9.ムルグーシュ(後)
時を凍らせ、すべてを停止させる。
その理想をより完全で完璧なものとすべく、時の支配者となった“空絶”は戦斧を投擲した。自らの瞳の一部を宿す盲目の大司教へと。
巨大としか言いようのない戦斧が、あのか細い肉体を粉みじんにし、瞳を失った神は力を取り戻す。
――そのはずだった。
「その展開は読めてたぜ」
そう。それは分かっていた。
ユウトはムルグーシュ神の本質にたどり着いていた。だから、当然、対策を練っている。
人形のように動きが止まっていたユウトたちの肉体が黄金の霊気に包まれている。太陽神フェルミナの高貴なる霊気に。
ムルグーシュの地上代理人たるガーシュナーグに挑んだ際、魔力抑止の光線を受けた瞬間に割り込んで短距離の《瞬間移動》が発動するよう、特殊な儀式を行っていた。
フェルミナ神の加護も、理屈としてはそれと同じ。
ただ、効果を現したのが第九階梯の理術呪文《時間停止》なのは、やはり人の力の及ばぬ神業ゆえだ。
こうして、ムルグーシュ神の本質と《時間停止》が相殺し合う。
「《理力の弾丸》」
「《エレメンタル・バースト》――エンハンサー!」
それを事前に説明されていたわけではなかったが、理屈が分からなくとも危機を前にすれば体は動く。
霊気をまとったままのラーシアとヨナが迫り来る戦斧に攻撃を浴びせ、わずかに軸がぶれる。二人が稼いだ時間を利用し、ユウトはアルシアの前に立ち塞がった。
「《理力の棺》」
純粋魔力で構成された不可視の障壁が二人を包み、ムルグーシュ神の戦斧を阻む。
「……約束通りですね」
「もちろん。俺は、自分の得になる嘘しか吐かないよ」
嘘自体吐くんじゃないとヴァルトルーデが言ってきそうだったが、今は戦いに集中してもらおう。
「まあ、トラップから抜けたのはフェルミナ神の加護だからあんまり自慢はできないけど。あと、ごめん。《理力の棺》も、あんまり長く持たないかも知れない」
「では、後始末が私がしましょう」
ムルグーシュ神の悪意に、暴力に晒されても、もう、不安はない。
アルシアは、無意識にユウトの手を握って神へと祈りを捧げた。
「死と魔術の女神、慈悲深き貴婦人、世に理を示す御方よ! その敬虔なる信徒が願い奉る。悪しきものを討ち、善を知らしめる力を与えんことを――《奇跡》」
天上。
神の世界で呼び起こされる奇跡。
愛娘の願いに、トラス=シンク神は応えた。
純粋魔力の檻とせめぎ合っていたムルグーシュ神の戦斧が赤熱する。見えない炉にくべられたかのように、戦斧が溶けていった。
やがて戦斧は力を失い地面へ落下し、そのまま谷底へと滑り落ちていく。
均衡が破られた。
不変が崩れた。
「さあ、おっさん。惚けてる場合じゃあないぜ。この加護も、そんなに持たないしな」
「ああ。殴って壊れない物など、あるはずがなかったな」
エグザイルの全身に再び精気がみなぎり、いつもの無茶な理論が飛び出てくる。
「その通りです」
意外にも真っ先に賛成したのは、神王セネカ二世だった。
天上の冒険を経て染められた――というわけではない。
ただ、彼女は知ったのだ。
神ですら意図を覆され敗北するということを。
この世界に絶対も永遠も存在しないということを。
そして、人の身で神に勝利することも可能であるということを。
「我が神、太陽神フェルミナ。平和を愛し、人を慈しみ、弱きを守護する女神よ。ここに、偽りの平穏と安寧をもたらさんとするものあり。我に、其を討ち果たす力を与えたまえ――《奇跡》」
再び、天上に奇跡が舞い降りる。
その対象は、ムルグーシュ神の瞳。
