8.報復と襲撃:インブルスタッド城
ヴェルガ帝国の西部。
森林地帯の一角に、獣人の王“彷徨戦鬼”バーグラーの居城があった。
森を切り開いて建設されたそのインブルスタッド城は、しかし、壮麗さとはほど遠い佇まいをしている。
城壁は必要充分ながら乱雑な積み方をされており、それで描く線もいびつ。たなびく戦旗は所々破れていて、半地下構造の城郭も見る者に不気味さを与える。
なにより、周囲に打たれた杭には、白骨化した死体がいくつも晒されていた。
それは、強者に勝った己を誇示し、敗者を讃える獣人の風習ではあるのだが、他の種族から見れば悪趣味この上ない。
その城の最奥。
傷だらけの玉座の間で、“彷徨戦鬼”バーグラーは一人、苦々しい表情で酒をあおっていた。
ドワーヴン・ビアーは苦みが強く、アルコール度数も高い。それはバーグラーの好みに合致していたが、今はその苦みばかりが強調され、忌々しさだけが募る。
その理由は単純だ。
ヴァルトルーデ・イスタス暗殺のため派遣した、選りすぐりの精鋭部隊から連絡が途絶え、もう一週間になる。別ルートからの情報も踏まえれば、壊滅したものと思って間違いないだろう。
麗しの女帝。赤毛の半神を弑し奉った憎きヘレノニアの聖女。
一足飛びにそれを殺害できると確信していたわけではないが、仲間の一人も殺せないとはふがいないにもほどがある。継承戦争の最中でなければ自ら出向いたものをと、“彷徨戦鬼”は手にした
ゴブレットを握りつぶしそうになった。
ヴェルガ帝国継承戦争。悪の半神がその死の間際に発した最後の命令。
女帝の命とあれば、アズール・スールだろうと黒ドワーフの長であろうと打ち砕いてみせよう。
だが、バーグラー自身、意外なことに当初は乗り気ではなかった。
女帝の死。それははらわたが煮えくり返るほどの悔しさと腹立たしさと憎しみをもたらした。
今まで一度も攻め込まれたことのないインブルスタッド城の玉座の間に穿たれた傷も、訃報に接して半狂乱となった彼がつけたものだ。
それほどまでにヴェルガを敬愛するバーグラーだったが、もっとも強き者を後継者とすると聞き、最初に思い浮かんだのは“天をも掴む”ボーンノヴォル。
あの“おじき”であれば素直に従えるし、それは他の諸種族の王も同じだと確信していた。
しかし、“おじき”は早々に後継者レースからドロップアウトしてしまう。
となれば、麗しき女帝の遺志は己が継ぐ他あるまい。地上に彼女好みの破壊と混沌を生み出し、最強と覇を唱え、女帝が再臨した暁には、労いの言葉を頂戴するのだ。
いや、もしかしたら、あのヴェルガから褒められるかも知れない。
それだけで、かつての同僚と戦う理由は充分だった。否、赤毛の半神が地上から姿を消した今となっては、ただの敵同士でしかない。
同時に、復讐は果たされなければならない。
だが、それは失敗だった。
あの獣人の精鋭部隊が失敗したというわけではない。
そう。どちらにも秋波を送るなどというのが間違いだったのだ。獲物はひとつにすべきだったのだ。少なくとも、この“彷徨戦鬼”バーグラーにとっては。
変に色気を出したのが悪かったが、もう、迷いはない。
ヴァルトルーデ・イスタスを、ユウト・アマクサを、その仲間たちを全力で潰す。
獣人たちは隠密行動に適性がある。総員を率いて塔壁を越え、ロートシルト王国を縦断し、イスタス侯爵領を蹂躙するのだ。
この屈辱を晴らすには、他に方法はない。
そう決意した瞬間、インブルスタッド城が揺れた。その震動は収まらず、半地下の玉座の間にまで悲鳴が聞こえてくる。
何事かと立ち上がったバーグラーの下に、部下が駆け込んでくる。
その報告を聞いた“彷徨戦鬼”は、怒声とともにゴブレットを地面に叩きつけた。
「おー。始まった、始まった」
