6.立つ鳥跡を濁さず(前)
夜明けとともに目を醒ましたアルシアは、城塞の浴場に籠もって身を清めていた。
昼夜を問わず滾々と湧き出る湯が浴槽に流れ、そこから沸き立つ湯煙が、アルシアの裸身を覆い隠す。
だが、そんな状況でも、死と魔術の女神の大司教が沈んだ表情をしていることは見て取れる。
結局、あれ以来ヴァルトルーデとは話せていない。もう、あのときの怒りなど雲散霧消しているが、なんとなく謝れずにいた。
思えば、それがいけなかった。言葉も交わさず、昨夜は寝室も別に過ごしてしまい、そのままだ。
無意識に溜め息を吐きながら、アルシアは桶に汲んだ水を肩から流していく。見ているだけで思わず身震いしそうな光景だが、表情ひとつ変えずに身を清める。
玉のような肌を、水滴が滑り落ちていった。
湯を弾く瑞々しく張りのある肌は、ただ一人の男にしか許されていない。これまでも、そして、これからも。
その彼にも、相談はできなかった。あまりにも、情けなかったからだ。
ヴァルトルーデが、気にしていないのは分かっている。
だから、怯んでいるのは、自分自身の問題。
そう自己分析できる程度には、アルシアは冷静だった。
しかし、どうしたら良いかまではわからない。なにしろ、どんなに記憶を遡っても、ヴァルトルーデを相手に声を荒らげたことなどなかった。
つまり、喧嘩も、仲直りも経験がない。
(甘えていた、ということかしらね……)
他の誰にでもない。アルシアが、ヴァルトルーデに甘えていた。今さら気づくほど、それが当たり前になっていた。
アルシアは再び水を肩からかけ、ゆっくりと立ち上がる。
同時に頭を振り、そんな雑念を追い払った。
今は、他にやるべきことがある。死と魔術の女神トラス=シンクより神託を賜り、少しでもリ・クトゥアの情勢を掴んでおかなければならない。身を清めていたのは、そのためだ。
長い濡れ羽色の髪で体の一部が隠れているものの、アルシアの姿は一個の芸術品だった。誰もが飾っておきたいと思うと同時に、誰にも見せたくないと秘匿したくなるに違いない。
それは、ユウトですらも例外ではないだろう。
しかし、彼女は自らの美しさになど頓着せず、タオル――ユウトが、地球から大量に持ち込んでいる物――を使って体を拭くと、優雅とは言えない速度で祭服に着替えた。
いつも通りの足下まである黒いローブ。その上に、淡黄色の法衣を纏い銀の聖印を首から提げる。もう、真紅の眼帯は持ち運んでいない。
最近はアカネから入浴後のスキンケアを課されていたのだが、彼女がいないので省略する。後で怒られるかもしれないが、どうせ、明後日にはリ・クトゥアへ遠征なのだ。ばれることもないだろう。
「《帰還》」
さっぱりと身を清めたアルシアは、その身が塵芥にまみれぬうちにと、登録したいくつかの拠点へのみ瞬間移動が可能な神術呪文を発動した。
移動した先は、神の台座にある、死と魔術の女神の墓所。
無数のたいまつが照らし出す、厳かな空間。
漆黒の霊廟は縦横100メートル以上あり、天井も巨人が入れるほど高い。
そんな場所に、アルシアが一人。
事前に人払いをしていたためでもあるし、単純に時間が早いためでもあろう。
宗教施設らしからぬ、ほとんど装飾のない霊廟。
アルシアは、その一番奥――天井まで届く紅の塔を目指してしずしずと歩みを進める。
その横顔には、先ほどまでの憂いはどこにもない。
清楚で、気品を感じさせる所作。聖職者と聞いて、誰もが思い浮かべる理想の姿が、そこにあった。
「魔術の女王、死者の魂を慰撫する慈悲深き御方よ。我と我らの行く道を、大いなる叡智にて照らし給え」
聖句を唱え、アルシアが紅の塔に跪く。
ほとんど、無意識の動作。一瞬で瞑想状態に入り、彼我の境界が曖昧になっていった。
物質の存在が急速に遠くなり、世界の様相が変わっていく。
大地も大気も存在が希薄になり、世界が空になる。
物質が、概念に置き換わっていくような感覚。
その一方、大いなる存在が、より強く身近に感じられる。
喜びの感情が全身を貫き、アルシアの一番奥の部分が感動に打ち震えた。
真摯な祈りは、神へと届き。
そして、対話が始まった。
――ワドウ・レンカは悪か。
アルシアの意識が問う。
――否。
神――トラス=シンクからの返答は、短い。
すげない……というわけではない。神の意思はあまりにも深遠で巨大なため、いかにアルシアといえども、そのすべてを受け止めることはできないのだ。
アルシアは、短い問答を続けていく
――ワドウ・レンカの行いは、悪か。
――肯。
――ワドウ・レンカの存在は、リ・クトゥアにとって災厄となるか。
――肯。ただし、すべての住人にとってではない。
注釈の部分は、個々人で価値観の違いがあるからだろうか。
戦乱の時代よりは、自意識を制限されても平和なほうが良いと考える人間もいるに違いない。それでも、大部分の人間にとって、ワドウ・レンカの覇道は歓迎せざるものだということがはっきりした。
説得か、実力行使か。どちらかは決まっていないし元々そのつもりではあったが、これでワドウ・レンカを止めるという方針は確定した。
――ワドウ・レンカが人の宝珠を使用しているのは、正式な手順によるものか。
――否。
――ワドウ・レンカは、既に天の宝珠を我が物としているか。