天照らす光がひとつの柱となって、まぶたのようにわだかまる闇を討ち払い、瞳を灼熱が貫いた。
「Oooooooooo」
世のすべてを恨み、呪うかのような神の声。
「もう、その悪意は届かん」
熾天騎剣――炎のようにうねる、竜の牙とアダマンティンの複合の刃――を掲げたヘレノニアの聖女が、神の声を圧する美しい声音で告げる。
この身に加護がある。
最愛の人が、神を出し抜いて用意してくれた加護が。
トラス=シンク神の、フェルミナ神の奇跡が現出し、我が身にはヘレノニア神からの息吹が感じる。
この手に最高の剣があり、そして、誰一人欠けることなく仲間たちが揃っている。
相手がいかに強大な神であろうと、もう、敗北はあり得ない。
善と正義と勝利。
その象徴となったヴァルトルーデが、戦斧を一振り失った“空絶”の前に立ちはだかる。
「Teishiseyo」
――停止せよ。
だが、ムルグーシュ神は狡猾だった。
あるいは、最初からまともに相手をするつもりなどなかったのかも知れない。
フェルミナ神の加護はものの数分しか持続せぬと見切ると、定命の者たちから距離を取る。
憎たらしいほど妥当な判断は、しかし、大魔術師の予想を超えるものではなかった。
「地の宝珠よ、纏い、拘束せよ」
主語を省略し、短く、端的な命を下した。
手にした秘宝具が光を発し、峡谷全体を支配下に置く。ブルーワーズ東方リ・クトゥアで伝えられてきた秘宝具は、天上でも機能した。
崖が、谷底が崩れ、糸で釣られたように岩石が踊り、“空絶”ムルグーシュの足に腕に胴に首にまとわりつき、ドワーフ製の岩盤鎧を思わせる拘束具となる。
「Oooooooooo」
「ちっ、まだだ!」
なおも暴れ狂うムルグーシュ神を押さえつけるため、ユウトはさらに地の宝珠へ魔力を注ぐ。岩石の束縛はさらに分厚くなり、神をその場に留め置いた。
けれど、代償なしでとはいかない。
ユウトの額にドラゴンの鱗と角が生え――蜃気楼のように一瞬で消えた。
「ユウトッ!」
アルシアには見えなかったが、ただならぬ様子に悲鳴のような声を上げる。
「大丈夫」
リスクがあるのは分かっていた。
そして、それを犯さねば目的は果たせないことも。
傍らのアルシアを片手で制したユウトは、大きく息を吸い込んで声を限りに愛妻の名を呼んだ。
「ヴァルトルーデ!」
「任せろ!」
阿吽の呼吸とは、まさにこのことか。
愛する夫の声を背に、ヴァルトルーデが勇躍する。
「聖撃連舞――陸式」
ムルグーシュ神の岩石に覆われていないつるりとした顔を袈裟懸けに斬り裂き、下唇から顎、喉へかけて一刀。熾天騎剣を胸元へ突き刺し、刀身に流れる白隕鉄を巧みに操作し切れ味を最大化して鳩尾へ引き下ろす。そこからY字を描くように左右へ刃を振るう。
それは、一瞬のうちに行われた。常人では、始点と終点の視認も困難なまさに奥義。
「Oooooooooo」
しかし、それでもなお、神殺しには至らない。
苦悶をまき散らし、憎悪を振りまきながら、“空絶”は赤子のようにのたうち回る。
「充分だ」
それから距離を取るヴァルトルーデの口調に、残念さは感じられない。
充分。充分だ。ムルグーシュ神の力は殺いだ。今頃、フェルミナ神が地上へつながる次元の穴を処理してくれていることだろう。
そう。探索行は果たしたのだ。
それに――
「珍しく、オレがとどめをもらえそうだな」
「それは、まだ分からんぞ」
――仲間がいるのだから。
近接武器と分類されるにもかかわらず10メートル近く離れた距離からスパイク・フレイルが振るわれ、ヴァルトルーデを掠めて“空絶”を強かに打ち付ける。
