1.再会は異世界で
エピソード1の最終話からの続きになります。
「ここは……」
緩やかに覚醒する意識。
三木朱音は、微睡みの中で柔らかな寝具に包まれている自分に気づく。
清潔感があり、手触りも良いシーツ。暖かで滑らかな毛布。柔らかで適度な弾力のあるベッド。
ナイトテーブルからは、優しく暖かな光。
室温も快適に保たれており、どこかのホテルに宿泊しているような気がしてくる。
周囲をぼんやりと認識しながら、朱音はまた意識を手放しそうになった。寝不足だったのだろうか?
確かに、最近は勇人を探して睡眠時間が……。
「――そうだ、勇人!」
一気に目覚めた朱音が、毛布をはね除けながら文字通り飛び起きる。
「落ち着いて。いきなり起きるのは、体に良くないわよ」
「え? あ、はい……」
優しい声だ。
母親が子供に言い聞かせるような、聖女が子羊に呼びかけるような。
それで落ち着きを取り戻した朱音は、ベッドに座ったまま声の主へ視線を向けた。
「誰……?」
顔の半分が真紅の眼帯で覆われている異相。
だが、それで彼女の美しさを隠すことはできなかった。
鴉の濡れ羽色の長い髪は実際に触れて確かめたくなるほど艶やかで、見るだけで滑らかだろうことが分かる。なぜか日本人であるプライドが刺激されるものの、茶色っぽい自分の髪と比べる気にもなれなかった。
体の線を見せないローブを着ているためなかなか気づかなかったが、スタイルも良い。
(というか、おっぱいでっかい……)
見知らぬ人に対してなにをとも思うが、これも素直な感想だった。
「いや、私も負けてないはず……」
「私はアルシア。ユウトくんの仲間よ。どこか痛いところや、不調な部分はありませんか?」
「大丈夫……です」
「そう」
見るものを安心させる微笑。
「ユウトくんは、休んでいます。報せましたから、もう来ますよ」
顔も――ほとんど見えないのだが――整っているようだ。
今し方言葉を紡いだ唇が、また艶めかしい。
しかし、親しげに「ユウトくん」などと呼ぶ彼女は、勇人のいったいなんなのか。
友達? 恋人?
「まさか、現地妻!?」
「朱音!」
想像――あるいは妄想――が暴走してとんでもないことを口走った朱音の目の前に、ユウトが現れた。
あの時と同じように突然。
だが、結果は正反対。
記憶にある幼なじみよりも背が伸び、精悍さが増しているように思えた。
天草勇人ではなく、よく似た俳優でも見ているかのよう。
思わず、格好良いとつぶやいてしまう。
そんな朱音の困惑にも気づかず、制服の上に白いローブを着たユウトが駆け寄ってくる。
「大丈夫だから、落ち着きなさい。瞬間移動まで使う必要はないでしょう?」
アルシアのあきれた声も耳に入らない。
「でも、心配で。いや、不安だったわけじゃないんだけど、やっぱ心配だし」
「勇人……」
珍しく余裕が無いユウトと、驚きに目を丸くする来訪者の少女を交互に見て、アルシアはあきらめの息を吐く。
「ふう……。私は部屋に戻るわ。無いとは思うけど、なにかあったら知らせてちょうだい」
「ありがとう、アルシア姐さん」
「なにもしてはいないわ」
気を利かせたのか、部屋を出ていくアルシア。
その彼女が、ふと足を止める。
「朝食は私が用意するわ。だからといって、あんまり長時間は」
「ああ……。気をつけます」
「それから、ヴァルへのフォローはするから、そっちは気兼ねしなくて良いわ」
最後の言葉には応えられず、アルシアも答える暇を与えず、部屋から出ていってしまった。
室内に沈黙が満ちる。
ユウトは、改めて朱音に向き合った。
制服は脱がされ、パジャマ代わりのスモック状のワンピースを着ているが、もちろんユウトが着替えさせたわけではない。
この世界では一般的なナイトウェアで、ヴァルトルーデの物だ。着替えも、彼女が行なってくれた。
「朱音……」
この世界に朱音がいる。
