3.誓約(前)
「ヴァル!」
「うわっ。なんだ、ユウトか。驚かせるな」
就寝前の穏やかな時間。
自室でヨナと過ごしていたヴァルトルーデは、突然の訪問者に慌てたような声を上げた。扉の前に誰かが現れた気配は感じていたが、いきなり入ってこられては、いかに聖堂騎士とはいえ、驚きもする。
ユウトとしては、いきなり室内に《瞬間移動》しなかっただけ配慮したつもりなのだが、伝わるはずもなかった。
なぜか、机上の紙類をわたわたと片付けているヴァルトルーデを訝しみながら、ユウトは素直に謝罪した。
「悪い。あ、ヨナも一緒だったのか」
「ヴァルの先生だから」
「私とアルシアは、ヨナの弟子だな」
生徒のほうが誇らしげに言う。
どこまでも、前向きだ。
相変わらず殺風景な部屋だが、今は、ローテーブルを持ち込み、ヨナとともに読み書きの勉強を行なっていた。一度は最低限の読み書きを身につけたヴァルトルーデだったが、天上での冒険に武闘会にと忙しい日々を過ごした結果……その一部が、忘却の彼方へ消え去っていたのだ。
いや、それは正確ではない。
一部――自分の名前など――を除いて、忘却の彼方へ消え去っていたのだ。
「使わねば錆びる。道理だな。だが、研ぎ直せばいいだけのことだ」
致し方なしと再学習に燃えるヴァルトルーデ。
その前向きな姿に、ラーシアでさえも目頭を押さえたという。
それはさておき、勉強中のところに乱入してきたユウト。
用向きを尋ねられるのは当然の話だった。
「で、ユウトはなにしに?」
「ははは。勉強の邪魔だから出ていけと言われているぞ」
「暇なら、ヴァルには課題出して自習させるから遊ぶ」
「後ろから斬られるとは……」
「ばっさり」
最近、ヨナをあまり構っていなかったし、そうしたいのは山々だが、今は駄目だ。
「これからアルシア姐さんにプロポーズしてくる」
「そうか……」
先ほどユウトが入ってきたとき以上の驚きに目を丸くするが、口調は穏やか。
来るべきものが来た……というよりは、自分のせいでここまでずれ込んだと思っているのかも知れない。
「アルシアをよろしく頼むぞ」
「ああ。任された」
それ以上の言葉は必要ない。
「うんうん。じゅんちょー、じゅんちょー」
必要ない。ないのだ。
我がことのように嬉しそうなヨナの反応に不吉さを感じつつも、報告を終えたユウトは踵を返し――
「ああ、そういえば。アカネから言われていたのだった」
――部屋から出る寸前で、呼び止められた。
「ユウトが帰ってきたら、自分のところへ顔を出すよう伝えてくれとな」
「言ってた」
「急いでるんだけど……」
「素直に従ったほうがいい」
「そう……だな」
アルビノの少女に諭され、ユウトは素直に従うことにする。
焦りというか、気が逸っているのは自覚していた。
借りた場所の後片付けをしていないことに気付いても、あまり悪いとは思っていない程度には浮ついている。
つまり、他人のほうがよっぽど信頼できる。
ならば、助言に従うべきだろう。
「ああ、ユウト。戻ってきたのね」
そこに、タイミング良くアカネが現れた。
彼女が現れたのは、偶然ではない。
「ルルちゃんに頼んでおいて良かったわ」
「ルル……? ダァル=ルカッシュか」
名前からたどり着いたのではない。《瞬間移動》してきたユウトの帰還に気づくことができるのが、城塞内では次元竜ぐらいしか思い当たらなかっただけ。
とはいえ、アカネの用事は見当もつかない。
「まあ、そのネーミングセンスはともかく、朱音。これから、アルシア姐さんにプロポーズしてくる」
「指輪ができたのね? じゃあ、ちょっと待ってなさい」
自室へ戻ったアカネが、なにかを取って戻ってくる。
ユウトは、焦れながらそれを待ったが、その選択は正解だった。
「どうせ用意してないんでしょ? これ使いなさい」
こうなることを見越していたらしい。
アカネの掌の上には、リングケースが載っていた。ビロード貼りの箱で、内部はサテン地。黒いシックなケースは、洞窟真珠の色に合わせたものか。
「それは……」
「まさか、指輪を裸で渡すつもりだったの?」
「……あ」
「まったく、しょうがないわね」
あきれながらも、嬉しそうなアカネ。
そんな婚約者の手を握り、ユウトは感謝をしつつ受け取った。
「さすが、朱音。頼りになる」
「頼りになるよりは、愛してるのほうが嬉しいわね」
「愛してる」
「……さっさと、行きなさい!」
そんな激励の言葉に背中を押され、ユウトはアルシアがいるトラス=シンク神殿へと駆け出していった。
「はい?」
控えめなノックの音に、アルシアは敏感に反応した。
机の上に広げていたユウトの服を手早くしまい、しかし、表情は変えずに入室を促す。
ちゃんと、取り繕えている。
アルシアはそう信じていたが、誰が来るか分からないのに真紅の眼帯を着けていない時点で、完璧とは言いがたかった。訪問者も冷静ではなかったのは、幸いだろう。
「こんな時間に、ごめん」
扉を開けて入ってきたのは、予想外の人物。
いや、予想外ではない。予感はあった。
けれど、予定ではこちらから行くつもりだった。
「それは構わないのだけど――」
アルシアは立ち上がってユウトを部屋に招き入れる。
トラス=シンク神殿にあるアルシアの執務室は整理が行き届いており、急な来客でも不都合はない。
それなのに、アルシアは緊張していた。妙に、喉が渇いている。
随分と、くたびれているわね。
こんな時間に、どうかしたの?
