同僚に手伝ってもらってはいるが、クレスは責任者として孤軍奮闘を続けていた。
「なんでも構わない。不足している物資があったら教えてほしい」
「いえ。もう、充分によくしていただいておりますじゃ」
今、集合住宅の玄関口で顔を合わせているのは、腰の曲がった白髪の老人。
労働という意味では役に立たないが、経験と人望で使役者側から奴隷たちの管理の一部を任されていた。その立場を今も引き継ぎ、解放奴隷の取りまとめ役になっている。
奴隷だが、使役者側でもあったという微妙な立場。
今となっては、かつての恨みをぶつけられてもおかしくはないのだが、居丈高な振る舞いはなかったのだろう。反対の声はどこからも挙がらず、クレスとの窓口になっている。
長老と、いったところだろうか。
「何度も言っているけれど、遠慮はいらない」
それは良いのだが、問題があった。
とにかく、要求が少ないのだ。
その態度は美徳だろうが、クレスの立場だと厄介事につながる。
「むしろ、足りなくなる前に言ってくれたほうが助かるぐらいだから」
それは完全に本音だ。
なにか起こってから慌てて対処するぐらいなら、普段から忙しいほうが遙かにまし。
それが、ユウト……というよりは、書記官のクロード・レイカーの下で働き始めて数週間が経過したクレスの本音だった。
「厚かましいようですが、そういうことでございましたら……」
クレスの熱意が伝わったのか。
老人が、申し訳なさそうに希望を述べる。
結論から言うと、食料は充分だが衣料品が足りていないようだ。かつての習慣で、そもそも着替えるという発想がなかったらしい。なので、洗濯などで回収されると着る服がなくなってしまう。
かといって、洗濯に出さないと衛生面で問題が発生し、近隣からも苦情が出る。
その他、細かい要望も、メインツで試作されたクリップボードに挟んだ天竜の里で作った植物紙へ、地球から取り寄せたボールペンで書き込んでいく。ユウトかアカネが同行していたら、取り合わせの妙に感慨を抱いたかもしれない。
そうとは知らないクレスは、必要な衣料品の数量を書き留めながら、手配する手順を頭の中で確認していく。
多少のミスは許されているが、続けばどうなるか分からない。なにより、自分自身が許せない。
頭と紙とで要点をまとめ、クレスは長老を正面から見つめる。
「他に困ったこと。気になったことがあったら、なんでも言ってほしい。絶対に、むげにしたりはしないから」
「はい、はい。ありがとうございますじゃ……」
最後にもう一度、注意という名のお願いをするが、真意が伝わったと確信までは持てない。頭を下げるどころか、長老は手を合わせて祈り出す始末なのだから。
だが、これ以上言っても逆効果かと、クレスは精一杯の笑顔を浮かべてファルヴの城塞へと戻っていく。
クレスが孤軍奮闘しているのは、誰もが認めるところだろう。
あとは、悪戦苦闘ではないと信じたいところだ。
自ら申し出たことだから、投げ出すつもりはない。それでも、もう少し上手くやれないだろうかと、ついつい地面を見てしまう。
このファルヴは彼らにとって新天地には違いないが、楽園のような生活とはいかない。確かな現実が、眼前に横たわっていた。
「悩む必要はない」
そんなクレスに、硬質な声でアドバイスが飛ぶ。
先ほどは一言も発しなかったが、同行者がいたのだ。
いや、同行者というよりは指導員とでも言うべきか。
いつの間にか事務処理のスペシャリストになりつつある次元竜ダァル=ルカッシュが、淡々と事実を口にする。
「大丈夫。お金はある」
「そこに関して、悩んでいるわけではないんだけど……」
後ろを歩く硬質な少女――ダァル=ルカッシュの端末の言葉を否定する。
だが同時に、それは通常あり得ないことだと気づき、思わず足を止めた。
南方遠征の帰路、物資の調達に携わったときも、時間や質には腐心したが、支払いの心配はしなかった。それほど、潤沢な資金が用意されていたのだ。
それは、祖父から命じられイスタス侯爵家で働き始めてからも同じ。