感情ばかりが先走って、言葉が追いつかない。
「体は大丈夫か?」
「ええ、さっきの人も言ってたでしょ。寝起きだってこと以外は問題ないわ」
「それくらいは妥協してくれ。いきなり気を失って心配したんだぞ」
一番聞きたかったことを確認して、ユウトは安堵の息を吐いた。
目をつむり、頭を上げる。
次に言うべき言葉は決まっていた。
「すまん!」
世界に何名もいない大魔術師。
新興とはいえ伯爵家を取り仕切る家宰。
そんなユウトが頭を下げた。
この世界でのユウトを知る者が見れば驚くだろうが、今はそんなことは関係ない。土下座ではないところに、逆に誠意すら感じる謝罪だった。
「謝るんじゃないわよ、このバカ!」
しかし、朱音にはそんなことは関係ない。
一瞬呆然とした朱音だったが、湧き上がる疑問と怒りでベッドから飛び降りた。
素足のままであることも気付かずに、彼女は何度も何度もユウトの胸を叩く。
「すっごく、心配したのよ」
「悪かった」
「……謝るなって言った」
「うん」
「心配した」
「うん」
「生きてて良かった……」
「……ありがとう」
朱音の腕が力なく垂れた。
その手を取って、ユウトは彼女をベッドに座らせる。あまりにも自然な動作だったため、朱音もなすがままにベッドへと舞い戻った。
それを当然と軽く確認したユウトは、アルシアが座っていた椅子に腰掛ける。
「なんか、女の扱いに慣れてない?」
「はぁ? いきなりなんだよ」
なにを言われているのか分からないとユウトが眉をひそめた。
「自覚なしか……。これは問い詰めが必要ね」
心のノートにメモしておこうと決意し……もっと重要な疑問があることに気がついた。大きすぎて気付かなかったのだ。
「っていうか、異世界ってなによ。正気なの? その服だって……」
「言いたいことは分かる。でも、まずはなにを謝っているのか聞いてくれ」
「なにをって、勝手にいなくなったことに決まって」
「それもあるけど、それだけじゃないんだ……」
クールダウンしてくれた幼なじみにほっとしつつ、ユウトは口を開く。
覚悟していたとはいえ不随意運動は別らしく、心臓が激しく鼓動していた。
「ここは地球とは違う異世界でな、実は、朱音が今ここにいるのは、俺のせいなんだ」
「……なんですって?」
話が聞こえなかったわけではない。
ただ、脳が理解を拒否しているだけだ。
「まあ、ユウトのせいってのは、後できっちり問い詰めるわ。まずは、話を聞かせて。勇人が、この半年どこでなにをやって、なんで帰ってこなくて、私がここにいるのか」
「そうだな……」
どこから話し始めようか。
そう考えていたユウトの思考が停止する。
「半年?」
「正確には七ヶ月よね」
「マジか……」
そこがまず違っているのか、さすが異世界。
変な感心をしつつも、説明しないわけにはいかない。
「朱音、驚くなよ」
「これ以上、なにに驚けっていうのよ」
「俺がこっちに来てから、もう二年が経ってるんだ」
「つまり、こういうこと?」
最初は緊張していた朱音も、話をしているうちにそんな気分も吹っ飛んでしまったようだ。丈が短いワンピースにもかかわらず、ベッドの上にあぐらをかいてユウトを追及し始める。
「悪い魔王を復活させようとする儀式に巻き込まれて、偶然、異世界? 異世界でいいの?」
「そこ強調されると困るんだが。あと、青き盟約の世界だよ」
「とにかく、世界を移動したわけね。それで、魔法使いになって、魔王を倒しちゃった」
「魔王じゃないんだが……。まあ、大筋は間違っていない」
裾を手で押さえる格好のせいで強調されている胸から目を背けつつ、ユウトが肯定する。
「それで、帰るまでの間に領地経営の手伝いをしてたんだけど……」
「帰れなくなったのね」
「ああ」
「それだけじゃなくって、なぜか私まで来ちゃった」
「びっくりしたぜ、マジで」
「そして、今のところ、私もユウトも帰れる目処はないと」
