1.南方からの帰還
「さあ、早く構えなさい。実戦では、敵は待ってくれませんよ」
「はぁ、はぁはぁ……ッッ」
レラから発せられる、冷たくも熱のこもった言葉。
だが、それを投げかけられているクレスは、その声を聞いているのかいないのか。ただ、よろよろと立ち上がり、必死に呼吸を整えるだけ。
足に力は入らず、みっともなくがくがく震えている。
手は長剣を握ってはいる。だが、腕の感覚などないに等しく、要求通り構えることなどできそうにない。
祖父譲りの整った顔を汗が流れ落ちていった。金髪が、うなじや頬に張り付いて気持ち悪い。けれど、それをどうにかしようという気も起きない。
漆黒のボディースーツを着たレラから視線を外し、クレスは天を仰ぐ。
抜けるような青空。燦々と照りつける太陽。誰もが笑顔になる、いい日和だ。
しかし、クレスの目には、太陽がゆらゆらと揺れて見えていた。
ここが船上だからというわけではない。意識か頭のどちらかが、ぐるぐる回っているためだろう。
唯一、吹き抜ける風だけが、爽快感を与えてくれている。
今のクレスを簡単に表現すると、ボロ雑巾のようといったところになるだろうか。
しかも、航海中ずっと、こんな具合だ。南方大陸から連れ出した元奴隷たちからも、農場にいた頃の自分たちよりも酷い扱いだと噂されているらしい。
だが、彼らの元主人よりは、レラのほうが加減を知っている。
クレスとしては、そう思いたかったし、信じてもいた。
なぜなら、構えろと指示を出したレラは、クレスの体力が戻るのをじっと待ってくれているから。
鉄球がつながった足枷で蹴り飛ばそうとはせず、髪を潮風になびかせている。
クレスとしてはそれも覚悟していたのだが、呼吸が整わないうちに向かっていっても、またやられるだけ。それなら、まだ、見逃してもらえる可能性に賭けたほうが良い。
南方遠征の航路でレラに絞られ続けたクレスは、そんなふてぶてしさまで身につけていた。
「時間切れです」
「くそっ」
しかし、ずっと待ってくれるほど力の神の分神体も甘くはない。あくまでも、彼女の指導は厳格かつ過酷だ。
足枷を身につけているとは思えない身軽さで不規則に揺れる甲板を駆け抜け、クレスに肉薄。
「ちっ」
苦し紛れに、長剣を振るのではなく、足払いを仕掛けた。
ふらふらの状態だったとは思えない、コンパクトで鋭い蹴り。
「浅はかっ!」
けれど、思慮が足りないと一喝される結果に終わる。
まるで流れる水のような動きで蹴りをかわし、レラがクレスの懐に入った。二人の顔が、息がかかるほどに接近する。
刹那。
ズドンと音がしそうなほどの一撃が、鳩尾に放たれた。
拳なのか、蹴りなのか。それすら分からず、クレスは、その場に立ち尽くす。衝撃に吹き飛ばされることもない。つまり、威力はすべてクレスの体内に吸収された。
「――――――――」
もはや、悲鳴も苦鳴もあげることはできず。
糸が切れた人形のように、その場へ崩れ落ちた。
「空だ……」
青い空、白い雲、煌めく太陽。
耳には波音、肌には潮風。
無意識に天へと手を伸ばし、太陽を掴むかのように拳を握る。
意識を取り戻したクレスから湧き出てきたのは、生きているという実感だった。
「目が覚めた? だいじょうぶ?」
「ああ……。いつものことだから」
我ながら情けないと苦笑しつつ、クレスは身を起こそうとする。
だが、それはサティアによって、簡単に阻まれてしまった。
「もうちょっと、休んで」
「……そうしよう」
肩を押され、再び甲板に寝かせられるクレス。
そのときになってようやく気がついたのだが、どうやらサティアに膝枕をされていたようだった。
しかし、全身は筋肉痛で怠く、思考も鈍い。少なくとも、今は、なにも感想は思いつかなかった。以前も、レラに同じようなことをされて、慣れていたからというわけではない。決して。
「行くであります!」
「やあっ!」
風に乗って聞こえてくる、少女たちの声。
クレスに代わって、今はアレーナとペトラの二人がレラに扱かれているようだった。
