8.混沌の第四試合(後)
すいません。この試合、あと1話だけ続きます。
勝敗の行方は、次回の決着編をお待ちください。
クレスは、変化した赤火竜を前にしてアルサス王との一戦を思い出していた。
正確には、最後に放った一撃を。
渾身にして、会心と呼ぶにふさわしい一撃だった。
10回。いや、20回に一度出せれば良いほうか。それほどの手応えがあり――それは、まだ彼の手に残っている。
「どうした? 一太刀も浴びせずに倒すは不憫と思うて待っておったが、恐怖に動くこともできぬか?」
パーラ・ヴェントの声音に嘲りはない。
ただ、自らの存在が人の子を圧倒しているという実感に満足しているようだった。
けれど、実のところクレスは赤火竜を見ていない。見ているのは、赤火竜と立ち合っている自分自身の心だ。
サティアが見ている。祖母に見られている。祖父は同じ場所に立っている。
最高の舞台。最悪の対戦相手。
誰だって、恥はかきたくない。格好いい自分だけを見せたい。成功して、ほめられたい。
「恐怖? 隙を突こうとしているだけだぜ」
だが、それは無理なのだ。
情けなくても、格好悪くても、勝てなくても。それでも、前に進むしかない!
「この赤火竜に隙などあるものか」
「やってみなくちゃ、分からない……だろ!」
「その通りだ!」
最初に動いたのは、“疾走者”イリザウア。
正確には、クレスが決心するまで待っていたと表現すべきか。
クレスがパーラ・ヴェントとの距離を詰めるのに合わせ、攪乱するように大回りでドレスアップした赤火竜の背後を取る。
“疾走者”の二つ名に相応しく一瞬で距離を詰めると、手にした得物を振り下ろし――
「愚かな」
「ぐっ、ガッッ」
いつからそこにあったのか。ドレスの中から現れたドラゴンの尾に横っ面を打ち据えられ、イリザウアの――岩巨人にしては――痩躯が宙に浮く。
「うおっーとーッ。顔だか首だかがひん曲がった! っていうか、首がありえないほど伸びているようにも見えます。“疾走者”イリザウアは、ドラゴンの尾の一撃で沈んでしまうのか!?」
「いえ、まだよ」
「ぬおおおおっっっ!」
そのまま吹き飛ばされそうになるところ、無理やり全身に力を込めなんとかその場に踏みとどまる。武器は落としていない、目の光も失われていない。
とはいえ、エグザイルのスパイク・フレイルの一撃を受けていなかったら、終わっていたかも知れなかった。あの経験があったから、まだ立っていられる。
敗戦からでも成長する。得るものはある。すべては、自分次第。
「グガァム!」
相棒の名を呼びながら、飛びつくように鉈を巨大化させたものにも似た刃を赤火竜の尾に突き立てる。まるで金属同士をこすり合わせたような擦過音が響き、火花が散った。
岩巨人が振るった刃は、炎のように赤い鱗を貫けない。
「ふんっ」
それでも、不快感を与える程度の効果はあったのか。
パーラ・ヴェントが虫でも払うかのように、尾をクンッと上に向ける。
「がっ」
舌を噛んだのだろう。イリザウアの口腔から鮮血が垂れ落ち、乱杭歯が欠ける。否、砕ける。シェイクされた脳が傷ついた肉体を休ませようとしているのか、膝が砕け、足に力が入らない。
アッパーカットを食らったボクサーのように前へ倒れ、それでも、無意識にか両腕で赤火竜の尾を掴む。
「パーラ・ヴェント!」
そのタイミングで、クレスは長剣を振り下ろした。
この瞬間を待っていたと言っても良い。
イリザウアがパーラ・ヴェントの注意を引きつけようとしている。その意図は、言葉を交わさずとも目を合わせずとも伝わった。
敗者のシンパシーかと、嘲笑されるかも知れない。
だが、構わなかった。
恥なら、一生分かいた。
それよりも今は、“同志”の期待に応えたい。
踏み出した歩幅、振り上げた高さ、振り下ろす速度、通過する軌跡、狙った部位。
そのいずれもが完璧だ。
クレスは、そう確信する。
エルドリックの愛剣やアルサスの宝刀とも違う。ヴァルトルーデの熾天騎剣とは比べるべくもない。ただの魔化された長剣。
赤火竜に挑むには、余りにも陳腐な武器。
そんなものは関係ない。
クレスの長剣はパーラ・ヴェントの首筋に迫り――赤火竜がニヤリと笑った。