「本当に、なんて言ったらいいか……」
再び話がそこに達し、ユウトがまたうなだれる。
「許すもなにもないわよ。別に、誰が悪いわけでもないじゃない。あ、魔王復活をたくらんだ連中は悪いわね」
「魔王じゃなくて、絶望の螺旋なんだけどな……」
そう言うユウトだったが、目に見えて表情が明るくなっていた。
久々に再会する幼なじみの変わらぬ態度に、一部ではあるが心配が氷解したのが理由だろう。
「ところで、勇人」
「なんだ?」
「今の話だと、時間がずれている理由が分かんないんだけど」
「それは、俺にも分からない。こっちも一日は二十四時間だし、一年は360日なんで、そこまでずれるはずが無いんだが……」
「深く考えても無駄?」
「ああ。可能性はいろいろ思いつくけど、決め手も確証も意義もないな」
ふうと息を吐き、朱音は居住まいを正した。
「勇人は年上になっちゃったのね」
そして、確かめるようにユウトの頬を撫でる。
その動きは徐々にエスカレートし、両手で包み込むようにしたかと思うともみ込むように乱暴に動かし、顔だけでなく首筋や腕、脇腹まで手が這い進んでいく。
久しぶりと言えばそうだし、昔からよくやられていた行為でもある。
しかし、それを諾々と受け入れるのは問題だ。途中まではなすがままだったユウトも、さすがに渋面を浮かべた。
「久しぶりにやられてるけど、なんか屈辱的だな」
「またまたー。嬉しいくせにー」
「なんだよ、その根拠のない自信は」
「幼なじみの直感、かしらね」
適当なことを言ってから、年上になってしまった幼なじみを解放する朱音。
「満足したなら良いけど……」
「しばらくは大丈夫よ」
なにが大丈夫なのかは分からないが、見慣れていた幼なじみの笑顔が戻ったのだから、良しとしよう。
「それにしても、異世界って本気で言ってるの?」
「本気もなにも、それが真実だ。パラレルワールドとか、聞いたことあるだろ?」
実際のところ、朱音がこのブルーワーズで見た光景は、まだあの地下空洞とこの部屋しかない。信じられないのは当然だろう。
ユウトが説明役でなければ、もっと騒いでいたに違いない。
「まだ別の惑星だとか、未来の地球だとか言われた方が説得力があるわ。どっかに自由の女神が埋もれてなかった?」
「ねーよ。それに、説明はするけど説得したいわけじゃないんだがな……」
朱音の言い分を認めつつ、苦笑するユウト。
そんなユウトの様子を見て、謎の満足感を得る朱音。
「その上、勇人が魔術師とか魔法を使えるとか。どういうことよ」
「仕方ないだろ、勉強したら使えるようになったんだから」
「勉強したのね」
「少し使えるようになったら、森で一人放置されてモンスター狩りとかやらされたけどな」
「それなんて、強制レベリング?」
「結果オーライではあるけどな……」
あまり思い出したくはないのか、ユウトは首を振って忌まわしい記憶を振り払う。
「朱音、体の方は本当に大丈夫なんだな?」
「どんだけ心配性なのよ」
「なら良い。ちょっと外に出よう……って、その格好じゃまずいな」
直視していなかった理由を思い出したユウトが、自分のローブを朱音の肩にかけようとして、寸前で思いとどまる。
「……なによ?」
「いや、こいつは理術呪文を使えないと着れないんだった」
「幼なじみが異世界でゲーム脳なんだけど、どうしたらいいと思う?」
「本当だって。着れないというか、着ると体が超重たくなって、気分が悪くなる」
「呪いのアイテムじゃないの……?」
もっともすぎる意見にうなずきたい気持ちと反論したい気持ちで揺れ動くが、そんなことをしている場合ではない。
あわただしく部屋を出たユウトが、代わりのマントを持って戻ってきた。
「いきなり一人にしてほしくないんだけど……」
「あ、悪かった」
「まあ良いけど、その黒くて地味なのは?」
