1.いつも通りで
「心配をかけたわね」
皆が集まる食堂兼会議室。
長方形のテーブルが中心に設置されたその部屋へ、最後に入ってきたアルシアは微笑みを浮かべていた。
「大丈夫……なの?」
「ええ、すっかり」
立ち上がって出迎えるアカネへ、慈母のような表情で答える。
アルシアの元気そうな様子を見て、来訪者の少女はほっと胸を撫で下ろす。
その場にはいなかったが、モンスターに襲われ調子を崩したと聞いていた。元々、大したことはなかったのか。それとも回復したのか分からないが、とにかくいつも通りのようだ。
「二人で慰めたから、ばっちり」
「ヨナ、そこんとこ詳しく」
平坦な声だが得意げに言うアルビノの少女に草原の種族が食いついた。一人は、ヨナで間違いない。
となれば、もう一人はユウトでこれまた間違いないはずだ。
「ヨナ?」
しかし、それはただの一言で制されてしまった。先ほどまで慈母のような表情を浮かべていた。いや、今でも変わらず慈愛に満ちた笑顔を浮かべているアルシアによって。
「すっかりいつも通りだな」
彼女が定位置――ヴァルトルーデの左隣――に座るのを見届けたエグザイルが、そうまとめた。これには、アルシア本人も反論できない。
「さて、集まってもらったのは他でもない」
全員が揃ったことを見届け、ヴァルトルーデが議題を説明しようとする。アルシアが本調子を取り戻した理由を気にした様子はない。
それも当然。ユウトを送り出したのは他ならぬ彼女なのだから。これは意図したとおりの結果。問題はない。ただ、アルシアが思っていた以上に回復しているのは想定外だったが。なにも問題はない……はずだ。
「例の獣人の件だね」
「うむ。ユウト」
ラーシアからの問いを受け、聖堂騎士は愛する夫へと丸投げする。
いつも通りの光景だ。アカネですら、もはや疑問も抱かない。
「まあ、獣人の件と言ってもふたつあるんだけど……。まずは簡単なほうからにするか」
指名を受けて立ち上がったユウトは仲間たちを見回し、なんら気負った様子もなく口を開く。
「“彷徨戦鬼”バーグラーから刺客を差し向けられた件に関しては、きっちりと報復する」
「また、島を落とす?」
遊びに連れていってもらえると聞いた子供のようにワクワクと確認するアルビノの少女へ、大魔術師は首を振った。
「いや、今回はもうちょっと直接的にだ」
より、ヨナが喜ぶような意味で。
「ヴェルガ帝国には人間の奴隷がいるという話は聞いてると思うけど、報復としてバーグラーのところにいる奴隷を解放して、適当に攻撃呪文を撃ち込もうと思う」
ユウトにしては過激な内容を、近所を散歩しにいくような気安さで宣言した。
「それ、大丈夫なの?」
アカネが確認したのは、実行可能かという意味でも、ましてや、そんなことをして危険はないのかという意味ではない。
単純に、勝手にそんなことをして怒られないのかという意味だった。たまに忘れそうになるが、ヴァルトルーデはイスタス侯爵。つまり、王となったアルサスの臣下なのだ。
「勝手に余所の国を攻撃したら、怒られたりしないの?」
「勝手にはしないし、まだ相談もしてないけど、了解は得られると思うよ。なにせ、似たようなことは他でも起こり得るからな」
「そうなったら収拾するのが大変そうだね」
「ラーシアが言うと、実に説得力があるなぁ。今回の作戦の責任者だもんな」
「あははははは」
「はははははは」
「笑い事ではないだろう……?」
ヴァルトルーデの常識的な意見も、ユウトとラーシアには届かない。
獣化病をばらまかれた場合、被害者を出さずに済ますのがどれだけ困難かよく分かっているから。
「そのときがきたら、がんばる」
「うむ。そうだな」
すべてはヴァルトルーデとユウトの命令次第と、地空の最終兵器はうなずき合った。
過激だしこれで良いのかという思いはあるものの、アルシアも苦笑を浮かべるだけでなにも言わない。
「分かったわ。それで、もうひとつっていうのは……」
「ああ……」
隣に座る幼なじみを一瞥してから、ユウトはおもむろに口を開く。
「アルシア姐さんが狙われた件だ」
「……やっぱり、アルシアさんが狙われたのは確定なの?」
「状況からして、そうでしょうね」
アカネの反論――というよりは、そう出なければいいという思い――を、他でもないアルシア自身が否定した。
無理をしている様子はない。淡々と、事実を認めるような声音。やはり、表情は真紅の眼帯に隠れてよく分からない。
「でも、理由が分からないと状況証拠でしかないよね?」
「ユウト、アルシア。そこは、どうなんだ?」
ラーシアのもっともな指摘に、ヴァルトルーデが乗っかった。やはり、アカネ同様できれば違っていてほしいという思いがあるのだろう。
「いかなる神術呪文を用いても回復しなかった私の目と、太陽神に瞳を灼かれた伝承を持つ“空絶”ムルグーシュの狂信者が無関係とは言えないのではない?」
「今のところは、推測でしかないけどな」
