6.警告の神託(後)
今回、中盤の辺りは読み飛ばしても大丈夫です。
「ユウトくん、お願いね」
「ああ。そっちは終わりですか?」
「ええ」
あれ以来、皆の溜まり場になってしまったユウトの執務室に、紅の眼帯を身につけた大司教が姿を現した。普段通りの冷静なアルシアを見て、今が非常事態宣言の最中だと気づくのは困難だろう。
そんな彼女に反応したのは、書類仕事をしていたユウトだけだった。
ソファで向かい合ってチェスもどきをしているラーシアとヨナは視線すら動かさず、動かないという意味では部屋の隅で瞑目しているエグザイルも同様だ。
まあ、部屋のそこかしこに書類や計算用紙が散乱し、動くのがはばかられるという事情もあるのだが。最近はすっかり綺麗になっていた室内が、またしても混沌の権化のような状態になっていた。
城塞内にはそれぞれの私室が用意されている――どころか、主人のいない部屋が大量に余っているのだ。なにもこんな所に集まらなくても良いだろうと思うのだが……。
仲が良いのか、それとも貧乏性で広さを持て余しているのか。ユウトには、判断がつかなかった。
「ヴァルは部屋ですね? じゃあ、行ってきます」
「よろしくね」
アルシアに見送られ、執務室から出てヴァルトルーデの私室へ向かう。既にここ数日繰り返しているルーティンワークのため、からかいの声も出なかった。
「慣れたというより、飽きただけだよな」
しかし、それと緊張感とはまた別だ。
おぼつかない足取りで飾り気のない廊下を進み、ネームプレート以外では見分けがつかないヴァルトルーデの部屋の前に到着する。
「平常心、平常心」
何度か深呼吸。
そして、意味もなく髪を整えてから静かにノックした。
「ヴァル、いいか?」
「ああ、入ってくれ」
初めてではないが、女性の部屋に入るのだ。何回目だろうと平常心ではいられない。しかも、それがヴァルトルーデの部屋であればなおさら。
なにがあるわけではない。
ただ、呪文を掛けにきただけなのに。
室内は、飾り気が無いというべきか質実剛健と言うべきか。どちらにしろ、ベッドも書き物机も華美からはほど遠く、唯一、クローゼットの中に僅かな例外が眠っていた。アルシアもそうだが、ヴァルトルーデも金を使いたがらないところがある。
ただし、芸術品という意味では部屋の中心に立つ少女以上の存在は無い。
肩まで届く、黄金を溶かしたかのような金髪。胸に光る玻璃鉄のネックレスは、ヴァルトルーデが身に着けているというだけで、何倍もの価値を与えられたかのようだ。
蒼玉よりもなお深い碧眼が、真っ直ぐにユウトを見つめている。
数多の名匠がキャンバスへ石像へ写し取ることを断念した美貌は引き締まり、魔法銀のプレートアーマーと相まって、軍神の風格すら感じられた。
彼女が率いるならば、羊の群でも難攻不落の都を陥落せしめるに違いない。
何度見ても、ため息が出る。
本当に触れていいのか、躊躇する。
自分だけの物にしたいと、欲望が溢れ出す。
そんな内心をおくびにも見せず、ユウトは呪文書を取り出した。事前に掛けておける、長時間持続する援護系の呪文を使用するのだ。
呪文やドラゴンのブレス攻撃、猛毒など、様々な障害への抵抗性を高める《抵抗力増幅》。
呪文そのものを消去する《抗呪特性》。ただし、《抗呪特性》より前に掛けられた呪文には影響を与えず、逆に、《抗呪特性》がかかってからでは味方の補助呪文も消してしまう。あまり威力を高めすぎてもいけない、扱いが難しい呪文だ。
盾や鎧などの防具に魔法の防護を授ける《魔装衣》。元の強化よりも強い魔力であれば、上書きされるのだ。
武器の扱いやすさや切れ味を増す《魔器》は、予備武器のアダマンティン製のロングソードに。ヴァルトルーデが手にする討魔神剣には、強化の余地がない。
一部のモンスターが持つ死の視線や《即死の雲》の呪文など、負傷や体調を無視して死という結果を与える効果に耐性を得る《不死者の爪痕》。