インブルスタッド城から離れた森の一角で、草原の種族が花火でも眺めるかのように歓声を上げる。
けれど、今が夜だからといって、こんな場所で花火を打ち上げる人間はいない。
その爆発音だけであればあながち間違いではないが、この状況で歓呼の声を上げられるのは、やはり、ラーシアだからだろう。
ひとしきり堪能した後、視線を水平に戻す。
夜闇の向こうには、あばら屋と呼ぶに相応しい建物がいくつかと、それを見張る人影。彼らは、かがり火を焚いて周囲を警戒していた。
「さて、じゃあこっちも始めよっか」
そんな場所へ近づこうとしているというのに、緊張などどこにもない。完全に落ち着いた様子で森から忍び出て、不安そうに上空を眺めている手近な獣人の背後に取りついた。
ほんの数十センチ背後の盗賊に気づかず、歩哨に立ち続ける獣人。しかし、彼だけを責めるのは酷だろう。なにしろ、彼の同僚もまったく気づいていない。
むしろ、《透明化》の呪文も使わずにこれだけのことをやりとげるラーシアを称賛すべきだろう。
相手はまだ半獣半人形態になっていないため、なんの獣人かは分からない。変身後のことを考えてか、革鎧に長槍だけという軽装。
好都合だ。
ラーシアは短剣を抜き放つと、背後を取った獣人のベルト辺りを足場にして取りつき、左手で口を押さえて魔化された短剣を首に突き刺した。
「…………ぐっ」
断末魔の声も上げられず息絶える獣人。人間を超える耐久力も、当たれば草原の種族など粉砕してしまう筋力も、なんの意味もない。
「さあ、次」
素早く短剣を鞘にしまうと、今度はいつもの弓ではなく魔法の短杖を取り出した。
それを無造作ともいえる動作で振り下ろし、幾条かに分かれた光が闇のなか線を引くかのように他の獣人たちへと吸い込まれていく。
目やのど元、心臓などすべて急所へ。
「呪文なら、銀じゃないとダメとか関係ないしね」
急所を撃ち抜けばどんな武器だろうと関係ないのだが、そううそぶいたラーシアは、かがり火に照らされながらあばら屋のひとつへと近づいていく。
ヨナと下調べをして、ここが人間の奴隷たちが押し込まれている場所だと分かっている。
昼間は農作業などに駆り出されている彼らも、さすがに夜は休み。だから、作戦の決行はあえて獣人の時間である夜間を選んだ。
かがり火を消さなかったのも、この後、彼らを移動させるときに必要だから。
「三日も休みをもらっちゃったけど、ノルマは果たしたかな」
残りの敵は、上空の仲間たちに任せるしかない。
なかの人々に事情を説明し、落ち着いて指示に従ってもらえるよう説得するため、ラーシアは一番大きな建物へとわざと足音を立てて入っていった。
漆黒のスティールツリーが敷き詰められた次元航行船スペルライト号
の甲板。
そこで腕を組みながら仁王立ちするエグザイルは、しばし意識を戦場から過去の思い出へと飛ばしていた。
このスペルライト号は『忘却の大地』における古代の遺産であり、その当時は戦列艦と分類されている。片舷に数十門の大砲を備え、火力では他の艦種を圧倒する。
弾薬は船内で生産され、逆に言えばそれ以外で調達する方法は遺失しているのだが、蓄えは充分にあった。
獣人たちの手が届かぬ遙か上空から雨あられと砲弾を撃ち出し、インブルスタッド城を打ち砕いていく。怒号と悲鳴が、ここまで聞こえてきそうだ。
この程度できなければ、次元を越える危険な航海などできはしない。
その意味では当然の結果と言えるが、砲火に晒されるほうとしてはたまらない。
「エグザイルさま、昔を思い出しますわね」
「ああ。あのときも、ラーシアは単独行動だったな」
護衛の機甲人に囲まれた女王の言葉に、岩巨人が大きくうなずく。