尾での戯れに気を取られた? そんなことがあるものか。
パーラ・ヴェントは長剣になど見向きもせず、顔と同じ大きさに見える巻き毛を揺らし、鈎爪を生やして振るう。
「やれ!」
そこに割り込んできた。いや、倒れ込んできたのが“暴虐”グガァム。
肉の盾か岩の壁か。
クレスへと迫っていた赤火竜の鈎爪が、グガァムの体を貫いた。
「こっ、これはーー!」
実況のメルラも言葉にならない。
クレスも、その光景には心胆を寒からしめた。
だが、その助力を無駄にはしない。それが、彼らに報いる唯一の方法。
振り下ろしていた長剣を上半身の力だけで戻し、背が反り返り、それを反動にして鋭い突きを放った。
「くっ。触れるな、下郎がっ」
イリザウアが尾を、グガァムが腕を。
命を懸けて掴んで離さない。
「あああっっっっ」
喉が枯れる。否、喉から血が流れそうな絶叫。
長剣が疾風となって豪奢な金髪を幾筋か切り落とし、赤火竜パーラ・ヴェントの頬を切り裂いた。
“疾走者”イリザウアが半ば意識を失い、“暴虐”グガァムが重傷を負い、クレスが渾身にして、会心と呼ぶにふさわしい一撃を放つ。
偉大なる戦果。
それでも、頬を軽く切り裂くのが、精一杯だった。
「キッ、サマらぁぁっっっっ!」
赤火竜が咆哮する。
余裕もなにもかも、かなぐり捨てて。
怪我というのもおこがましい傷。
それでも、人間が虫に刺されれば怒りを見せるように、パーラ・ヴェントはきついつり目がちな瞳に怒りを燃やす。
「皆殺しにしてくれるわ!」
岩巨人から腕を引き抜き、再び鈎爪を振り下ろそうとした――その時。
「わざとではないのよ、パーラ・ヴェント」
豪奢な金髪を巻き毛にしたきつい美女の頭の上に、褐色銀髪の女武闘家が降り立った。
レラ――レグラ神の分神体が、人化した赤火竜の頭頂部を足場とするに至った経緯。それを語るには、もう一組の戦いに目を向けねばならない。
「ふふふ、とても楽しみですね」
「まさに!」
クレスと岩巨人たちが協力して強大なる赤火竜と対峙している間、それと並行して剣士と拳士の戦いも行われていた。
構えを取りながら慎重に、しかし余裕を持ってレラとレグナム総大司教が距離を詰めていく。摺り足で、ゆっくりと。
レラはエルドリックへ、レグナム総大司教はレイ・クルスへと。
「破ッ」
切り替えは一瞬。
緩と急。静と動。
凄まじい振り幅で、レラがフィールドを駆ける。
正面ではなく、進路を交差させてレイ・クルスに向かって。
「けっ。どっちだって構うもんかよ!」
直前でのスイッチにも、エルドリックはしっかりと反応した。
一瞬で距離を詰めたレグナム総大司教。重たそうな筋肉の塊だが、決して鈍くはない。
「ぬぅんっ!」
頭上で手を組み、ドワーフの鎚もかくやと振り下ろされた打撃に対し、盾を掲げて防御する。とても、人の腕が衝突したとは言えない音が鳴り響き、汗が飛び散る。
わずかに膝が沈んだエルドリックだが、むしろそれをバネにして斬りかかった。
「これでもくらえ!」
「まだまだ、楽しませてもらわねば!」
魔術師殺しが一閃。
筋肉の塊を切り落とすかに思われた寸前。力の神の地上代理人は腰のキレだけでマントを振り、その刃を包み込んだ。なにかの魔法具だったのか。勢いが削がれ、棍棒で打ち据えた程度に威力が減じる。
となれば、筋肉の鎧を貫くには至らない。硬質だが弾力のある肉壁に弾かれてしまう。
「なんて筋肉だっ」
「光栄の極み!」
「ほめてねえよ!」
二人の攻防は続く。
見るものが見ればうならざるを得ない対決はしかし、パーラ・ヴェントたちに集中するメルラの意識の外で、観客たちの注目度も低い。
観客たちの目は、演舞のように美しい二人の攻防へと注がれていた。
「その実力、確かめさせてもらおうかしら」
「御託は無用だ」
交差したレグナム総大司教の肉体をスクリーンに、レラが死角からレイ・クルスに迫る。
幽冥術を使用し左後方に現れた分神体は、長くしなやかな足を振り上げ、気をまとった蹴撃でこめかみを蹴り抜こうとする。
だが、その寸前でレラの惚れ惚れするような蹴りが止められた。
他でもない、彼女自身の意思で。
それも当然のことと納得するしかない。
その先には、漆黒の刃が待ち受けていたのだから。