さすが、力の神の分神体と言うべきか。自らの研鑽のみならず、後進の指導も怠らない。自分も他人も関係なく、鍛えるのが好きなのだろう。
力さえあれば、不幸を取り除くこともできる。
正義にはまず、力が必要である。
すべての前提に確固たる力の存在を掲げる、レグラ神の教えそのものでもあった。
そして、レラが布教活動に勤しむことができるのは、帰路の航海も順調だということを意味していた。
かなりの無茶をしつつも、奴隷解放と種苗の獲得というミッションを成功させた南方遠征団。
行きと違い多くの元奴隷たちを迎えた船団だったが、元々その予定だったこともあり、大きな混乱は発生しなかった。
いや、正確には、脱出した直後には、小さな混乱もあった。
なにしろ、帝亀アーケロンの口のなかに入って逃亡という離れ業で陸を離れたのだ。補給も完璧とは言いがたい。
そのうえ、人が一気に増えたのだ。往路並の食料を支給するのは困難だった。
だが、困難だからと諦めるわけにはいかない。
手配されている可能性を考慮し、本来の航路とは外れた港で補給をすることになった。
クレスもサティアも、なぜかそれに一枚噛んで――というよりは、事務長と一緒に備蓄品の確認や配給計画を作成に尽力し、補給に奔走した。
タイドラック王国の王子であるクレスは、当然、読み書き計算を修めている。しかし、戦士であるという矜持を抱いていた彼は、フォリオ=ファリナでの冒険者時代も含め、いわゆる雑用に携わったことがなかった。報酬や財宝の分配、それにパーティ資産の運用など金銭に関わる部分は、仲間たちに任せていたのだ。
英雄は、そんなことに関わらないと。むしろ、得意げに。
今思い返すと、羞恥にのたうち回りたくなる態度。
それを反省したから――というわけではないが、とにかく、脱出直後の食糧不足は極めて危ない状況だった。
なにしろ、下手をしたらヘレノニアの神官戦士団が《聖餐》という神術呪文で生み出した食事を食べることにもなりかねなかったのだから。
そう。味のしない濡れた紙のような《聖餐》をだ。
結果として、なんとか、味のしない濡れた紙のような《聖餐》よりもましな食事を支給することはできたのだが、幸運だったのは、船員たちも粗食に慣れていたことだろう。
「いざとなったら、コクゾウムシの湧いた堅パンに藻の浮かんだ水でも、飲み食いできりゃ良かったほうなんだ」
「おう、塩漬けの豚肉なんざ、航海の終わり頃にゃ船長でも滅多に食えねえ」
「補給が終わった直後でも、4人で一枚しか支給されねえがな!」
「それが、地上にいるときと変わらねえ飯にありつける」
「エールも、ケチケチしねえしな」
「そのうえ、壊血病の心配までないと来たら、逆に罰が当たるんじゃないかと心配になるぐらいだぜ」
申し訳なさそうなクレスにかけられた言葉は、王子として育てられた彼にとって、かなり衝撃的だった。
これは、かつてのイブン船長に問題があったわけではない。
堅パンに、わずかなチーズ、豆のスープ。あるいは、オートミール。それに、船に乗れば飲めるという宣伝のために支給されるエール。
食事というよりは餌と表現したくなるメニューが、当たり前だったのだ。
壊血病対策という前提があったにせよ、保存瓶まで大量に用意し、食糧事情を強引に解決したユウトは、やはり、どこか感覚がずれているのだろう。
そして、粗食に慣れていたのは、救出した元奴隷たちも同じ。
思い切って新天地を目指したものの、正直半信半疑だった彼らも、まるで客人のような扱いを受けたことで、態度を軟化させた。今では、新天地に思いを馳せ、到着したらなにをしたいかなどと語り合っているようだった。
また、クレスたちを、まるで英雄のように崇め、称賛するのだ。
(英雄か……)
サティアの体温を後頭部に感じながら、クレスは『英雄』という存在に思いを馳せる。
祖父エルドリックは、紛れもなく英雄だ。
百層迷宮を踏破し、滅びたタイドラック王国を復興させたのだ。その功績は、英雄と呼ぶに相応しい。
ヴァルトルーデ・イスタスも、間違いなく英雄だろう。
幾度となく世界を救った働きもさることながら、彼女の生き様そのものを英雄と表現したくなる。