ユウトが故郷へ帰ったあともこちらへ戻ってくる方法を探して訪れた『忘却の大地』での冒険。ラーシアとエグザイルの二人がエリザーベトを助けるため、彼女の叔父との決戦を挑んだときとよく似た状況だった。
ヴェルガ帝国の西。つまり敵地深くまで侵入しているにもかかわらずエリザーベトに緊張の色ひとつないのは、そのときの経験と無縁ではないはずだ。
当時は、この船に次元を越える能力があるとは知らなかったし、エリザーベトも可憐で儚げな少女だった。
今のように、なぜか満足そうにつやつやしてはいなかった。
決して。絶対に。
その変化が好ましいものなのかは、エグザイルに判断できない。だが、当事者が幸せなのであれば構わないのではないかとは思う。
彼女が帰国後に起こる騒動を考えると、顔なじみの大臣たちには同情を禁じ得ないが。
「しかし、考えてみれば、中心にユウトとヴァルトルーデがいるんだな」
彼らがいなければ『忘却の大地』へ行くことなどなく、エリザーベトと出会うこともなかった。
そして、彼らが結婚しなければ秘められし幻想の書を入手することもなく、エリザーベトが妙に嬉しそうにニコニコとつやつやすることもなかった。
「ええ。ですから、この程度で恩返しができるのであれば安いものです」
「まったくだな」
全面的に同意しつつ、腕組みを解いた。そして、胸につけた記章を眺めやる。
そろそろ、頃合いだろう。
「片を付けてくる」
「ご武運を」
岩巨人の背中に女王の真摯な祈りが捧げられる。
それを受けたエグザイルは、巨体にそぐわぬ軽快な動作で甲板から飛び降りた。
考えるまでもなく地上に激突するような高度だが、もちろん、そんなことにはならない。龍鱗の鎧に取り付けていた白い翼を象った記章が光を放ち、《浮遊》の呪文と同等の効果を発揮して怪我ひとつなく足から地面に着地する。
インブルスタッド城の城門前。絶好の位置だ。
だが、完全に勢いを殺すことはできず、砲弾さながらの威力と迫力で獣人たちの耳目を一身に集めることにもなった。使い捨てで、金貨500枚もする魔法具のわりに低性能と思わなくもないが、ユウトもヨナも別件で行動を別にしているのだから仕方がない。
それに、早くも本命が釣れた。
城門の向こうから現れたのは、細身だが鋼のように鍛えられた長身の男。黒いたてがみのような長髪をなびかせ、射殺すような鋭い視線を注いでいる。
犬歯をむき出しにし、凶悪に笑う男。
一目で分かった。
あれが、諸種族の王が一人、“彷徨戦鬼”バーグラーだと。
恐怖か歓喜か。どちらとも判別の付かない感情がエグザイルの背筋を震わす。
「てめえが岩巨人の長か」
「エグザイルだ」
油断なくスパイク・フレイルと自律稼働する大盾を構えながら、“彷徨戦鬼”を見据える。他の獣人たちなど、文字通りの意味で、もはや眼中にない。
「オレが勝ったら、こちらへの手出しは金輪際止めてもらう」
「ほう。これだけ舐めた真似しといてか。逆に、こちらが勝てばどうなる?」
「オレの命では不足か?」
「はっ――」
バーグラーの体が膨らむ。
まだ変身はしていない。
だからそれは錯覚。内包する戦意と殺意のなせる技。
「充分だぜっ」
一目で分かる、あの岩巨人は強者だと。
ヴァルトルーデ・イスタスとユウト・アマクサにだけ気を取られ、あんな男を見落としていたなど、不明を恥じるほかない。
降って湧いた好敵手の存在に、バーグラーの心が躍る。
その感情のまま、大地に手を突き、その瞬間、矢のような勢いで飛び出した。
四足で大地を駆け、夜闇を切り裂く。
バーグラーの肉体が、瞬時に変貌を遂げた。
体躯は元の二倍、否、三倍にまで膨張し、みっしりと筋肉が詰まっている。闇と同化する漆黒の毛皮は堅固な鎧となり、丸太のように太い腕とかすっただけでも致命傷を与える十本の鉤爪は死の象徴と呼ぶにふさわしい。