火炎・冷気・雷撃・音波・強酸への強力な防護を与える《精霊円護》。
更に、《耐熱・耐寒》や移動速度が向上する《疾走》など、細々した呪文を使用していく。
すでに、《克死の天命》や重傷を負った際に祝福を与える、《不屈の契約》、物理的な負傷ではなく身体能力や知能への悪影響をシャットアウトする《生命の防壁》などといった神術呪文はアルシアが付与済みだ。
もしも《魔力感知》でヴァルトルーデの姿を見たならば、彼女の素顔に負けず劣らず輝く魔力を感じ取ることができただろう。
だが、実のところこれはまだ一部でしかない。
一日中効果が保つ呪文を掛けているだけで、持続時間がそれより短い呪文に関しては、敵を捕捉してから使用する予定だ。
当然、エグザイルたちにも、同じような呪文を掛けている。
一見、過剰とも思える事前準備だが、これには理由があった。
魔術師や司祭が一日に使用できる呪文の数には、限りがある。同時に、熟練するに従って使用回数は増えていく。
たった数回の戦闘では使いきれないほどに。
ならば、事前に使える物は使っておけばいい。戦闘行為ではなく、準備で勝利する。戦いを始める前に投了を決める。
それが、彼らの必勝法だった。
「どうした?」
「いや……」
「気になることがあるのなら、今のうちに話してくれると助かるんだが」
いつもと違い沈鬱なヴァルトルーデへ、気遣わしげにユウトが問う。憂色を浮かべるヴァルトルーデも悪くないが、それとこれとは話が別だ。
「そう、そうだな。ならば、率直に聞くぞ」
「ああ」
普段と変わらぬ様子のユウトに歯がゆさを覚えながらも、意を決してヴァルトルーデは言葉を紡いだ。
「なぜ、故郷――地球に帰ろうとしなかったのだ」
疑問か、確認か。
聞きたかったのか、曖昧に済ませたかったのか。
分からない。
分からないが、言葉にしてしまったからには、もう、後には引けない。
「そのことか……」
神託が下り、ファルヴ地下のオベリスクが敵の目的ではないかという推論が出た後、当然、そういう話になった。
敵が来る前に、オベリスクが蓄積した魔力を消費してしまう。それだけで、相手の目的を殺ぎ、未然に防ぐことができるのではないか。
「でも、目的がオベリスクは限らないし、そうだったとしても敵の侵攻が中止されるとは限らない。そんな状況で俺がいなくなるのは拙い――ということになっただろ?」
「確かにそうだな。だが、そんなことがユウトに関係あるのか? 私たちと違って、故郷が別にあるではないか」
ヴァルトルーデが敢えて発した厳しい言葉に、ユウトの舌と動きが止まる。
それは、見ないようにしていた。気づかないようにしていた可能性。
「もう、いつでも儀式はできるのだろう? 極端なことを言えば、今、この瞬間にでも故郷に戻って安穏な生活を送ることだってできるはずだ」
極論だ。
故に、正論でもある。
論理の鎧を破壊され、生身となったユウトに残された道はひとつ。
そう。感情で語るしかない。
「好きだからな」
恥ずかしい。
恥ずかしすぎるが、本音を言わなければこの頑固な聖堂騎士は納得しないだろう。長いつきあいだ。それくらい分かる。
「好きだから、俺の好きなようにやるのさ」
「好き……っと、そうだな。この街や皆が好きだからと言うのだろう?」
「当たり前だろ」
ようやく余裕を取り戻したユウトが苦笑し――すぐに表情を引き締め言った。
「でも、ヴァルへの好きは特別だ」
その言葉と同時に、ヴァルトルーデをぐっと抱き寄せた。魔法銀の鎧越しのため体温は感じられないが、吐息と鼓動は感じる。それで充分だった。
奇襲を受けたヴァルトルーデは抵抗できず。いや、あらがうことなく素直にユウトへ身を任せる。
胸元に輝く玻璃鉄のネックレス。愛しい彼女への贈り物に触れながら、ユウトが言う。
「好きな女のピンチに、なにもしないような情けない男に見えるか?」
「見えなくもない」
「……嘘をつけない人だー」
「だが」
ヴァルトルーデが優しく微笑む。