――肯。
アルシアは次に、もうひとつの懸案についてトラス=シンク神に伺いを立てる。
――レイ・クルスは、リ・クトゥアにあるか。
――肯。
――レイ・クルスの目的に、変化はあるか。
――否。
――ワドウ・レンカの覇道に協力することは、レイ・クルスの利益となるか。
――否。
――レイ・クルスの協力は、ワドウ・レンカの利益となるか。
――肯。
レイ・クルスは、リ・クトゥアにいる。
そして、復讐――剣姫スィギルを取り戻す――は、変わっていない。
それなのに、レイ・クルスがやっていることは、ワドウ・レンカにのみ利益をもたらすというのは、どういうことなのか。
――レイ・クルスが、リ・クトゥアにいるのは彼の目的のためか。
――肯。
――レイ・クルスの利益と、我々の利益は衝突するか。
――肯。
やはり、レイ・クルスとワドウ・レンカは、完全な協力関係にあるというわけではないようだ。
そこに付け入る隙があるのか。
それを考えるのは、ユウトの役目。
心からの感謝をトラス=シンク神に伝え、現実へと戻ろうとしたその瞬間、波動のように思念が伝わってくる。
「――くっ」
思わず、アルシアは息を飲んだ。
死と魔術の女神の墓所に意識が戻ってきたが、まだ、これが現実か咀嚼できていない。
なぜなら、最後の思念には、まるで母が子の心配をするような感情が乗せられていたから。
「……一言謝れば、済むことよね」
トラス=シンク神にまで気を使わせてしまったという羞恥に頬を染めたアルシアは、再び《帰還》の呪文を使用し、城塞へと戻っていった。
「ほう。リ・クトゥアか」
リ・クトゥアの情勢とは無関係に、開催は続くイスタスの大祭。
ゆえに、朝早くから、大賢者ヴァイナマリネンは屋台の一角で、竹に乗って麺を打っている。
何度か見たはずだが、慣れない。
そんな超現実的な光景を目にしながら、ユウトはパス・ファインダーズの一員に、ワドウ・レンカとレイ・クルスについて語っていた。
この状況はともかく、レイ・クルスの件をヴァイナマリネンへ伝えたのは、少しだけわだかまりの残ったヴァルトルーデとアルシアと無関係ではない。
このまま、あの二人が仲違いするとは思ってもいないユウトだったが、重ね合わせてしまうところがあったのだろう。
結局、洗いざらい伝えることにした。
「場合によっては……というか、十中八九殺し合うことになるな」
詳しい状況は、現地で確認するまで分からない。
今、アルシアが神託を受けているところだが、はっきりした情報までは得られないだろう。
それでも、平和的に解決できるとは、思えなかった。
「ワシの許可などいらん。好きにすれば良かろう」
「……別に、ジイさんの許可をもらいに来たわけじゃないけどな」
「ふんっ。なら、ワシを牽制するつもりか。成長しても、小さいヤツだな!」
「うるせえよ。こっちは、根が小市民なんだ」
あっさりと見透かされた恥ずかしさに、ユウトはことさら大きな声をあげてしまった。夜明けから一時間も経っていない澄んだ空気を、老人と青年が言い争う声で引き裂いていく。
「まあ、こっちにも事情があるんだよ」
こちらから情報を提供することでヴァイナマリネンの行動を抑制したいという思いは、確かにあった。
それ以上に、レイ・クルスとの関係においては、ヴァイナマリネンを完全に信用し切れていない部分も、ユウトの胸中には存在していた。
ヴァイナマリネンは剣姫スィギルと会うために天上を旅し、大武闘会にはレイ・クルスと組んで出場している。
また、神々への不信があるのかまでは分からないが、知識神ゼラスとの仲も良好とは言いがたい。
エルドリック王やメルエル学長に比べると、大賢者ヴァイナマリネンはレイ・クルスにより共感を憶えているように思える。
最悪、ヴァイナマリネンと極東の地で敵対することも、ユウトは覚悟していた。
しかし、それはできれば避けたい事態だ。愛する妻と、まだ見ぬ子の健康のためにも。
だからこうして、試すようなことをしてまで、ヴァイナマリネンを縛ろうとしているのだ。
「あやつからは、なにも言われておらんわ」
「リ・クトゥアにいることも知らなかったと?」
「なんでもかんでも知っておるわけがなかろう。気色悪いわ」
「大賢者の台詞としては、どうなんだろうなぁ」
麺打ちの手は止めず、ヴァイナマリネンは言い捨てた。
「でも、頼まれたら助力するってことかよ」
「内容にもよるがな」
「なる……ほど……」
その気持ちは、ユウトも分からないでもなかった。
道を違えたとはいえ、友情に変わりはない。ならば、許す範囲で手助けをというのは、当然の感情だろう。想像に過ぎないので、言葉にはしなかったが。
(……それは、レイ・クルスも分かってたはずだよな?)
ヴァイナマリネンの助力を得るまでもないと思っているのか。
(それとも、協力を得られないと分かっているのか……)
だとしたら、かなり危険だ。
そう考えたところで、ユウトはあきれたように息を吐いた。
レイ・クルスが危険なのは、最初から分かりきったこと。今さらだ。
「まあ、ジイさんたちのフォローは、俺たちがしっかりやってやるよ」
「抜かせ」
二人の会談は、それで終わる。
結局、顔を合わせることなく、二人は別れた。