8.ふたつの指輪
「逝ってしまったわね……」
「立派だったよ」
なおも両親が消えた虚空を見つめ続けるアルシア。
ユウトは、妻となったばかりの彼女を、自分の胸に顔を押しつけるように抱きしめる。普段なら緊張をもたらしただろう、温もりも膨らみも柔らかさも意識の外。
ただ、そうしなければならないという焦りにも似た感情に突き動かされ、アルシアをぎゅっと抱きしめた。
「もう、俺しか見てないから」
「ユウト……くん……」
「だから、我慢しなくてもいいよ」
「ユウ……ト」
アルシアの表情が、戸惑いから理解に変わる。
彼の言わんとするところが、理解できた。その瞬間、端正な相貌が歪んだ。
「あっ、ああああああ――」
堰を切ったように、感情があふれ出す。
瞳に涙を溜めて、こぼれ落ちないようにしていたのに。せっかく我慢していたのにと、アルシアはユウトへ八つ当たりにも似た感情を抱いてしまう。
それは、甘えだ。
ユウトに甘えてしまう。そんなこと、誰にもしたことがないのに。
「お父さんもお母さんも、とっくに死んだ人で。何年も会っていなくて。記憶だって朧気で。今さら、悲しんだって思って」
「悲しみに理由なんかいらないよ」
優しく、慈しみを込めて。
せめて、気持ちだけでも伝わるように頭を髪を撫でていく。
アルシアは、自分からユウトの胸に額を強く押し当て、彼の服を強く掴む。
「泣いていい。泣いてもいいんだよ、アルシア」
「ああああっ、あああああ――」
身も世もない号泣。
こんなアルシアを見るのは初めてだ。正直、戸惑いがないとは言えない。
だが、同時に、この場に居合わせたのが自分で良かったとも思う。
ユウトとアルシアは、信頼から関係が始まった。
もしかすると、自分自身よりも大切に思っているヴァルトルーデとも違う。
友人であると同時に、好敵手にも似たアカネとも違う。
保護者と被保護者であるヨナとも、もちろん違う。
対等な関係だったからこそ、遠慮せず、意地を張らず、みっともない姿だってさらすことができる。
「偉かったね、アルシア。お義父さんとお義母さんに心配をかけないよう、我慢してたんだろう? 二人とも、安心して逝けたと思うよ」
返事はない。
ただ泣き声だけが、二人きりの黒い空間に木霊する。
今は悲しくても、アルシアは絶対に立ち直る。
だから、せめて今だけでも、泣いてほしかった。
そのまま、どれくらい過ぎただろう。
相変わらず、ユウトはアルシアの背中を撫で続けていたが、泣き声は徐々に小さくなっていった。
しかし、嗚咽が止まっても、アルシアはそのまま動こうとしない。結局、ひとつになっていた二人がふたつに分かれたのは、10分以上が過ぎてからのことだった。
ユウトからハンカチを受け取り――ユウトは、毎朝用意してくれているアカネに改めて感謝する――アルシアは、泣き笑いの表情を浮かべながら涙を拭った。
「服が未完成で良かったわ。ユウトくんに着てもらってたら、涙で汚すところだったわね」
「俺としては、それでも良かったけど……。まあ、遠慮なく泣いてもらえるほうがいいか」
「嫌だわ、本当に。今日は泣いてばかり。泣きすぎると、頭が痛くなるのね」
「今日か。外に出たら、明日になっていたとかでも、驚かないけどね」
「それは、別の意味で頭が痛くなるわ」
自分で言って、普通にありえるなと気づく。
むしろ、この後、なにもないほうが不気味だ。
「よくぞ、役目を果たしたのじゃ」
噂をすれば影――というわけではないだろうが。
そんなユウトの予想――断じて、期待ではない――通りに、漆黒のトーガを身にまとった死と魔術の女神が降臨する。同時に、空虚だった空間に妙なる調べが流れ、どこから現れたのか、色とりどりの花々が周囲を埋め尽くした。
「辛い役であっただろうが、こればかりは余人に任せられぬこと。許すのじゃ」
「滅相もありません。深く御礼申し上げます」
その場にひざまずき、神へ感謝を捧げるアルシア。