「最も信頼している」
「嬉しいよ」
しばらくそのまま二人でいた。
世界は二人きりだった。
不純物のない、純粋な世界。
しかし、長くは続かない。
「そろそろ戻るか」
「……そう、だな」
名残惜しそうに離れる二人。
「しかし、やけに時間がかかってしまったな」
「覚悟してる。というか、あいつらのからかいにいちいち反応するから遊ばれるんじゃないか?」
「うう……。私には、そんな開き直りは無理だ。恥ずかしいではないか」
廊下をユウトの執務室へと進みながら、そんな言葉を交わす。
だが、そんな未来予想図はあっさりと外れた。
「ちょうど良いところに戻ってきたね」
「今、呼びに行こうとしていたところよ」
執務室に入ると同時に、こちらも見ずにいきなり告げられる。
二人の言葉を受けて、ユウトとヴァルトルーデは視線を素早く鏡へと向けた。
鏡に映った光景を見てヴァルトルーデは、そしてユウトも言葉を失った。それは、他の仲間たちも同じ。
鏡面いっぱいに映し出されているのは、蜘蛛だ。
しかし、それをただの節足動物と表現するには、あまりにも巨大すぎた。
前後あわせて20メートルはあるだろうか。さらに、脚も伸ばせば同じ程度はあろう。七階建てのビルが意志を持ち、横倒しになって迫ってくるようなものだ。その迫力と嫌悪感は筆舌に尽くしがたい。
ごつごつとしたイボのようなものが全身を覆い、体躯に比べて細い繊毛が不気味さを割り増しする。
自然界にありながら、同じ生物とは思えぬフォルム。
巨大化し、細部まで見て取ることができ、カリカチュアのようなおぞましさが眼前に突きつけられる。
だが、その程度でヴァルトルーデが、ユウトの仲間たちが茫然自失とするはずがない。蜘蛛のモンスターであれば、人間サイズのそれと戦ったことは何度もある。サイズが違うだけで臆することはない。
紅く妖しく光る四対の眼。
全身を覆う繊毛。
艶消し黒の背甲。
細く長い八本の脚。
足の先端に生えている鉤爪。
大顎と鎌状になった鋏角は獲物を喰らい、毒を注入する。
ヴァルトルーデたちとユウトが知る蜘蛛に違いはない。
では、あの蜘蛛はなにが違うのか。
はっきりと、論理的に説明できる者は皆無だろう。仮にできたとしても、健常者が理解できる内容でも無いはずだ。
つまるところ、ファルヴ近郊に現れた超巨大な蜘蛛はあまりにもおぞましく禍々しく狂気に満ちていた。
周囲を睥睨する複眼に見られるだけで怖気が走り、今にもキチキチと叫び声が聞こえてきそう。意外とスムーズに地上を進んでくる様も不気味だ。
一目見ただけで全身が硬直し、わめき散らして逃げ出したくなる。ここにいる者は皆、それを意志の力で封じ込めているだけだ。
ヴァルトルーデとアルシア。神に仕える二人は、直感的にあの存在が冒涜的で神に反するもの。それが許されるだけの存在であることを知った。敵愾心と同時に、自らの卑小を思い知らされる。
エグザイルは本能的に彼我の力の差を感じ、期待と同時に死を意識した。死は恐ろしくない。ただ、無力故に死ぬことは怖かった。
ラーシアとヨナの二人からは普段の陽気さがなりを潜め、表情は青ざめていた。ヨナなど、アルシアに抱きついたまま離れようとしない。
ユウトは根源的な恐怖に囚われていた。得体の知れない存在への恐怖。深淵を覗き込んだかのような虚無感。
突然の吐き気に襲われたユウトは、それをこらえるのに精一杯だった。
「なんなのだ、あれは……」
「……クモだよね」
「クモだな……」
ヴァルトルーデのつぶやきに答えたのはラーシアとエグザイルだが、まともな言葉にはならない。当然だ、この場にいる全員の疑問なのだから。
「イグ・ヌス=ザド」
例外は、ただ一人。
憔悴した顔で、それでも多元大全のページを繰っている大魔術師――ユウトだった。
「巨大な蜘蛛の亜神。絶望の螺旋の眷属。その一柱――とされている」
「ということは、つまり……」
「ああ、間違いない。〝虚無の帳〟の生き残りだ」




