プロローグ
大変お待たせいたしました。
最終章、更新開始します。
リ・クトゥアからの帰還後、いくつかの騒動は起こったが、ユウトの周囲では概ね平和な日々が続いていた。
あるいは、世界の命運を懸けた戦いに比べれば、性転換や人格の入れ替わりなどちょっとした日常のスパイスにしか過ぎないということなのか。
もっとも、ユウトたちの基準と世間一般の認識とをイコールで結ぶのは危険すぎる。
アルシアらとの協議を経て、従来よりも活動的になったヴァルトルーデの一挙手一投足に比べたら、物理的にどうにかできる敵など問題にならない。
決して明言はしないが、根底にはこんな乱暴な思考があるのだから。
とにかく、性別や体が変わってもユウトが仕事を続けた甲斐もあり、問題は最小限に抑えられた。
それに、イスタス侯爵領には、ユウト以外の人材もいる。
イスタスの大祭は滞りなく終了し、その後始末は書記官のクロード中心に行われた。適宜報告は受けているが、その点に関してユウトが直接なにかすることはない。
南方遠征で連れ帰ってきた元奴隷たちに関しても同様で、こちらは見習いとして配属されたクレスが主に担当していた。
いきなりだが、責任感という意味では適材適所と言えるだろう。ユウトも領地経営の経験などなかったのだ。上手くやってくれるはず。
この点も含めて、イスタス侯爵領はいつも通りだった。
変わったことと言えば、ユウトが奥義書に関して、一切口にしなくなったこと。それから、ヨナがユウトから離れなくなったことだろうか。
前者に関しては、口にしなくなったというよりも存在を記憶から抹消したというべきかもしれない。ヴァイナマリネンに叩き返すのも危険となれば、なかったことにするしかない。
そして、後者――ヨナに関しては、ユウトの性別が変わったことにショックを受けて泣き出すといった、情緒が不安定な状況に陥ったという外的な要因が大きい。
恐らくだが、ユウトとヴァルトルーデが消えた――絶望の螺旋を押し返すため呪文で転移した――ときに芽生えたトラウマを、刺激してしまったのだろう。
それが正解かはともかく、多大なショックを受けたことは容易に想像できるため、アルシアも容認するしかない状況だった。
そのため、ヴァルトルーデと連れだって外出をしている今も、ユウトはアルビノの少女を背負っていた。
「まるで、親子のようだな」
「こんな大きな娘を持った記憶はねえ」
隣で笑うヴァルトルーデに、ユウトは渋面で答える。
アルシアが認めている以上、ユウトが拒否できるはずもない。いや、拒否をしても聞き入れられるか、はなはだ疑問だ。
とはいえ、それに不満を抱いてはいない。
率直に言って慣れたというのもあるし、別に身重の妻とデートというわけでもないのだ。ヨナの精神安定に一役買えるのであれば、背負うぐらいどうということもなかった。
そう。デートではない。
今日の目的は、見送りだった。
「殊勝なことじゃ。大儀であるぞ」
頭上から聞こえる得意げな声に、ユウトは思わず苦笑いを浮かべる。
だが、それだけで済ます。言いたいことはあったが、ヴァルトルーデが世話になった恩を忘れるわけにはいかなかった。
その、腹部の膨らみが目立ち始めた絶世の美女。それに、アルビノの少女を背負う、大魔術師。
彼らがいるのは、すべての季節の花々が咲き乱れる空中庭園リムナスだ。
いつ来ても、ここは絶景が広がっている。
風が甘い香りを運び、庭園を縦横に走る水路からは清涼感のある水音が聞こえてくる。自然と精神が落ち着き、疲労も抜けていく。
パワースポットなどという存在をユウトは信じていなかったが、魔法の実在は抜きにして、ここにいると、確かに身も心も癒される感覚はあった。
できれば、ずっとここで過ごしていたい。
そんな癒しの空間の支配者は、巨大な赤竜。赤火竜パーラ・ヴェントが満足そうに鎌首をもたげ、翼なき人間たちを睥睨する。
陽光にきらめく紅玉の鱗は神秘的で、尋常ではない体躯に万物を噛み砕く牙は恐ろしくも美しい。
全身に、威厳と自信が満ち満ちており、それがまた、美しさにつながっていた。
それは、彼女が請け負った新たな任務と無関係ではない。
竜神バハムートから代理人に指名され、ワドウ・レンカにより混乱に陥ったリ・クトゥアの収拾を任された。
つまり、竜神から信頼されているという証。
離縁を申し渡された相手から頼られるのは、赤火竜の自尊心を満足させるのに充分だった。
それに、嫌いあって別れたわけではないのだ。そんな相手から頼りにされて、得意にならないはずがない。
自然、鼻息も荒くなる。ヨナやラーシアであれば、吹き飛ばせるほどに。
しかし、それがやる気につながるのかというと、そう単純な話ではなかった。
無論と言うべきかパーラ・ヴェント自身は統治するつもりなどなく、下々の者に任せる――押しつけるつもりである。
実際、こうしてファルヴとの往復に要する期間で統治の筋道を付けるように言い渡してある。返事は聞いていない。実行されるものと、疑ってはいなかった。
とんでもない暴君だが、止められる人間は、少なくともリ・クトゥアには存在しない。
