幕間その2 正義と正義(前)
なぜか2万文字近くなったため、幕間は前中後の三部作でお送りします。
イブン船長――船団を束ねているのだから提督と呼ぶべきかもしれない――が率いる南方大陸遠征団の航海は、拍子抜けするほど順調だった。
タイドラック王国の王孫であるクレス王子に、“常勝”ヘレノニアのファルヴ神殿で実質的な責任者であるアレーナ。フォリオ=ファリナの世襲議員の娘にして冒険者のペトラ。
そして、彼と彼女らの同行者たちにとって、数ヶ月に亘るような長期航海は初めてのこと。
噂や物語で聞いた冒険譚を思い浮かべれば――誇張はあるにせよ――相当な困難があることは覚悟していた。
例えば、突然の嵐。
あるいは、危険な岩礁地帯。
海の荒くれ者どもの襲撃も付き物だろう。
海魔や水竜との危険な遭遇もだ。
けれど、イブン船長は南方への航海を何度も成功させたスペシャリストであり、ユウトのおかげで食糧事情も改善された状況下では、無理をする必要もなかった。
加えて、理術・神術呪文の使い手が多く同行しているのだ。イブン船長にしてみれば、安楽すぎて逆に不安を感じるほど。
そのため、充分に安全マージンを取った航海となり、船酔いに多少苦労した他は、実に平和な船旅だった。
むしろ、レラの訓練のほうが辛かったと、クレスたちは語る。
海賊やモンスターといった、人為的な危険に関しても、そうだ。
数回あった海賊からの襲撃も、海の上を走って敵船に乗り込んだレラの活躍があり、戦闘訓練程度にしかならなかった。そもそも、ヘレノニア神が下賜したツバサ号の戦闘力に対抗できる海賊などいるはずもない。
いたとしても、背後には帝亀アーケロンがいるのだ。どうあっても、負けるはずがなかった。
そして、海のモンスターに関しては襲われること自体なかった。
というよりは、近づいてきたモンスターたちは、ほぼ例外なくアーケロン親子のおやつになっていた。
こうして、誰一人欠けることなく目的地である南方大陸へと到着し――クレスはこの航海で三番目の危機に陥っていた。
「か……ら……い……た……い……」
カルティリヤと呼ばれる港に上陸し、船員向けの酒場へ繰り出した――までは良かった。クレスも、数ヶ月の洋上生活で肌は焼け、精悍さが増しており、不自由な航海にもすっかり順応している。
そんな彼も久々の地上の食事を楽しみにしていた。元々、百層迷宮に挑む冒険者だったこともあり、こんな酒場の料理にも抵抗はない。
だが、何気なく手にしたピクルスをかじった瞬間、予想外のピンチが訪れた。
辛かった。というよりは、痛かった。
この国の暑さとは異なる汗が噴き出し、サティアやレラが近くにいなかったら、身も世もなく叫んでいたことだろう。
慌てて、手近にあった木のカップの中身をあおるが、今度は、度数の高いアルコールが喉を灼く。まるで、この酒場に入るまで吹いていた、内陸からの熱い風のように。
「けっ。かはっ……」
別のテーブルにいる船員たち――この航海ですっかり打ち解けていた――は、そんなクレスを見て手を叩いて笑っている。クレス同様に涙を浮かべているが、意味はまったく異なっていた。
「このお酒は、なかなかきつくて良いですね。この塩を舐めながら飲むことで、喉を守ってくれるそうです」
力の神の分神体らしく豪快な感想を述べつつ、レラはクレスがむせたのと同じ酒を飲み干した。
それは、地球で言えば、テキーラに似た蒸留酒。
ただし、ユウトもアカネも地球では飲酒経験がないため、それを指摘できる存在はブルーワーズにはいない。
「クレス、大丈夫?」
「ああ……。でも、このピクルスは、食べないほうがいい……。もはや武器だよ、これは」
隣に座るサティア――クレスとパーティを組む魔術師――が、心配そうに背中を撫で、水が入ったカップを手渡す。
