5.王都進出(前)
ハーデントゥルムに本拠を置くニエベス商会。
最近、とみに伸張著しい商会の会頭レジーナ・ニエベスは、馬車鉄道から降りて本部への道を歩きながら、不意に感慨に囚われた。
ほんの数年前まで、ハーデントゥルムの街には閉塞感があった。
特別、景気が悪かったわけではない。貧民街が徐々に広がったなどという、目に見える不安があったわけでもない。海賊が跳梁していたというのはあるし、いくつかの商会の経営が思わしくないという噂はあったが、致命的なものとはほど遠い。
ただ、なんとなく。はっきりとは言えないが、将来に希望が見えない。そんな空気が蔓延していたのだ。
レジーナ自身もその一人で、両親が残した商会を必死に守り――守るだけで精一杯で疲弊していく経営状態に絶望すら抱いていた。
すぐには破滅しない。けれど、一歩一歩崖下へと追い込まれていくような恐怖感。
しかし、それは新たな領主の登場で一変した。
自由都市としてのお墨付きを得ていたハーデントゥルムは、その支配を受けるつもりはなかった。のらりくらりとした交渉でかわし、無理難題を吹っかけて突っぱねる。
当時、エクスデロ商会が大きな力を持つハーデントゥルムの評議会は、そんなつもりでいた。
そう。つもりでしかなかった。
そして、そのつもりは、大魔術師にしてイスタス家の家宰であるユウトに、木っ端微塵に砕かれたのだ。
エクスデロ商会と海賊の癒着を摘発し、船が沈められ出入りができなかった港を再生し、瞬く間に裏社会まで一掃された。
抵抗する間もないどころか、そんな気すら起こさせない掌握劇。
しかも、その支配を受け入れてから、このハーデントゥルムは未曾有の発展を遂げることになるのだ。
レジーナのニエベス商会も、呪文の触媒として大量に発注された銀の取引で息を吹き返すと同時に、家宰ユウト・アマクサの信頼を得た。以降は、業績も忙しさも右肩上がり。
ついには、王都へ進出することにもなった。
「なるほど。それで、昔のことを思い返したのですね……」
ファルヴのように日々街の様子が変わるわけではないが、道を行く人々の顔は一様に明るい。人狼騒ぎは数ヶ月前のことだが、すでに過去のことになっている。例外は昼間からも繁盛している酒場のなかで、日々新たな人狼殺しの英雄が生まれていた。
そんな街の日常に、レジーナがアカネとともに心血を注いだヴェルミリオの服がとけ込みつつあった。すれ違う住民の三割。いや、半分近くは身につけているだろうか。
生地が良い、あるいは仕立てが良いから選んでいるのか。
否、一番の理由はデザインだ。従来の服に問題があったわけではないが、ヴェルミリオが提供する衣服は、より機能的で、美しく、着用者の美しさも引き出している。
改めて、混在しているのを見ると、違いが引き立つ。それは、決して身びいきではないはずだ。
「ここまで変わるとは、思ってもいませんでした」
「ん? なにか?」
歩いていたのは、レジーナ一人ではない。
なぜか、やや疲れた表情をした――理由を尋ねたが、笑顔でかわされた――ユウトが一緒だった。
その疲れた表情の理由を考えると、レジーナの胸がざわめく。その資格などないと理性が叱咤しても、感情は大人しく従ってくれない。
疲れている理由は、レジーナが思ったような艶めかしいものではなく美食男爵が原因なので完全に誤解なのだが、それを知る由もなかった。
「いえ、うちの服を着ている人がたくさんいると改めて気づいたもので」
「なるほど。確かに、少し不思議な光景かもね」
アカネがデザインした服は、数百年時代を先取りしている。江戸時代に迷い込んでしまった……というほどの違和感はないが、確かに不思議としか言いようがない。
ただ、そういうユウトはアルシアの手による黒竜衣を身につけているし、レジーナも、ウェストの辺りから裾が大きく広がった白いブラウスに、濃紺のボタンダウン・スカートという出で立ち。
ヴェルミリオの代表者が従来の服を着るわけにもいかない。それに、最近は、試作品を着るのも楽しくなってきた。羞恥心が磨耗してきただけとは思いたくないが。
ゆえに、ユウトもレジーナも周囲から浮いているわけではない。
それどころか、その二人だけを純粋に見れば、似合いのカップルだと思うだろう。
「まあ、確かに流行っちゃいるみたいですが。これが王都でも通用するとは限らないんじゃないですかね」
自らが為したことを確かめる二人に冷水を浴びせる、三人目の、そして最後の同行者。
リューディガー・ハウザは思ってもいないことを口にして、成功を確信している上役たちに苦言を呈す。
王都セジュールを支配する商業ギルド――九大商会――の使者としてイスタス侯爵領を訪れ、実家を含む九大商会の破滅を防ごうと土下座までしたリューディガー。彼は、今やヴェルミリオ王都進出の重要人物となっていた。