彼の地に住む人々の半数以上が邪竜帝とユウトたちの戦いを見せられた後に、伝説の赤火竜が君臨するというのだ。
間違っても反抗する者はいないだろうし、いたとしても潰されるだけ。それが分かっている者は、パーラ・ヴェントの意向に沿うよう必死に行動することだろう。
結果が出なければ、天から降ってきた劫火で焼き尽くされるかもしれないのだ。本気で取り組まないはずがない。
結果として、ユウトが手出しするまでもない統治機構が発足する可能性が高いのだった。
「まったく、世話の焼けることじゃな。このパーラ・ヴェントが地上におらなんだら、どうなっていたことか」
崇めよ。奉れ。褒め称えよ。
言葉だけでなく、赤火竜は全身でアピールする。実際、彼女の仕事と言えばそれしかないのだが……その点を抜きにしても、浮かれているようにしか見えなかった。面と向かってそれを指摘して、命の保証はできないが。
「調子乗ってる」
「……なんぞ言ったか?」
ユウトの背中にいる命知らず――ヨナ――の歯に衣着せぬ感想は、しかし、パーラ・ヴェントの耳には届かなかったようだ。
「聞こえなかったふりではないか?」
……というヘレノニアの聖女の指摘も、同様だ。
「でもまあ、助かったのは事実だし」
そう言って、真実を追究しようとする愛妻をいさめるユウト。
七つの島。五つの古竜。三つの宝珠。唯一の竜帝。
かつてそう謳われたリ・クトゥアの象徴は、多くが欠けてしまった。
そんな状況から立ち直らせるには、穏当な治療法だけでは難しい。
パーラ・ヴェントの投入は明らかに荒療治以外のなにものでもないが、劇薬も薬である以上、効果はあるはずなのだ。
リ・クトゥアの民にとって、最良の選択肢とは言えないかもしれないが……。
(任せると決めた割には、未練があるな)
では、自分なら最良とはいかなくても、より良い選択肢になれただろうか。
そう考えてしまったユウトは、しかし、そこで思考を打ち切った。捨てたカードに執着するようなもので、意味がないどころか害悪だ。
幸いにも、赤火竜パーラ・ヴェントとイスタス侯爵家の間に結ばれた同盟関係は継続していく。
向こうに変事があれば、介入する大義名分はあるということだった。それに、なにがあれば黙っていてもアルシアに神託が下りることだろう。
任せはするが、完全に放っておくわけではない。
そう思って、見守るしかないだろう。
折り合いを付けたユウトは頭上のパーラ・ヴェントから視線を下ろし、その足下にいる天の宝珠の管理者――元管理者というべきだろうか――スイオンに声をかけた。
「そういうわけで、あとは俺たちではなくパーラ・ヴェントに任せる形になります。放り出すみたいで申し訳ないけど、こっちの生活を捨てるわけにはいかないんで許してください」
そういって、ユウトは頭を下げる。
背中にいるヨナが邪魔で難しい作業だったが、そうしないわけにはいかなかった。
漂流時の衰弱によりリ・クトゥアへ連れていけなかったため、本来当事者の一人であるはずのスイオンは蚊帳の外で決着をしてしまった。そのうえ、天の宝珠も失われた。
それに対する謝罪も、含まれている。
「滅相もありませんぞ」
しかし、頭を下げられたほうはたまったものではない。
慌てて両手を振り、それでは通じないとなると、スイオンも頭を下げる。
「ご迷惑をおかけしたのは、こちらのほうではございませぬか。改めて、深くお礼申し上げます」
空中庭園で繰り広げられる謝罪の応酬。
「ユウト、危ない」
「ぐわっ」
結果として、先に頭を上げたのはユウトだった。
バランスが崩れヨナに首を絞められては致し方ない。
「まあ、私の夫は妙に義理堅いというか、責任感が強いのだ。適度に流してくれ」
「は、はぁ……」
だが、そう言われて「はい、そうですか」と納得するわけにもいかない。
すっかり体調も回復し、パーラ・ヴェントとともにリ・クトゥアへ帰還する竜人は困ったように生返事をする。
感情が読み取りにくい顔からも、その心情は伝わってきた。
「……ヴァルに、そんなことを言われるとは」
ヴァルトルーデこそ、義理と責任感の塊ではないか。
ユウトは、そう反論しようとして……。
「似たもの夫婦?」
背中から聞こえてきた声で、断念せざるを得なかった。
「ええと、まあ。今回は大して力になれませんでしたが、なにかあったらまた頼ってください」
横目でパーラ・ヴェントを見てから、改めてユウトはスイオンへと向き直って言った。
「左様ですな。では、次は漂流せぬようにいたしましょう」
そう応じたスイオンは、言葉を切ると遠くを見つめながら続けた。
「帰り着きましたなら、まずはワドウ・レンカがなぜあのような暴挙に至ったのか調べてみたいと思っております。そのあとは、宝珠の管理者という役目を離れた今、自分になにができるのか見つめ直しますかな」
ワドウ・レンカの暴挙を許してはいない。だが、ユウトから真相に近い憶測を聞き、どこか理解できる部分もあったのだろう。
決意を露わにするスイオンへ、ユウトは少しだけうらやましそうに、うなずき返した。
ユウトとヴァルの子供の名前に、たくさんのご応募をいただきありがとうございました。
登場は少し先になりますが、本編にて発表させていただきます。