アルシアの言葉だけであれば短絡的すぎると――効果的かは別にして――反論もできただろうが、ユウトにそうフォローされてはなにも言えない。
「まあ、まだ調べ切れてないから確定ではないけれど……」
ユウトは、さらに言葉を重ねた。
「アルシア姐さんが狙われているのが確定して、敵の居所が判明したら、そのときは――」
そこから先は、言う必要もない。
ヴァルトルーデは無言で熾天騎剣を握り、エグザイルは大きくうなずき、ラーシアとヨナは期待に爛々と目を輝かす。
アカネがまだ見ぬ敵に同情しかけているのをアルシアが感じて苦笑を浮かべ、方針は決定された。
とはいえ、それで仕事が消えるわけでない。
「『俺の女に手を出したら潰す』と啖呵を切ったのに、現実は残酷だな」
「朱音ならともかく、まさかヴァルにそんなことを言われるとは……」
執務室へと移動したユウトが、次の地球――というよりは賢哲会議――との取引に関する書類を作っている手を止めた。そう言うヴァルトルーデも書類の決裁――サインするだけだが――は、しっかり残っている。
ユウトは、少し離れた場所で同じようにデスクワークに励む愛妻へ視線を向けた。
なお、脳内で幼なじみが「どういう意味よ」と抗議をしていたが、「そういう意味だよ」と一言で片付けた。
「単に、決意はしても現実は厳しいのだなと思っただけだ」
他意はなかったと一言つぶやき、ヴァルトルーデは仕事に戻った。苦手だが、だからといって怠けることなど考えない。
生真面目な聖堂騎士らしさに、思わず笑みをもらす。
だが、その笑顔もすぐに引っ込んでしまった。
「ただ、アルシアが妙に浮かれていたのが気になったとか、そういうこともない」
ユウトは、自分の耳を疑った。
嫉妬。
ヘレノニアの聖女からは縁遠いと思われる感情に晒されるなど、想像もしない。ユウトは本格的に仕事の手を止めた。どちらが重要かなど、考える必要もない。
「それに、結婚式から一年は優先的に構ってもらえるという話だったのだから、ムルグーシュ神も少しは配慮すべきだろうと思ってはいない」
「そんな約束してたのかよ……」
前後の文脈がおかしくなったような気もするが、それは些細なことだろう。愛妻と婚約者たちの間でどんな話をしているのか確認しなければ。
もう、仕事どころではない。
ペンを放り出したユウトは、足音も立てずにヴァルトルーデへと近づいていく。
「そうは言っても、アルシア姐さんをないがしろにしたら怒るだろう?」
「あたりまえ――」
最後まで言わせず、不意打ちで唇をふさいだ。
世界広しと言えども、彼女相手に奇襲を成功させられるのは彼ぐらいのものだろう。
「その協定については詳しく聞きたいところだけど、俺の一番はヴァルだよ」
「これでは、催促したようではないか……」
そう頬を膨らませながら言うものの、崩れる相好は隠しようがない。
(なぜ、俺のお嫁さんはこんなに可愛いのか)
歴史上の偉大な哲学者ですら答えを出せなかった命題に挑みながら、ユウトは自分の机に戻る。恥ずかしそうにうつむいているヘレノニアの聖女を見れば、詳しい話は聞けそうにないのは明らかだった。
だが、こちらもすぐにモードを切り替えられない。
賢哲会議との――というよりは、真名との――取引のほかにも、エリザーベトとの交易の準備も、神々の台座の整備もある。
もちろん、日々の通常業務も。
けれど気乗りしないときというのはあるもので、多元大全を取り出して調べ物を始めてしまった。
ムルグーシュについては、既に調べてある。
今度は因縁のある太陽神フェルミナからアプローチしようとしたのだが、残念ながら新しい情報は得られなかった。
そもそも、ムルグーシュがなぜ太陽にその神秘の力を停止させる瞳を向けたのかも分からない。
世界を闇に閉ざす。
それは確かに悪の相を持つ神の行状としては納得できるものがある。
だが、それだけだろうか?
悪の相を持つとはいえ、世界の破滅までは望まない。絶望の螺旋とは本質的に違うのだ。
神々の行動は、自らが司るものを世界に広めることを至上とする。
ヘレノニア神であれば正義、ダクストゥム神であれば悪、リィヤ神は美と芸術。もちろん、草原の種族の守護神タイロンのような例外もあるが。
単純に自らのイデオロギーを広めるためと考えれば、人間の行いと規模が違うだけで、本質的には変わりがない。
闇はネルラ神が司る。
もちろん、ムルグーシュ神が目的としてはならないものではないが……。
「まだ、その段階に達してないってことなんだろうな」
その者が知りうる知識を紙面に映し出す多元大全といえども、万能ではない。隠された秘密にまでアクセスするには、それなりの手がかりが必要だ。
ユウトは頭を振って気分を入れ替え、多元大全を仕舞い込む。
まずは、目の前の仕事を片付けねばならない。そうしなければ、せっかくスカウトしてきた新戦力を迎え入れることもできないのだから。