「そうでありますね。これは、この辺りの特産の唐辛子を酢漬けにしたものらしいであります」
「と、とんでもない……。というか、なぜ知っているのか……」
アレーナは微笑を浮かべるだけで語らず、赤い色をしたスープを美味しそうに飲み干している。クレスも、追及を諦めた。正直、それどころではない。
この航海で命の危機を感じたのは、レラとの訓練中、豪快に蹴り飛ばされ船縁から落ちそうになったとき。それから、強烈な蹴りを頭に受け、気づけば、そのレラに膝枕をされていたとき以来だ。
後者に関しては、正確にはサティアから向けられた視線に、危険を感じたのだが……。
ヘレノニアの聖女だけでなく、死と魔術の女神の愛娘に美神の寵愛を受けし者まで妻とし、平然としている異界から来た大魔術師は規格外の存在なのだなと、クレスはしみじみと振り返る。
恐らく、この体の内側を苛む刺激と痛みから逃れるための現実逃避だろう。
「こんなものでも、長い航海の後じゃごちそうだったんだがな。今回の航海は恵まれすぎてありがたみが薄れたな。まあ、新人はみんなこいつの世話になるもんだ」
サティア、レラ、アレーナに続き、同じテーブルに座る最後の人物――イブン船長が、顔色ひとつ変えずに激辛ピクルスを口にし、蒸留酒を流し込む。
まだ、航海は片道が終わったばかり。文字通り道半ばだが、さすがに、上陸直後だけ合って、リラックスしている様子だ。
「道理で……」
どうやら、“はめられた”らしいことに、遅まきながら気づくクレス。
昔の自分ならわめき散らしていたかもしれないが、今は、それほど悪い気分ではない。無論、復讐はするつもりだが。とりあえず、フォースアライン――カードのゲーム――で、巻き上げてやろう。
「まあ、普通に美味いもんもある」
「味が分かれば、良いですけど」
無論、辛い料理ばかりではない。
卓上を見れば、殻付きのエビを大量のニンニクと一緒に炒めたものもある。
「そっちよりは、あっちのほうがクレスの好みかな」
そう言って、サティアが手渡してくれたのは、小麦粉で作った薄手の生地の上に細切れの肉や見たことのない緑や赤い野菜を載せた料理。
さすがに、長年の相棒を疑うことなく、クレスは生地を丸めて一口かじる。
「ああ。辛くない……あんまり」
恐らく、かかっていたソースに辛味があったのだろう。フォリオ=ファリナやタイドラック王国での香辛料の値段を考えると、とんでもない使い方だ。
しかし、そのソースの辛味は野菜で中和され、調和し、旨味となっている。
「なるほど。これが、異国、異文化というものか……」
常識は重要だが、それがすべてではないし、人や環境によって変化するものでもある。
エルドリック王は、それを実感させるため、クレスを遠い旅に出したのだ。
もっとも。
「辛いのに、美味しいでありますな!」
辛さがこちらまで伝わってくるような真っ赤な鶏肉の煮込み料理を美味しそうに食べるアレーナを見ていると、難しいことを考えるのも、バカらしく思えてくる。
クレスは、次に、焼き目がついたソーセージへと手を伸ばす。
ぱりっとした食感で、ジューシー……だったが。
「あっ、それは……」
「お、おお……」
「ソーセージに唐辛子が練り込んであるって……」
辛かった。
ソーセージまで、辛かった。
「凄い国だな、ここは……」
今はまだ、来て良かったとは言えない。
まだ上陸したばかりで、目的を達することはおろか、解放すべき奴隷になっている人々を目の当たりにすらしていないのだから。
しかし、偉大な祖父も行ったことのない場所で、したことのない経験をしている。
それを思うと、しばらくすれば良い思い出だと言えるようになるのではないか。そう、クレスは感じていた。
酒場から船に戻り、夕刻。
イブン船長の船長室で、話し合いがもたれた。
