プロローグ
あけましておめでとうございます。
今年も、よろしくお願いします。
「ヴァル、落ち着いて聞いてね」
「……なぜ、私が冷静ではないという前提なのだ?」
地球へ赴いているユウトに代わり、執務室の主となっているヴァルトルーデ。
書類から顔を上げ、やや不満気にアルシアへと抗議する。
「冷静な人間は、妊娠中に戦おうとしないから……かしら」
「それで、話とはなんだ?」
この世界で最も高位の聖堂騎士にして、冒険者としても実績のあるヴァルトルーデは、不利とみるとあっさりと撤退を選んだ。
仕事――一応、内容を確認して署名するだけだが――を放り出し、幼なじみの大司教に続きを促す。
アルシアは軽く息を吐き、ダークブラウンの瞳にヴァルトルーデの輝く美貌を映してゆっくりと口を開いた。
「ユウトくんが帰ってきたわ」
「……ほう。そうか」
ふんふんとうなずき、ヴァルトルーデは傍らに立てかけていた熾天騎剣を手に取る。流れるような手つき。動揺も焦りも見られない。
失った討魔神剣に代わってヴァルトルーデの愛刀となった熾天騎剣は、ユウトから贈られた婚約指輪――魔法具である状態感知の指輪――を取り付けることで、彼女専用の武器となった。
当然、状態感知の指輪の効力は熾天騎剣へと引き継がれており、剣を握ればユウトの居場所や健康状態を感じ取ることができる。
「迎えに行ってくるッ」
先ほどまでの落ち着きは、どこへ行ってしまったというのか。熾天騎剣を掴み、ヴァルトルーデはがたりと立ち上がった。
その姿は、戦場へ赴く戦乙女のように気高く美しい。そこに、愛する男を迎えに行く健気さが加われば、誰であっても見惚れる。
アルシアでさえも、その美しさに、一瞬我を忘れた。
「……落ち着きなさいと言ったでしょう?」
しかし、自らの役目までは忘れていなかった。アルシアにとって大切なユウトとヴァルトルーデの子を守るという役目を。
風のように駆け抜けていく幼なじみの肩を掴み、その場に押しとどめた。
「ええい。なぜ、止めるのだ」
徐々に、こちらへ近づいてくるのが状態感知の指輪を通して伝わってくる。
アルシアは、待っていれば、ユウトに会えるとでも言いたいのか。ならば、事前に言わなければ良かったのだ。言っておいて我慢をしろとは、理不尽極まりない。
「そもそも、ユウトが遅くなったのが悪いのではないか?」
「唐突に責任転嫁しないの。戻ってくるのが遅くなるかもしれないとは、予め言われていたでしょう?」
「それは、そうだが……」
寂しかった……という、わけではない。
ユウトと別行動になったことも初めてではないし、ユウトはいないがアルシアもラーシアもエグザイルもいた。
仕事だって、あった。
だから、寂しかったというわけではない。
けれど、会えるのならば会いたい。
今、すぐに。
「アルシアは、もう、ユウトに会ったのだろう? ズルいではないか……」
「ヴァル……」
その真摯な想いに、アルシアもほだされそうになる。
だが、そうするわけにはいかない理由があった。
「あのね、邪魔をしたいわけではないのよ。ただ、事前に言っておかなければならないことがあるの」
「やっほー。ユウト! 新しい愛人を連れて帰ってきたって、本当? 本当だよね?」
理由があったのだ。
「あ、い、じ、ん……?」
「あちゃあ、ユウトは?」
ユウトをからかうつもりが、フライングしたらしい。
それに気づいて、ラーシアのこめかみに冷や汗が一筋流れる。
「ヴァル。それは、違うのよ」
突然乱入してきたラーシアの言葉を、必死に否定しようとするアルシア。
地球から、真名が同行しているけれど、勘ぐるようなことはなにもない。ただそれだけで済んだのに、草原の種族のせいで、とんでもないことになりつつあった。
そう、ヴァルトルーデの思考は、とんでもないことになっていた。
(あのユウトが愛人を作るということは、相当、親しいか状況として断り切れなかったに違いない。地球から……ということは、真名か? だとしたら、カグラではなく真名というのも、どういうことなのだ? ユウトらしくないように思えるが。これは、余程退っ引きならない事情があったようだな。にもかかわらず、愛人とは……)
無意識に、腹部を撫でる。慈しみのこもった手つきで。
ヴァルトルーデにとって、子を身籠ったのは、歓迎すべきことだ。望むところであるし、望みが叶えられたとも言える。
けれど、同時に、以前のように動くことができない。ユウトを助けることができない。
そんな状態でも、大事にされていることが、四人目の妻ではなく、愛人を連れてきたということで分かる。
「……そうか、愛人か」
納得したと、ヴァルトルーデがうなずく。
そこには悲壮感も、無理をしている様子もない。そもそも、ヴァルトルーデが嘘を吐くはずもない。
「ということは、ユウトがまた活躍したということなのだろう」
加えて言えば、ユウトが。そして、アカネやヨナも無事に違いない。
確かに驚いたが、それに比べれば、愛人などなんということもなかった。
「うおっ。まぶしい……」
ユウトたちの無事を喜び、それ以外を些事と切り捨てるヴァルトルーデをラーシアは直視できない。
しかも、事実とは異なるだろうと分かっていて、それでもユウトをいじろうとしたのにこれだ。強制的に浄化されるような気分になっても仕方がないことだろう。
ユウトかアカネがこの場にいたら、釈迦の掌の上の孫悟空を連想したかもしれない。
もっとも、見当違いもはなはだしい思考回路で導かれた結果なのだが。