「ルオオォッッッッッ!」
再び岩巨人の瞳に狂気が浮かび、鬼神の如く繰り出された連撃が神を後退りさせる。
「《理力の弾丸》」
「《エレメンタル・ミサイル》――エンハンサー!」
そこへ降り注ぐ、純粋魔力と超能力の矢玉。
三本の魔法の短杖をひとまとめにした《理力の弾丸》は、一振りで金貨数千枚の費用が発生するラーシアの奥の手。
ヨナも、度重なる全力での発動に、精神力が切れてへたり込んでしまう。
だが、まだ一押し足りない。
「アルシア姐さん」
「アルシア様」
《理力の棺》を解除したユウトとセネカ二世が背中を押し、死と魔術の女神の大司教が空を飛び眼下に意識を向ける。
瞳から光を奪った元凶。
悪の相を持ち、地上に様々な不幸を振りまいた存在。
ムルグーシュ神を前にしても、アルシアの心は不思議なほど静かだった。恨みも、憎しみもない。
それはきっと、彼女には大切な人たちがいるから。
そんな後ろ向きな感情を抱かずとも、幸せを感じているから。
「《光輝襲撃》」
神術呪文としては希少な。
そして、最大級の攻撃呪文が、“空絶”の瞳へ吸い込まれていき――大きく爆ぜた。
ついにその力に耐えかね、“空絶”ムルグーシュが内部から崩壊していく。全身の傷口から、半円のような巨大な口から、闇に覆われていた瞳から。
黄金の輝きが噴出し、物理的な圧力さえ伴う光が全方位へ放出され、地の宝珠で作った束縛も光の中に消え去った。
ユウトは、見たこともない超新星爆発を連想する。
その印象は、あながち間違いとも言えない。どちらも、長い長い時を経た生命の死の瞬間なのだから。
神が死んだ。
神にとって、死は終焉ではない。
民人の信仰心が、長い時が、必ず神を蘇らせる。
神を滅ぼすことは――絶対にではないが――不可能だ。
「だから、別人になってもらうことにした」
神の死という荘厳な光景を前に、ユウトのつぶやきは誰にも届かない。
ユウトも、この場の誰かに伝えたかったわけではない。
「ダクストゥム! 条件は満たしたぞ!」
伝えるべきは、悪神。
願いは、すでに伝えた。
それが叶えられるのを見守るだけ。
変化は、すぐに訪れた。
金色の光を放つムルグーシュ神の遺骸。
それが唐突に現れた闇に包まれ、だんだんと小さく圧縮されていく。光を飲み込み、逃さぬブラックホールのように。
「《輪廻転生》」
遠雷の様に響く神の声。
悪神ダクストゥムの秘跡が、死した“空絶”ムルグーシュを捕らえた。
今、ムルグーシュ神は復活する。
異なる性質を司る神として。
今、ムルグーシュ神は生まれ変わる。
生来、瞳を持たぬ無眼の神として。地底に、深海に住まう、瞳を持たぬモンスターたちの守護神として。
まだ力弱く、記憶も定かならねど。
新たな神が誕生した。
「というわけで、アルシア姐さんの魂に、ムルグーシュ神の瞳とやらはなくなった。というか、最初からそんなものはなかったことになったんだけど」
一柱の神が死に、生まれ変わった。
それよりもアルシアのことが大事だと、彼女の傍らへと飛行し、声をかける。
だが、その声は耳に入らない。
入ったとしても、理解が追いつかない。
これをすべて、たった一人のためにやったというのだ。それも、当然だろう。
「ユウト……くん……?」
そう、愛する婚約者の名を呼ぶのが精一杯。
ユウトは、そんなアルシアの手を握る。
そして、現実の改変こそ魔術師の本質。
そう言いたげに、ユウトはアルシアへと微笑みかけた。
明日のエピローグでEpisode 11終了です。