参加者は、クレス、アレーナ、ペトラ。それに、イブン船長だけ。それぞれの集団の代表者が集まっているのだから、それで充分でもあった。
レラは、込み入った話には関わらないし、早速、現地の武術の調査に向かっている。
「確認するぞ」
一人立ち上がったイブン船長は、険しさを増した精悍な顔つきで全員を見回し、厳しい口調で言った。
「我々の目的は、ある農場の奴隷を解放すること。こっちの特産品の苗や種を持ち帰ることだ」
「もうひとつ、師匠から言われているはずです」
「……死者を出さず帰還すること、だな」
死者を出さない、奴隷の解放、種苗の持ち帰り。優先順位はこの順番だと、出発前にユウトから告げられていた。
イブン船長からすると、甘いと言いたくなるのだろうが、ペトラは頑なに遵守させようとするだろう。恐らく、クレスとアレーナも同じだ。
「だが、奴隷の解放は、なんとか勝ち取りたい」
「師匠から、お金は預かっています。預かっているのは、お金だけじゃないですけど」
「ああ。そいつを使って、穏便に済めば良いんだが……」
しかし、イブン船長の顔色は優れない。
つまり、件の農場を買い取るのと同じだが、肥えて目だけがぎらついている農場主が、それに応じるかは五分五分といったところか。その取引を、この国の役人が認めるかも不透明。
「本来なら、奴隷はすべてを解放したいところでありますが――」
「神官様よ、そいつは無理というものだ」
「――分かっているであります。それこそ、新しく国を興すしかないでありますな」
奴隷解放に伴う、既得権益者からの反発。社会的な混乱。解放された奴隷たちの困惑。
それらすべてを治めるのは、不可能だ。
「でも、師匠なら……」
「あれは、人類の例外であります」
比喩でもなんでもなく、ユウトは既に神の階に足をかけているのだが、その事実を正確に把握している者はいなかった。
いなくても、この評価である。反論もない。
「だが、イブン船長。ひとつ確認しておきたい。そのモレーノ農場とやらの環境は、そこまでに劣悪なのか?」
「ヴェルガ帝国にまで足を延ばしたことはないが、支配しているのが、人間か化け物か。その程度の違いしかない」
南方大陸と一口で言っても、様々な国と町がある。
遠征団がたどり着いたのは、エスタディオ王国の玄関口カステオという港町だ。
国の支配形態までは詳らかになっていないが、重要なのは、香辛料や砂糖。金が特産品であり、それを栽培・採掘するため、大量の奴隷を用いていること。
イブン船長が交易をしていたモレーノという男は、カステオ近郊に広大な農場を所有し、数百人の奴隷をまさに牛馬の如く用いて巨万の富を築いていた。
イブン船長は、義侠心ではなく個人的な事情から、その奴隷を解放したい。
ユウトは、特産品であるため輸出禁止になっている作物の種苗を手に入れたい。
両者の利害が一致し、今回の遠征となったのだ。
「あちらから見れば、我々は、とんだ山賊に見えるでありますな! いや、船で来ているから、海賊でありますか?」
「……確かに、その通りだ」
「でも、苦しんでいる人がいるのなら、助けたいと思います」
「それで結果として、モレーノという男が破滅をしても?」
「それは、今までの行いの報いでしかないです」
アレーナの開き直りと、ペトラの単純明快な論理に、クレスは反論の言葉を失う。
明確に悪が存在するブルーワーズ。
それでも、人と人の諍いは、正義と、もうひとつの正義のぶつかり合いに他ならない。
「まあ、どうするかは、土壇場になってみないと分からん」
取りなすように、イブン船長が言う。
「とりあえず、例の農場の人間とは、こっちで渡りを付ける。最悪の事態になっても良いよう、準備だけはしておいてくれ」
その方針に、クレスたちはうなずいた。