「ヴァル、ボクを見ないで……」
「ただいま……って、なんかラーシアがナメクジみたいに溶けそうになってるんだが」
そこに、ひょっこりとユウトが執務室へと入ってくる。
もちろん、アカネとヨナ、真名も一緒に。
だが、ヴァルトルーデにはユウトしか見えていなかった。
「ユウト!」
「うおっ」
いきなりユウトの胸へと飛び込んでいくヴァルトルーデ。今度は、アルシアが止める余裕もない。
ユウトは、たたらを踏みながらも、しっかりと愛する妻とまだ見ぬ我が子を受け止める。いかに基礎体力の違いがあるとはいえ、男として夫として父親として負けるわけにはいかないのだ。
「ただいま、ヴァル」
「おかえり、ユウト」
「そっちは、なにもなかった?」
「ああ。平和そのものだ」
離ればなれになっていたのは、ほんの一週間ほど。
だというのに、感無量といった様子で抱き合う二人。
アルシアやアカネは微笑ましいと笑っているが、真名は照れとあきれで視線を逸らしていた。
「それに引き替え、そちらは、またなにか事件に巻き込まれたようだな」
「巻き込まれたというか、なんというか……。って、そこまでは、アルシア姐さんにも説明してないはずなんだけど?」
「愛人ができたのだろう? ということは、なにか事件を解決して惚れられたに違いあるまい」
「変なところで、無駄に物分かりが良い!」
なんでこんなことになったのかと、ユウトはアルシアのダークブラウンの瞳を見る。
そのアルシアの視線が、ユウトからラーシアに移った。
それだけで、ユウトはすべてを悟った。
「いや、それはだな……」
「みなまで言うな。相手は、真名なのだろう?」
「なんか、ヴァルが悟りを開いてるんだけど!?」
ユウトは、助けを求めて再度アルシアを見つめるが、彼女も驚きに固まってしまっている。ラーシアは、これはこれで面白いと笑っている。
頼れる仲間が、頼りにならない。
「愛人というのは、ただの方便です」
そこで、説明の必要を感じた真名が、前へ出て口を開く。
「いろいろありまして、こちらでお世話になるための表向きの理由ですから。もちろん、センパイをそういう目で見たことはありません。ええ、天地神明に誓って、過去現在未来に亘って」
「ご主人様、あまり強調すると信憑性が……」
「まったく。あたしとヨナちゃんが一緒にいて、そんなこと起こさせるわけないでしょ」
「そう。アカネの言う通り」
「そうか。そうなのか……」
真名、アカネ、ヨナから口々に否定の言葉が飛び出て、どうやらラーシアの悪ふざけだったらしいと、ヴァルトルーデが納得する。
「まあ、それならそのほうが良いな。うむ。そのほうが良い」
「まったく、そんな簡単に愛人を作って帰ってくるように見えるのかよ」
「あー」
「勇人、それ以上は、やめておいたほうが良いわよ」
微妙に納得がいかないようだが、不利を悟ったのだろう。
ユウトは、反論ではなく説明に口を使うことにした。
「真名とマキナの秘密が、賢哲会議に漏れそうになったもんでさ。そういう理由を付けて、こっちで保護をすることになった」
「つまり、そういうことにして、ユウトがマナを愛人として囲うんだね……?」
「ようやく収まったのに、余計なことを言って混ぜっかえすんじゃねえ」
「ふははははは。混沌こそが、ボクの望みさ。世界よ、カオスに飲まれよ!」
なにかあったのかと、ユウトはアルシアのダークブラウンの瞳を見る。
しかし、帰ってきたのは無言の否定。
ラーシアは、今日も平常運転のようだった。
「ユウト」
「ん?」
ヴァルトルーデと抱き合ったままのユウト。
ヨナが、その袖を引いた。
「お土産、出して」
「……お土産なんか、買ってないだろう?」
「自転車、乗りたい」
「ユウトくん、じてんしゃとは? それに、お土産? どういうことか、説明してくれるわよね」
にっこりと。
慈母の微笑みとタイトルを付けて飾っておきたい笑顔を浮かべるアルシア。
しかし、それを向けられたユウトは、無意識にヴァルトルーデから離れ、一歩後退っていた。
「えー。今回は、ヨナの貢献度が大だったと言いますか……」
「その辺の話は、後で聞きたいところだけど、おもちゃの類を買ってしまったのね?」
「はい。買ってしまいました……」
「どれくらい?」
「かなり、大量に……」
「……あまり甘やかさないでね?」
「以後、気をつけます」
それで話は終わりと、アルシアもユウトを抱きしめた。
反省しているところに、言葉を重ねても意味はない。それよりも、ちゃんと再会したと感触を確かめたかったようだった。
「どうも、センパイの周囲には、センパイに甘い女性ばかり集まっている気がします」
「ご主人様、ブーメランに気をつけてください」
そんな真名とマキナはさらりと流して、ユウトは無限貯蔵のバッグから子供用の自転車を取り出す。前部にカゴ、後輪にはサイドホイールが装着された一般的なタイプ。
だが、銀色と青で塗装された車体はスタイリッシュで、男の子が好みそうな色合いだ。
「へぇ。なんか、良い感じじゃん。ボクのは? ボクのもあるんでしょ?」
「落ち着け」
言われるまでもない。もう一台子供用の自転車を取り出すと、ヨナとラーシアは連れだって自転車を押して外へと向かった。
屋内で自転車に乗るほど非常識ではなかったことに、ユウトは安堵する。
「それで、私の自転車はどこにあるのだ?」
「……子供が生まれたら、一緒に買いに行こうな」
自らの分もあると信じて疑わないヴァルトルーデに真実を告げるのは、非常に辛い作業だった。