本人としては、不本意ではないにせよ、なぜこんなことになったのかという思いもあり――どうしても、発言に皮肉が混じってしまう。
「俺としては、是非通用してほしいと思っているんだけど」
「希望だけで成功したら、今頃みんな大商人ですよ」
「リューディガーさんだって、婚約者さんにうちの服を着てもらいたいとは思いませんか?」
「うっ。まあ、それはそうですけどね!」
リューディガーが認めると、レジーナは素直に喜んだ。
不承不承だろうと構わない。新しいのは良いが、珍しすぎて遠巻きにされては困るのだ。
「問題は、そいつを売ることでしょう?」
「だから、それをこれから話し合うんでしょう?」
ヴェルミリオの王都進出は、すでに決定事項だ。
この数ヶ月の間、レジーナはそのために商品を用意してきたし、リューディガー・ハウザも故郷である王都で店の準備を整えてきた。
その上で、出店計画を話し合うため、この三人はニエベス商会の本部へと向かっていた。ユウトにとっては、ヨナと一緒に初めてレジーナに会ったとき以来の訪問になる。
「わざわざ、ご足労いただき申し訳ないです」
「気にしないでください。現物を見ながらのほうが良いだろうし、帳簿の類もそうそう動かさないほうがいいだろうから」
実務上の理由で会場として選ばれただけ。
そこに他意はない。ユウトも、仕事としか思っていないはず。
それは分かっていても、ユウトが家に来るのだ。レジーナは緊張してしまう。
リューディガー・ハウザは、そんなレジーナの横顔を、ため息混じりに眺めていた。
「そういえば、さっきレジーナさんがリューディガーさんの婚約者がどうこうって言ってた気がしたんですが」
「そこからですか!」
ニエベス商会の本部で、最も格式の高い部屋。本来は、外部からの客をもてなす応接室にリューディガー・ハウザの絶叫が鳴り響いた。
一時は調度品を売り払われ閉鎖されていた部屋だが、今は壁に絵画が飾られ、座り心地の良いソファも趣のあるローテーブルも用意されている。ニエベス商会復活の象徴というと大げさかも知れないが、ずっと商会を支えてきたセスク老人にとっては感慨もひとしお。
そのセスク老人自ら貴重な紅茶をサーブし、部屋を出た瞬間に発したのが、ユウトの意地の悪い質問だった。
完全に油断していたのだろう。
歌よりも顔の良さで生きてきた吟遊詩人のようなリューディガーから、キザったらしい余裕が消え失せる。
「あと、さんづけ止めてください。心臓に悪すぎますから」
「年上を呼び捨てにするのは、気が引けるんですが……」
「貴族様に丁寧な言葉遣いされるほうが、寿命が縮みますって」
「そうですね。それは、その通りかも知れません」
一応、守護爵という地位にある自覚はあるが、それと自分が偉いらしいという事実と結びつけていないようだ。
とはいえ、ユウトもリューディガーだけならともかく、レジーナにまで言われては検討せざるを得ない。
(確かに、妙にフレンドリーな先生とか、逆に距離感がつかみづらかったりするもんな)
この点は異論もあるだろうが、言いたいことは分かる。自分が教師の立ち位置にいるという感覚がないだけで。
「しかし、そうなると無理やり婚約者の話を聞き出すことになっちゃうな……」
「こっちから話しますよぅ!」
リューディガーの実家であるハウザ商会と同じ、九大商会の一角。貴金属の売買で財をなしたザイガ商会の三女が婚約者だったそうだ。
過去形なのは、現在の彼の状況を考えれば当然だが。
それでも、婚約者とは相思相愛らしく――こちらは、幸いなことに過去形ではない――ヴェルミリオの王都進出にあたって協力をしてくれたそうだ。
「ミリアが友人を集めて試着会を開いたり、評判を広めてくれたり、店の場所を一緒に選んだり……」
「なるほど。その元婚約者さんには、感謝しないといけないな」
「まだ、元じゃないですけどね! ま、感触は上々だったんですが……」
婚約者との日々を思い出し幸せそうな表情を浮かべていたリューディガーから、どよどよとした負の空気が漂ってくる。
「ある日、親父に呼び出されて言われちゃいましたよ」
「……もう、親でも子でもない。商売敵だ、とか?」
「いやぁ、それぐらいなら良かったんですけどね」
敵同士となる親子に、それ以上の言葉があるのだろうか。
ユウトもレジーナも、話の着地点が分からず、黙って続きを待つしかない。
「『命あっての物種だ。ほとぼりが冷めるまで、フォリオ=ファリナかクロニカ神王国へ避難しろ』って、金貨を渡されちゃいましたよ」
もちろん、突っ返しましたがね。
そう誇らしげに言うリューディガーだったが、目は笑っていなかった。