それが当たり前になってしまい、異常さに気づくのが遅れた。金策に走らずに済むだけ、自分は楽をしているといえるのだろう。
さすがは、資金が足りなくなると悪のドラゴンを狩って補填すると噂されるイスタス侯爵家だ。
「ところで、予算といったほうが良いんじゃ?」
「どちらでも構わないが、ダァル=ルカッシュの主なら下手に取り繕ったりはしない」
「まあ、あの人は……そうだろうな」
ユウト・アマクサ。
大魔術師にして、岩巨人の自治区を加えると一国に匹敵する大領地を抱えることとなったイスタス家の家宰。
南方遠征に同行した、アレーナ・ノースティン曰く「人類の例外」。ファルヴのヘレノニア神殿副神殿長の評価は、実に妥当と言えた。
確かめたことはないが、年齢はそう変わらないはず。
それなのに、落ち着きも実行力も桁違いだ。
世界を救う傍ら領地経営をこなす。あるいは、逆――領地経営の片手間で世界を救っている――かもしれないが、どちらにしろ真似などできそうにない。
だから、「人類の例外」などと評されてしまうのだろう。
「今のは不適切な発言だったと、ダァル=ルカッシュは謝罪する」
「……確かに、上司に対して失礼だったかな」
「そこではない。そんなことをダァル=ルカッシュの主は気にしない」
「まあ、それも確かに」
クレスも、そこが問題だと本気で思っているわけではない。
では、焦点はどこなのか。もったいぶることなどなく、ダァル=ルカッシュが率直に言う。
「ダァル=ルカッシュの主とクレス王子。両者を比較すること自体が誤り。意味などなかった」
「それはそうだ。まったく及ばないんだから」
「それも違う」
表情は変えず、身振りも交えず。
ただ言葉だけで、次元竜の端末は淡々と否定した。
「両者の立場が異なれば、自ずと思考や行動も違ってくる。にもかかわらず、それを考慮に入れていなかった。ダァル=ルカッシュは、改めて謝罪する」
「はぁ……」
疲労のせいだろうか、頭が回らない。言っている意味を、十全に理解できない。
ユウトとクレス。二人は違うと言いたいのだろうが、当たり前すぎて意味がある言葉とは思えなかった。
「……上手く伝わらなかった。これは、ダァル=ルカッシュの能力の問題」
「そんなことは……」
「違う。コミュニケーション不全は、発信側に責任がある。そうでなくては、常にコミュニケーションは一方的になってしまうとダァル=ルカッシュは考える」
「はぁ……」
言いたいことを言うのではなく、相手のことを考えなければならないということだろうか?
とりあえず、ダァル=ルカッシュが気を使ってくれているのは分かった。
クレスは、王子様と呼ぶにふさわしいさわやかな笑顔を浮かべ、その気持ちに応える。
「ありがとう。頑張るよ」
聞き取った衣料品の調達だけが仕事ではない。
集合住宅に解放奴隷を割り振ったが、完璧な部屋割りなどできるはずもない。今もまだ、調整が続いている。
食料の手配も、一度で終わりではない。一日三度の食事を滞りなく提供しなくては。
それに、近隣の住民への説明も欠かせない。見慣れぬ異郷の人間が、突然やってきたのだ。万が一にも衝突があってはならない。
過酷な労働環境と長い船旅による緊張感から解放され、体調を崩す者も多い。アルシアが帰ってきて治療も楽にはなったが、油断はできなかった。
それに、解放奴隷たちの身の振り方も決めなければならない。基本は、南方遠征から持ち帰った作物を育ててもらうことになるが、農作業に拒否反応を示す者も少なからずいる。彼らにも、仕事を紹介しなければならなかった。
やりたいこと、しなければならないことは山のようにある。
クレスのやる気は、充分。
能力も備わっている。
しかし、だからこそというべきか。
彼らのためにと夜遅くまで働いては、自室へ帰って寝るだけの日々を続けた結果――。
「ううぅ……」
数日後の朝。
妙に体が重たく感じられ。
「あれ?」
クレスは、起きあがることができなかった。
イスタス侯爵家は、ブラックじゃありませんのだ。