長く伸びた口には鋭い牙が並び、人間など一咬みで骨まで砕いてしまうだろう。
人狼と聞き、誰もが思い浮かべる姿そのものだ。
そして、悪夢の具現化。
それを見て、エグザイルは満足げにうなずいた。
勝負は一瞬で付く。
その共通認識が両者で形成される。それは予想でも願望でもなく確信だった。
一陣の風となった人狼が、人の反射速度を超えた跳躍を見せる。スパイク・フレイルで足を払うことも、自律する盾で身を守ることも叶わない。
“彷徨戦鬼”が矢のような勢いで岩巨人へと飛びかかり、暴風のように暴れ回って両腕を振るう。
そしてそれは、鮮血の嵐となった。
一呼吸で五度は振るわれた猛攻に、エグザイルの上半身は血塗れ。周囲を取り囲む獣人たちから王を讃える歓声が上がる。
致命傷だと、バーグラーは離れようとし――その太い足が万力のような握力で掴まれた。
半獣半人。文字通りモンスターと呼ぶべき人狼の王が怪物に遭遇したかのような目で岩巨人を見る。
笑っていた。
エグザイルは笑っていた、歓喜で。
やはり、戦いはこうでなくてはならない。
イグ・ヌス=ザドもタラスクスも悪くはなかったが、所詮モンスター。
意志――殺意が足りない。
その意味では、バーグラーの乱撃は素晴らしかった。直感で回避し、すんでのところで致命傷を避けるなど、いつ以来のことか。熱い戦場の息吹を感じ、昂ぶってしまった。
「バケモンかよっ!」
「そうでなくては、悪の半神に楯突こうなどとは思わんだろう」
当たり前のことを聞くなと、エグザイルは人狼の王を地面に叩きつけた。
「ぐっ」
巨人が振るう棍棒同然の扱いを受けたバーグラーだが、分厚い毛皮に覆われているため軽傷すら負っていない。
それも当然。
「今度は、こちらの番だな」
本格的な攻撃は、これからなのだから。
投げ捨てるようにバーグラーをインブルスタッド城の石壁にぶつけると、間を置かずスパイク・フレイルで追撃。
錨のような武器、いや、凶器で打ち据える。
周囲の獣人たちが、悲鳴にも似た声を上げた。
「おおおっっ」
その反動で浮き上がったところを怪力で無理やり制御し、今度はその先端を腹筋に突き刺した。
チャンスだ。
人狼の王はスパイク・フレイルを掴み、さらに深く突き入れた。獣人特有の再生能力と相まって、用意には抜けなくなったはず。武器を捕縛したのと同じ状態だ。
「どうした、もう終わりかよ?」
「そのまま持っていろ」
だが、目論見は外れる。
抜けなくなったのを幸いと、両腕でスパイク・フレイルを大きく持ち上げる。鎖が大きくしなり、半獣半人形態のバーグラーを釣り上げ――再び地面へ叩きつけた。
「ぐはっ」
骨が折れ、内臓が傷つき血反吐をはく。
いや、まだその程度で済んでいる時点で特筆に値する。
けれど、それが勝利につながることはなかった。
ずるっと抜けたスパイク・フレイルが中空を踊り、それが意思ある生き物のように動いたかと思うと、追加で二回、強かに打ち付けられる。
岩巨人の長が全力で振るった強打。
スパイク・フレイルを持ち出してから、バーグラーと同じ合計五発の攻撃。
その結果、エグザイルは仁王立ちし、“彷徨戦鬼”は襤褸のようになっている。
周囲の獣人たちは、もう、声も出ない。完全に圧倒されている。
「良い……ぜ。手前らへの復讐は……後継者に……なってからだ……」
「楽しみに待とう」
バーグラーを生かしておくというのはユウトの戦略的な指示だったが、そんな意図とは別に、エグザイルも全面的に同意だった。
何年後かは分からないが、次が楽しみという言葉に嘘はない。
こうしてひとつの決着を迎え――もうひとつの決着が付こうとしていた。
ムルグーシュを崇めるものたちの総本山で。