いつもなら、考えずに出てくる言葉が出てこない。
不思議な沈黙が、二人の間にわだかまる。
「今さら、なんだけど……」
その沈黙を破ったのはユウト。
彼から訪問したのだから、ある意味当然ではある。
それに対し、アルシアはダークブラウンの瞳で見つめるだけ。
心臓が高鳴り、顔が火照っている。
精神では制御できない肉体の高ぶりを自覚し、全身の骨と筋肉がなくなってしまったかのような錯覚を憶える。
以心伝心――というわけではないが、ユウトがなにを言わんとしているのか分かってしまった。
「アルシア」
「ひゃい!」
ろれつが回らない。
ユウトが笑っている。
自分でも、情けなくて逃げ出してしまいたくなる。
だが、それはできないし、したくない。
アルシアは、その場に踏み止まり、呼吸を整える。
ユウトも、それを待ってくれた。
部屋の中央で、二人が見つめ合う。
二人の瞳に、愛する人の姿が映る。
「ずっと、一緒にいたい。だから、結婚しよう」
「……はい」
プロポーズされるのは、二度目。
といっても、前回は、結婚を前提に付き合ってくださいというプロポーズだった。今回は、それとはまた違う。
虚飾を排したからこそ伝わる真意。
アルシアも、ストレートに応えた。
目に見えて、ユウトが安心しているのが分かる。ハードルをひとつ乗り越えたのだから、それも当然だろう。
だが、アルシアにとっては、それどころではない。
まだ、続きがありそうだった。
「本当は、今渡すべきじゃないかも知れないけど……」
そう言いながら、ユウトは小さな箱を取り出す。
制服のポケットに入っていたそれは、アルシアには馴染みの薄い物。
けれど、それがなにかは理解している。
「ユウト……くん」
「開けてみて」
こくりと、小さな子供のように素直にうなずき、ビロードのふたに手をかける。
真っ先に飛び込んできたのは、目が痛くなるほどの白。
清純、無垢、善良。
強烈な正のイメージが飛び込んでくる。その正体は、どこまでも白く、穢れを寄せ付けぬ純白の指輪だ。
細く、身につけていて邪魔にならない白い円環。凝ったデザインではなく、細かい装飾や他の宝石もなかった。ともすれば、安っぽく見えるリング。
だが、それは美しかった。
光沢があり、それ自体が輝くようで、不可侵の美を感じさせる。それが、黒いサテン地の内張によく映えていた。
上品で、厳かで、不変。
魅入られたように、アルシアは掌中の指輪から目が離せない。
「外国行ったときに、この洞窟真珠を薦められてさ」
「……洞窟真珠?」
夢のなかにいるかのような、儚い声。
ああ、そうだ。これは、夢なのだろう。
夢のような現実に遭遇している。
「不変の性質を持つとされていて、愛を誓うのにぴったりだろって」
「不変……」
確かに、そうだ。
これは、何者も侵すことも穢すこともできないに違いない。
「でも、不変なら?」
「俺が呪文でなんとかしたんだ。だから、デザインが素人ぽかったり――って、アルシア姐さん!?」
なぜか、涙が溢れてきた。
突然、限界に達したわけではない。
服を作りながらユウトを想い、過去と未来に思いを馳せた結果、知らず知らずのうちに感情が高ぶり、立った今、決壊したのだ。
「泣くには、まだ早いよ」
ユウトはアルシアを抱き寄せ、耳元でそうささやく。
指で涙を拭い、リングケースを手にとって、洞窟真珠の指輪を取り出した。
リングケースは再びポケットにしまい、アルシアの白く滑らかな――最近の針仕事でも荒れてはいない――手を厳かに握った。
「この洞窟真珠のように、変わらない愛を誓うよ」
そして、左手の薬指に、純真にして無垢な指輪がそっと嵌められた。
「それから、俺がこうやって綺麗に加工したように、より良い二人になろう」
「ええ……。そうね」
夢うつつで言葉を返すアルシア。
そうしながら、表にし、裏返し、まじまじと指輪の嵌まった自分の手を見つめる。
夢なら覚めないでほしいと願うように。
これが現実だとかみしめるように。
「ああ、サイズもぴったりだ。良かった……」
そんなアルシアの気持ちなど気づかずに、心の底からほっとしたとユウトが相好を崩す。仕方がない。最後のハードルを乗り越えたのだ。
それを見たアルシアは、彼も緊張していたのだとおかしくなってしまった。
次いで、なぜか悔しさが湧いてくる。醜態を見せたのは自分だけではないか。
「そうね。ここでサイズが違ったら、台無しだったわ」
ようやく余裕を取り戻し、アルシアは反撃を試みる。
「うん。やっぱり、笑ってくれたほうが良いね」
しかし、首まで真っ赤になっている状態では、説得力がなかったようだ。ユウトに抱き寄せられ、あっさりと陥落する。
「それは、今後のユウトくん次第かしら」
せめてもの抵抗にと、アルシアはそっぽを向いて答えた。
ユウトの胸のなかで。
お陰様で、書籍化の作業は終了しました。
次回の更新は金曜日ですが、来週は通常のペースに戻ります。
今後とも、よろしくお願いいたします。