「保温の外套という暑さも寒さも防げる魔法具だよ」
マジック・アイテムときたか。
朱音はその響きに戦慄を憶えた。
そういうゲームは嫌いではない。アニメもマンガも一般人以上に嗜んではいる。
しかし、ファンタジーが現実になるとどうしても引き気味になってしまうのだ。
「外は寒いからな」
「え? 今は夏……って、季節もずれているのね」
「ああ、そういうこと」
お互いの認識をすりあわせつつ、ユウトが鎧戸を開く。
同時に冬の乾いた冷たい風が吹き込んでくるが……。
「寒く……ない?」
まったく冷たさを感じない。
それどころか、快適そのものだ。
「さすがに、南極みたいなところだと通用しないだろうけどな」
「それでも充分よ。こんなの地球にも……」
「やっと、信じてくれたみたいだな」
ユウトがイタズラっぽい笑みを浮かべる。
その笑顔の裏には、保温の外套は――魔法への抵抗力を上げる効果もあるため――金貨一千枚以上するという秘密が隠れていたりするのだが。
日本円で五百万や一千万するなどといって、騒ぎを大きくする必要もない。同じように、あんまり使えないから宝物庫に放置してたとも言う必要も。
なお、魔法具全般に言えることだが、経年劣化や汚れは発生しないため、どれだけ放置していても新品同然だ。
「いずれ、ばれるだろうけど」
「なに?」
「いや、少し外に出ようか」
素足のまま朱音を床に立たせたユウトは、懐から呪文書を取り出し3ページ分、切り離した。
「飛行」
呪文書のページが二人の周りを回転し、白い光となって消える。
「さあ、行こうか」
幼なじみの手を取って、ユウトが宙に浮く。
引きずられるように、朱音も空を飛び、慌てて空いている方の手で服の裾を押さえた。
そのまま二人は、窓から外にでる。
「ふあっ……」
寒さは感じないが、風は朱音のセミロングの髪を揺らし、頬を撫でる。
だが、それが爽快だった。
夜。
都会では絶対に手に入らない、深い闇。
美しい夜。
星が、光の粒をばらまいたかのように瞬いている。天文の知識のない朱音だったが、それが地球で見る夜空と異なることは一目で分かった。
真円を描く月も、地球で見るよりも大きく明るい。
そして、傍らにはユウトがいる。
「どう?」
「ピーターパンみたいね」
「なるほど。言われてみれば」
ウェンディというにはやや苦しいと感じたが、もちろん口に出したりはしない。
「でも、やっぱり慣れてる感じがするわね」
「こんなこと、他にやったこと……あるわ」
「やっぱり」
「相手は、ドワーフだったけどな。もちろん、男」
「ふっ、あはは。いるんだ、ドワーフ」
「いるよ。この街じゃ、最大勢力じゃないかな」
そうしなくても落ちる心配はないのだが、ユウトは朱音の肩を抱き、ファルヴの街が見渡せる高さで静止した。
まだ、人口は千を超えた程度。
発展途上の街。
だが、蜘蛛の亜神にも侵させはしなかった大切な場所。
最近ようやく設置が終わった街灯の光が、そこに人の営みがあることを朱音に知らせてくれる。
「俺が過ごした世界。俺たちが作った街だよ」
「ここが……」
二人は、飽きもせずじっと街を世界を眺めていた。
どれほど、そうしていただろうか。
東の空が朱に染まり、少しずつ太陽が昇っていく。
夜明けだ。
「どこにいても、どこであっても、朝は必ず訪れるのね」
「ああ、そうだ……っくっしょん」
ユウトの盛大なくしゃみに、朱音が声を上げて笑う。
思えば、このブルーワーズに来てから笑ったのは初めてかも知れなかった。
「そろそろ戻ろうか」
「そうね。あ、私の荷物って、こっちに来てた?」
「ああ、あのキャリーバッグな。無事だよ。旅行にでも行くところだったのか?」
「似たようなものよ。それより、荷物の整理をしなきゃ」
そんな話をしながら、二人はファルヴの城塞へと戻っていく。
こうして、三木朱音の異世界生活は始まりを告げた。