ユウトも、そこまで大げさにはしないが、しっかり礼を尽くす。
「私からも御礼を申し上げます。門出にふさわしい役目を与えていただき、感謝に堪えません」
「ならば良し!」
満足そうに、黒髪の少女――トラス・シンク神はうなずいた。
「悲しみを乗り越えることができると、信じておったのじゃ。此方も嬉しく思うぞ」
「もったいない、お言葉です」
過去を披露し、親子の別れをお膳立てした死と魔術の女神。
それも、愛娘と呼んではばからないアルシアのため。ムルグーシュ神も駆逐された今、遠慮は無用だ。
(――と、思っているはず。さて、なにが飛び出すか……)
義父や義母、それに生贄にされた子供たちの魂を保護し、アルシアに大きな物を与えてくれた。
その行いは、まさに神と呼ぶにふさわしい。力ではなく、その精神こそほめたたえられるべき。
それは素晴らしい。
だが、それで終わらないことを、ユウトは知っていた。
――経験で。
「さて」
関係者を集めた名探偵のように、トラス・シンク神が一言発した。
ユウトだけでなく、アルシアも身を震わせる。
なにが飛び出すか。
人と神の中間に位置する二人でも、この場は黙って待つしかない。
「ついに、此方が愛娘と愛しき御方の眷属が結ばれることとなり、感無量である」
「あの……」
「問答は無用なのじゃ」
ゼラス神の眷属になった記憶はない――という抗議は、ユウトにとっては正当なものであったが、しかし、トラス・シンク神の一睨みで雲散霧消する。
(納得いかねぇ……)
けれど、これが現実。
そして、死と魔術の女神に言わせれば、それは本質ではない。
「ゆえに、祝福を与えようぞ」
「喜んでお受けいたします」
「……お受けいたします」
アルシアに、断るという選択肢は端から存在しない。
それは、ユウトにとっても同じ。正直なところ、言葉で祝福してくれるだけで充分。気持ちだけで、それ以上はなにもいらないのだが……。
実は、その敬いながらも伏さぬ態度こそ、力ある者に好かれる要因であることには、気づいていなかった。
「左手を」
「はい……」
信仰する神の言葉に従い、なんの疑問も抱かずに手を差し出す。
「不変なる洞窟真珠。それを婚姻の証とするは、実に乙女心をくすぐる仕儀なれど……」
アルシアの手を取り、ユウトが贈った結婚指輪を指で撫でながら、トラス・シンク神が言葉を続ける。
「本来、結婚指輪は一対であろう。まさに、片手落ちじゃな」
「あっ」
本当に気づいていなかったわけではない。だが、感情感知の指輪の代わりにという意識があったのと、ひとつ作るのも困難だったという理由で、アルシアへと贈った。
いや、それも一面の事実でしかない。
結局のところ、ひとつ完成したら歯止めが利かなくなっただけなのだ。
「なれば、此方が祝福をもって、その代わりとするが良いのじゃ」
指輪に触れていた手を離し、瞑目。
一見して分かるほど――あるいはユウトたちも神力を得たためか――トラス・シンク神の神力が増していく。
「《魔術師の加護》」
そして、秘跡が解き放たれる。
同時に、莫大な力――神力か魔力かも判然としない――が、洞窟真珠の指輪へと注がれていく。途中で指輪が崩壊せずに済んだのは、不変の性質に加え、ユウトが手ずから加工したためだろう。
ゆえに、もうひとつの秘跡にも耐えられた。
「《恋人たちの絆》」
それは、ユウトでも理解できない秘跡。
果たして、どのような加護を与えたのか。
しばらくして力の奔流が収まると、アルシアの薬指から洞窟真珠の指輪は消え失せ、代わりに、手のなかに指輪がふたつ出現した。
奇跡というよりは手品のよう。
しかし、それは寸分違わず同じ指輪であり、秘宝具にも匹敵する力を秘めているとなれば、やはり、奇跡の産物であろう。
「アルシア」
ユウトが名を呼ぶと、アルシアはトラス・シンク神へと目礼し、彼に指輪をひとつ手渡した。