翻って、自分はどうなのだろうか。この二人に比肩するなにかを持っているのだろうか。
(足下にも、及ばない……)
それは卑下しているわけでも、自虐に浸っているのでもない。むしろ、その自己評価は成長の証ですらある。
かつては彼我の距離に拗ねることしかできなかったが、今は多くの人に支えられ、二人の価値をきちんと把握できるようになった。
それなのに、『英雄』扱いされている。
憧れ、目指し、挫折した立場にいる。
(英雄は、なるものじゃない。いつの間にか、なっているものなんだな)
祖父エルドリックも、ヴァルトルーデも、英雄になることを目的としていたわけではないだろう。
本来の目標へと邁進し、達成することで、英雄と目されるようになったのだ。
もちろん、英雄を目指すことは悪いことではない。
クレスも、そして、アルサス王も、それを目指している。
けれど、それを目指すだけでは、また意味がない。
信念を持ち、行動する。
それでいて、評価を求めない。
それこそが、英雄なのだろう。
「船だ! 進路上に、小型艇が漂ってるぞ!」
マストの上から、見張りの声が響いた。
「難破船かもしれねえ!」
それを受けて、甲板上が俄かに慌ただしくなる。イブン船長へ伝令が飛び、レラたちも稽古の手を止めて船首方向へと確認に行く。
クレスも跳ね起きて舳先を目指す。今度は、サティアも止めはしなかった。
「……船なんて見えないけど」
しかし、いくら目をこらしても目の前に広がるのは大海原のみ。船など、影も形も存在しなかった。
「いえ。確かに漂流している船があるようですが……」
「さすが、レラ殿でありますな」
「呪文を使えば、見えるかもしれないですね」
アレーナとペトラの言葉に、クレスは内心でうなずいた。
実際、見張り要員には、ユウトから玻璃鉄のレンズに《遠見》の呪文が付与された望遠鏡が貸与されていた。
つまり、レラの視力は双眼鏡並みということになるのだが、今さら、その程度で驚く人間もいない。
「こんな沖まで出られるような船ではありませんね。漂っていることよりも、今まで保っていることのほうが驚きです」
レラの見立ては、熟練の見張り員と一致しているようだった。
背後から、イブン船長に説明する声が聞こえてくる。
「嵐にでも遭ったのか、かなりボロボロでさあ」
「見捨てるわけにはいかねえな。だが、戦力はしっかり整えていけ」
船長の命令を受け、甲板長が人員を選出。
慌ただしく上陸用のボートが下ろされ、神術呪文の使い手であるアレーナや、万一の事態を考慮しクレスも同行することとなった。
油断なく武装し、漂流船へと接近する一行。
だが、結果だけ言えば、すべて杞憂に終わった。
外洋に出るのは無謀としか言いようのない小型艇。
数名で動かす漁船のようなそれには、衰弱して息も絶え絶えな男が一人乗っているだけ。
ただ、その漂流者には、予想外の特徴があった。
額から生える、短い一組の角。
鋭い爪が生えた手足。
ドラゴンの特徴を色濃く引き継いだ頭部。
「竜人か?」
クレスが呆然とつぶやき、驚きに目を丸くする。
イスタス侯爵領に移住してきた竜人たちよりも、よりドラゴンに近い容姿をしているが、確かに竜人のようだった。
「しっかりするでありますよ! 必ず助けるでありますからな!」
「……ルヴ……、あっ、アマ……サ……。ほう……が…………」
アレーナが《手当て》をすると、混濁した意識がほんの少し回復したのか、竜人が無意識に言葉を発する。
「あの人に関係があるのか……」
そうつぶやいたクレスの表情は、実に複雑なものだった。
ユウト・アマクサ。
イスタス侯爵家の家宰にして希代の大魔術師。
異世界からの来訪者。
そして、常識の破壊者。
彼が関わると、物事が大きくなり……それなのに、上手くいく。この南方遠征にしても、そうだ。
大きな事件の発端に関わってしまったのではないか。そんな予感がする。
それなのに、クレスの胸を占めているのは、不思議な安堵感。
ユウトに任せられるのであれば、万事心配ない。
自分は、まず、万全の状態で引き継ぎさえすれば良い。
そんな確信があった。