白銀の剣士となったレイ・クルスが振るうのは、これだけは漆黒の両手剣、生命啜り。
敵を負傷させ打ち倒すのではなく、その生命力を吸い取り衰弱させる魔剣。
その効果を知ってか知らでか、レラはそのまま踵落としの要領で鞭のように危険な足を振り下ろし、レイ・クルスの持ち手を狙う。
けれど、それも通用しない。
両手剣を軽々と片手で扱い、素早く手首を回してまたしても魔剣で迎撃する。
不発と悟ったレラは片足で大きく飛んで距離を取り、フィールドに降り立つや再度突進。今度は蹴りではなくヴァルトルーデにも見舞った連撃を放つが、振り向き待ち受けるレイ・クルスにとっては児戯も同然なのか。
そのすべてに生命啜りを重ね合わせる。
ため息も忘れる攻防。
魔剣に触れる直前、レラは拳を引き、足払いをして追撃を避けるのも忘れない。
だが、それだけ。
拳はレイ・クルスへ届かない。
こちらを見ている観客は、千日手を思い浮かべただろう。事実、そうなる可能性も少なからずあった。
これが、乱戦でなければ。
分神体と黒髪の剣士が美しい攻防を繰り広げている間、麗騎士と総大司教も肉弾の宴を展開していた。その会場は、エルドリックが剣を振るうたび、徐々に徐々に移動し、やがてレラとレイ・クルスに隣接する。
エルドリックが、レグナム総大司教の足下めがけて魔術師殺しを突き下ろした。
そして、その結果を確かめもせず、左手の盾を突きだした。
隣で友と戦うレラへ向けて。
「なっ」
「はっ」
驚く分神体へ、まるで援護が分かっていたかのようにレイ・クルスが生命啜りを横に薙いだ。
レラはたまらず大きく跳躍し――赤火竜の頭頂部に着地する。
しかし、エルドリックとレイ・クルスは、自らが引き起こした惨状を見ていない。
視線の先には、刹那立ち尽くすレグナム総大司教。
隙とは言えず、そう表現するのは余りにも酷な間。
けれど、麗騎士と黒髪の剣士にとっては、それで充分。
「寝てろ」
「殺しはせん」
二人の英雄がほとんど同時に剣を振るう。
エルドリックは楽しそうな笑みを未だ老いぬ相貌に浮かべ、レイ・クルスは表情を変えず。しかし、瞳に愉悦を宿して。
先ほどの足への一撃で、レグナム総大司教は回避もできず、筋肉を信じて亀のように丸まるしかない。
そんな事情など知らぬげに、競い合うようにして、一呼吸で何度も何度も振り下ろし斬り上げ突きを放つ二人。
合計で、いったい何度の攻撃となるのか。10を越えているのは確実だが、貴賓室にいるヴァルトルーデやアルサスにもすべては捉えきれなかった。
世界最高の剣陣。
それを一身に受けたら、どうなるのか。
「おっとーー! 巻き毛ドラゴンの頭に銀髪美人が着陸したら、レグナム総大司教が血を流して倒れたーー!!」
現象としては、まさにそう言うほかない展開。
けれど、それは結果でしかない。
凄惨な終幕に会場全体が息を飲むが、まだ本当の終わりではなかった。
「いつまで乗っておるか!」
「おっと、失礼」
パーラ・ヴェントが、蠅でも追い払うように頭上へ鈎爪を振るう。
パートナーの最期――死んではいないが――を呆然と見ていたレラは、ギリギリのタイミングで跳び、死の一撃を回避した。
その間に、仮面で素性を隠したユウトとヨナがフィールドに降り立ち、岩巨人二人とレグナム総大司教を回収する。いずれもきちんと息はあり、それならば怪我などすぐに治る。
「誰も彼も、不敬極まりないわ!」
怒り心頭のパーラ・ヴェントが、再び大きく息を吸い込む。
灼熱の吐息の予備動作。今度は、ヴァイナマリネンもいない。
面倒だと、まとめて薙ぎ払おうとする赤火竜の眼前に、力の神の分神体が飛び降りてきた。
「それは、無粋ですわよ」
「がっ」
気をまとった拳を鳩尾や喉めがけて振るうレラ。パーラ・ヴェントはまともにそれを受け、吐息は霧散し、きつい美貌を苦痛に歪める。
クレスは、その好機に乗じようとし――けれど、体が動かなかった。
怖じ気づいたわけではない。
知ってしまったのだ。
麗騎士エルドリックと黒髪の剣士レイ・クルス。
このブルーワーズで最も人口に膾炙し、憧れと哀しみの対象となっている二人が、刃を合わせようとしていることに。