「一日に二回もで、やり直しみたいになっちゃったけど……」
「何度でも良いのよ。相手が、ユウトくんならね」
その言葉に後押しされ、再び愛する人の左手の薬指に指輪をはめる。
「ユウトくん……いえ、ユウト」
お返しとばかりに、アルシアもユウトの手を取って指輪をそっとはめた。
ヴァルトルーデとの結婚指輪と、しっかり共存している。
「ふふっ。なんだか、恥ずかしいわね」
「うん。照れるね」
視線は気にしないようにしていたが、神前での指輪交換だと考えると勝手に顔が赤くなってしまう。
「うむうむ。此方が前で愛を誓ったからには、それを永遠とするべくお互い努力するんじゃぞ」
「永遠の愛を保証するとかじゃないんですね」
「此方に保証を求めるよりも、お互いを気にかけたほうが成就する可能性は高かろうぞ」
天は自ら助くる者を助くということか。
神から言われると、妙に説得力がある。
だが、そう言うからには、単純に洞窟真珠の指輪を増殖させただけのようだ。ユウトは、ほっと一安心――とは、いかなかった。
「ところで、その指輪には、呪文を込めることができるのじゃ」
「ああ……。そう来ましたか」
似たような魔法具はいくつかある。以前、ペトラに渡した槍もそうだった。
なにもないはずがないのだし、その程度であればまったく問題はない。
そう思っていた。
「ただし、自らの指輪に呪文を込められるのは配偶者のみ。発動は一日に一度しかできぬが、翌日に有効化すれば込め直さずに再使用可能じゃ」
「それは……」
「ひとつの呪文しか込められぬが、やり直せば新しい呪文に上書きもできるぞ。もちろん、階梯の制限もないのじゃ」
「マジか……」
秘宝具。いや、神の手による聖遺物か。どちらにしろ、魔法具の域を越えた存在には違いない。
限定的とはいえ、アルシアが《瞬間移動》や《時間停止》を。ユウトが《奇跡》を発動できるということ。
ただし、強力であるがゆえに、落とし穴も存在した。
「我が神よ、ところで有効化とは……?」
アルシアが、おずおずと疑問を投げかける。
「ふふふふふ」
「あ、嫌な予感が」
「それは、指輪の所有者同士が心を通わすことじゃ」
「心を……」
「通わす……」
いきなり、無理難題が降ってきた。
心を通わす前に、ユウトとアルシアは顔を見合わせる。
「やりようはいくらでもあろうが、まずは唇でも重ねるのがよかろうなのじゃ!」
「それをやらせたかっただけだろ!」
「此方が愛娘が、ヘレノニアの聖堂騎士に負けっぱなしではいかぬであろ」
「余計なお世話過ぎる!」
「返品は受け付けぬゆえにな。では、そろそろ戻るが良かろう」
指輪の交換を見届けたトラス・シンク神が、一方的に言い放つ。
文句を言う間もあらばこそ。
死者の魂と対面した黒い空間が歪み、伸び、縮み、崩壊した。
なお、この指輪は後に、リング・オブ・アークメイジ・アンド・パトリアーチ――『大魔術師と大司教の指輪』と呼ばれることになるのだが、その所有者は、単純に「俺とアルシア姐さんの指輪」もしくは「私とユウトくんの指輪」と呼んでいた。
予想通りというべきか。霊廟を出た二人が目にしたのは、夜明けの光景。
「大変な目にあった……」
「そうね……。でも、楽しかったわよ」
「そうだね。一生に一回ぐらいなら、こういうのも良いか」
徐々に昇る太陽の下、眩い光に照らされたアルシアは、本当に綺麗で、まぶしくて。
理性の制御を離れて、つい、思っていたことをそのまま口にしてしまう。
「ずっと、一緒にいよう」
「嫌だと言っても、離さないわよ。前にも、言ったでしょう?」
ほほえみを交わす二人。
距離が徐々に近づき、すぐゼロになる。
瞳にはお互いの姿。
耳朶を震わす熱い吐息。
触れあう、柔らかな唇。
鼻孔をくすぐる甘い香り。
そして、存在を口内でも味わう。
五感のすべてでお互いを感じ、二人は永遠を誓った。
次回(明日)エピローグを更新して、Episode13終了です。