2.真名の任務(前)
真名の寝起きシーンが長くなったので分割です。
「おはようございます、ご主人様」
「…………」
「環境が変わりましたが、よく眠れたようですね」
「…………」
「本当に、よく眠れたようですね」
マキナがベッドから起き出す気配のない所有者へかける言葉には、珍しいことにあきれのトーンが含まれていた。
だが、目覚ましのアラームを自主的に止めてくれる優しさは本物だ。合成電子音のため、その声からニュアンスを感じ取るのは難しい作業ではあったが。
「やはり、ルージュ・エンプレスなどという連中との戦闘があり、やむを得ずですが愛人扱いされたことで、どう思われるか心配で心労が溜まっていたようですね。結果として杞憂に終わりましたけれど……。ふふふ。ここが、ご主人様の心が安まる場所になったら良いのですが」
ユウトの指示で竜人のメイドであるカグラが用意してくれたのは、ファルヴの城塞に無数に存在する個室。
ベッドと、その脇のサイドテーブル。それに、クローゼットと書き物用のテーブルしかないシンプルな部屋だ。広さも、地球でいうビジネスホテルよりは広い……という程度。
しかし、真名にはちょうど良いサイズだった。
さらに、ヘレノニア神の奇跡により生み出されただけあって、質実剛健ながら家具はいずれも一級品。少なくともベッドの寝心地が良いことは、間違いないだろう。マキナの言葉に真名が反応するまで数分かかったことが、それを証明している。
「んっ。うん……。そういうことは、わざわざ口にしないのよマキナ……」
「ご主人様が寝ていれば単なるモノローグになっていたわけですから、問題ありません」
「私を起こしたかったのか……、私で遊びたかったのか……、はっきりさせなさ……い」
もぞもぞと動く……というよりは蠢きながら、秦野真名は夢の国に別れを告げようともがく。
言葉は明瞭だが、動きは緩慢。掛け布団から出てくることはなく、ベッドの上でうずくまっているような姿勢で止まってしまった。
彼女を知る者が見たら、驚きを隠すことはできないだろう。
「毎朝のことながら、なかなか萌える光景ですね」
「毎日では……ないでしょう」
萌える云々は無視して、真名は反論を試みる。
「用事がないときだけ、です」
「では、以後はそういう設定で」
「設定でも、ありません」
さすがに聞き捨てならなかったのか。それとも、マキナとの会話が覚醒を促したのか。
真名の起床フェイズが一段階進み、ベッドの上にぺたんと座るような格好になる。それに伴い、掛け布団が重力に従ってはらりと落ち、彼女の全身が露わになった。
「それでは、まるで朝に弱いようではありませんか」
カーテン越しの陽光に浮かび上がる、上下ともに白のシンプルな下着姿。そのなかで、小さなリボンが可愛らしさを演出する。清潔感のあるその姿は、真名らしいと表現しても良いだろう。
だが意外なことに、どうやら、この格好で就寝するのがいつものことのようだった。
ポニーテールを解いた長い黒髪が、小さいが細くしなやかな肢体を包み込む。身長は低く、くびれなどもほとんどない。しかし、無防備なその姿は、妙に煽情的だった。
そんなあられもない姿を晒しながら、眠そうに。あるいは、眠気を覚まそうとしているかのように、手の甲でごしごしとまぶたをこすっていた。
いつもの凛とした表情は寝起きで緩み、目もとろんとしている。普段とのギャップが、実に生々しい色気を醸し出す。
しかし、真名には自覚はない。
マキナも、あえて指摘することはない。
「まるで……? いえ、それどころではありませんよ、ご主人様」
ベッドサイドテーブルに――しかも、裏返しで――置かれているため、寝起きの様子を動画に保存できない。
それに悔しさを憶えつつも、マキナは自らの本分を怠ることはなかった。
「あと5分ほどで約束をした朝食の時間ですが、これは用事にはカウントしませんか」
「…………ッッ」
言葉にならない悲鳴とは、まさにこのことか。
掛け布団を跳ね飛ばし、真名は壁際に置きっぱなしのスーツケースへと駆け寄った。
「おはようございます」
颯爽と真名が食堂に姿を現す。つい先ほどまで蕩けていた様子など、微塵も感じさせない。
既に、食事の用意は調っており、数名の先客も存在していた。
「おはよう真名ちゃん。よく眠れた?」
「ええ。どんな環境でも眠れるように訓練されていますから」
真っ先に出迎えてくれたのはアカネ。
ユウトの隣に座る彼女が立ち上がると、部屋の入り口まで移動して案内をしてくれる。
そんなアカネにうなずき返しながら、誘導に従い真名が隣の席に座る。マナー違反かもしれないが、マキナもテーブルの上に置く。
「ほら、ヨナ。起きろよ。真名なんか、こっちに来たばかりだっていうのに、あんなにしゃんとしてるぞ」
ふと真名が隣の隣を見ると、ユウトの膝の上にアルビノの少女が座っていた。それは文字通りの意味で、ユウトの体を背もたれにし、だらんとしている。
甘えているというより、寝ぼけているといったほうが正しいだろうか。
「うう……。よそはよそ……うちはうち……」
「この点に関しては、よそもうちも変わらん」
ユウトが、後ろから両手でヨナの頬を挟み込む。
そのままもちをこねるように上下に動かすが、むしろ、面白いとヨナはなすがままになっていた。
「ふふふふふ」
「ん? マキナ? なにがおかしいんだ?」
「……おかしいことなど、なにもありませんよね、マキナ」
「いえ。兄妹もしくは親子のようで微笑ましかっただけです。ええ、それだけですとも」
なぜか、真名が渋い表情をする。
ユウトは、どういうことなのかと訝しんだが、ヨナの世話で忙しく追及することはできなかった。
「……ところで、エグザイルとラーシアはまだなのか?」
長方形のテーブルの辺の短い部分に一人で座るヴァルトルーデが、左隣にいるアルシアへと問いかける。
まだ来ていない残り二人を心配するというよりは、先に食べても構わないかという確認なのは、焦れた様子から容易に察せられた。
「もうしばらくすれば、来るでしょう」
その意図を十全に把握しつつ、しかし、アルシアはけんもほろろに返答する。
もうしばらくすれば母親になるのだ。それなのに、落ち着きがないのは困ると言わんばかりだ。
「ぐぬぬ……」
「ほら、ヨナもいつまでそうしているの? そろそろちゃんとしなさい」
「ぐぬぬ……」
ヴァルトルーデの真似をしてうめくような声をあげながら、アルビノの少女は素直にアルシアの指示に従った。誰が一番の実力者か、子供はよく分かっている。
ユウトの膝から飛び下りると、いそいそとアルシアの隣の席へと移動した。
実の父母の顔も知らない真名だが、その親子のようなやり取りに、思わず微笑みをこぼす。
「おっまたせー」
「少し、遅れたか?」
「いや、問題ないよ」
ユウトが座ったまま残る二人――ラーシアとエグザイル――を迎え入れ、ようやく朝食が始まる。
今でも定期的に朝食を一緒に摂ることにしてるのは、《祝宴》による加護を受け取るためであり、様々な打ち合わせをするためでもあった。
テーブルの上には、まだ湯気が出ている焼きたてのバゲット。ジャムも、何種類か並んでいる。
個人の皿には、黄色が鮮やかなオムレツに、日本ではあまりお目にかからない白ソーセージ。どちらも、ナイフとフォークで食べるようだ。
それに、サラダと飲み物はポットから紅茶を自分で注ぐスタイル。
待ちかねたと言わんばかりに、まずヴァルトルーデが白ソーセージに手を付ける。ナイフはあるが、それで切り分けることなく、フォークで突き刺して直接かじる。
実に幸せそうにかみしめ嚥下していくその姿をテレビCMで流せば、一財産築くことも可能だろう。
「どうぞ、召し上がって」
アルシアに勧められるまま、真名もバゲットを手に取りママレードのジャムをたっぷり塗って一口。
「……美味しい」
思わず、声に出してしまった。
食事にこだわりや思い入れのない真名だったが、味覚に問題があるわけではない。
苦みがなくすっきりとした酸味と甘みがあるママレード。それにバゲットも香ばしく、旨味と甘みが感じられる。
真名の普段の食事より、数段レベルが高い。
「驚いた?」
「……まあ、そうですね」
してやったりとユウトが聞いてきたので強がってはみたが、どこまで成功しているのか。真名には自信がなかった。
「センパイ、今回も、やはり……」
「そう。これが、第六階梯の神術呪文《祝宴》だ」
「第六……」
地球では、《火球》のような第三階梯の呪文を使用できれば文句なく一流。それ以上、例えば第六階梯などおとぎ話の領域に入る。
さらに、理術呪文ではなく神の奇跡を体現する神術呪文となれば、完全に伝説や伝承の類だ。
初めてではないが、その奇跡の一端を口にしている。
そう思うと、改めてめまいがしてきた。
「ま、そんなにかしこまることはないよ」
緊張とは無縁の草原の種族が、オムレツを食べながら言う。
「なにせ、ただみたいなもんだもんね!」
「それはそうですけどね……」
確かに、《祝宴》の使用には特別な触媒は使用しない。必要なのは、時間をかけてゆっくりと食べる余裕と、術者の信仰心だけ。
「それにほら、タダ飯ほど美味しいって言うじゃん?」
「言わねえよ」
「言うって。少なくとも、うちの家訓にはあるよ」
「これだから、草原の種族は……」
「あの……。第六階梯の呪文を惜しげもなく朝食の準備に使用できる時点で……いえ、なんでもありません」
反論の言葉は、最後まで出ることはなかった。
ユウトなど、焦っていただろうとはいえ、第九階梯の極大呪文をなんのためらいもなく使用するほどなのだ。感覚が違うと、飲み込むしかない。
こちらでは、因果の反動なども存在しないのだから。
「ちなみに、朱音がこっちに来た直後は、このレベルの食事が普通だと思ってた」
「懐かしい話ね……」
アカネがナイフとフォークを置き、遠い目をする。
その後のアルサスの供応に苦労したことを思い出しているのだが、真名には、そこまでは分からない。
「つまり、この城を出て生活すると、食事も美味しくなくなるわけですね、教授」
食事時は暇なマキナが、所有者の思いを、そう代弁する。
食事にこだわりや思い入れのない真名だったが、味覚に問題があるわけではない。
これは、なかなか難しい決断になりそうだった。