プロローグ
本日より連載再開します。
Episode10は、短め&日常話メインになる予定です。
ヴァルトルーデの意識が、緩やかに覚醒していく。
ふわふわとした、境界線上にいる感覚。
鐘の音が遠くから聞こえてきたような気もするが、傍らから伝わってくる熱に上書きされてしまった。
よほど深い眠りだったのだろう。まるで、激しい運動をした翌朝のように爽快な目覚めだ。
「……む。何時だ?」
快いまどろみを楽しんでいた彼女の目がぱちりと開く。
いつものように颯爽と身を起こし―― 一糸まとわぬ姿でいることに気づいた。
胸から下の部分は白い敷布で隠されているが、逆に言えば、真っ白いうなじから艶めかしい鎖骨までは露わになっているということ。
そこに手をやれば、必然的に昨晩の記憶が蘇ってきた。
彼女の天使よりも秀麗な美貌が赤く染まり、純白の肌に色気が宿る。それを誤魔化すように、なだらかな――あるいはささやかな――胸から腹へと手を移動させ、慈しむように撫でた。
とにかく、昨夜のそれは衝撃的な初体験だった。
感想は様々だが、だからこそ、その一言に集約される。
同時に、満ち足りてもいた。それゆえにかどうかは分からないが、ユウト――つまり夫――と初夜を過ごしたあと、そのまま寝てしまったらしい。
多少理性が残っていたとしても、秋も深まりつつある時期とはいえ、あのあと服を着る気になったかは疑問の残るところだが。
先ほどの鐘の音は、知識神ゼラスが創造した時計台からのものだろう。その妻である死と魔術の女神トラス=シンクの言う通り、イスタス侯爵領の東の端まで届いていた。
けれど、鐘の数をカウントしていなかったため、何時なのかは分からない。カーテン越しに見える日の光を見ると、かなり寝坊をしてしまったようだ。
「ユウト」
昨日は朝から夜まで本当に大変だった。
だから、それがたとえ愛しい人の声であっても、名前を呼ばれた程度では目覚める気配はない。若いからといっても、疲労はたまる。いや、今の疲労は若いからこそか。
大魔術師は、妻と同じ布団のなかで無防備な寝顔を晒している。
大きな特徴があるというわけではないが、いつもはきりっと引き締まった――と、ヴァルトルーデには見える――表情も、今は幸せそうに弛緩していた。
それがたまらなく嬉しい。
自分でもよく分からない感情に突き動かされて、ヴァルトルーデはユウトの顔を指で突いた。最初は軽く、次第に、大胆に。
「ははは」
なにがおかしいのか、さっぱり分からない。
どこか、変になっているのではないか。
そう思わないでもないが、それが悪いとも思わなかった。
やがてヴァルトルーデは指を引っ込め、代わりにぐっと顔を近づけた。
すやすやと眠るユウト。自然と、胸の奥から愛おしさがこみ上げてくる。
彼の黒髪を撫で、横からさらに顔を近づけた。
唇が触れる。
――その寸前、ユウトが目覚めた。
寝起き特有のとろんとした眼差し。現実を理解するまでのタイムラグ。目の前の事態を咀嚼するまで数十秒。
それが経過してから、おもむろに口を開いた。
「夢から覚めたら、夢が続いていた」
「どんな夢を見ていたのだ」
「言い直そう。幸せな夢から覚めたら、もっと幸せな現実があったというところかな。って、なに言ってるんだ、俺は。寝起きは駄目だな」
「たまには悪くないと思うぞ」
「そうかな? ところで、どうするの? 止めるの?」
「まさか」
気を取り直し、ヴァルトルーデがくちづけをする。
ユウトは肩を抱き、起き抜けにその熱い感触を堪能した。
終わりそうにない朝の挨拶を中断させたのは、可愛らしく鳴いた腹の虫だった。
それで我に返り、恥ずかしがるヴァルトルーデをユウトが組み伏せ、もう一度そのタイミングで自己主張した空腹に目を見合わせ、今は台所にいる。
案の定、きちんと食材が用意されていた。
新婚休暇は三日間。
その間は外に出るんじゃないぞと言われているかのような量だ。
「さあて、調理は私に任せてもらおうか」
「そういえば、ヴァルの料理って憶えがないな……」
冒険者時代――今でも、割とそのつもりだが――は、アルシアが調理担当だった。もっとも、その後はアルシアの担当でも神術呪文へとシフトしていくのだが。
とにかく、ヴァルトルーデに関しては野生動物を捌いているところぐらいしか見たことがない。
「心配するな。パンはすでに焼いてあるからな。最悪、飢えることはない」
「それで心配するなというのは、無理がないか?」
実のところ心配などしていなかったのだが、その一言で一気に不安が押し寄せる。とはいえ、ユウトも料理経験は調理実習程度のもの。強くは言えない。
それでも、「夫婦で作るのも新婚っぽくない?」と提案したものの、ヴァルトルーデには首を傾げられてしまった。どうやら、ブルーワーズには、そういう風習はないらしい。
(いや、日本にもあるのかは分からないけど)
時代や個人によって違うだろうし、まさか両親にアンケートもできない。そのため、ユウトは大人しく待つことしかできなかった。
そして、一時間ほど。
恐らく賄いを食べるためだろう台所に隣接したスペースで、新婚夫婦は向かい合った。卓上には、新妻が腕を振るった料理が並べられている。
「見た目は普通だ」
「……ユウトのなかで、私はどういう位置づけなのだ」
「俺の故郷には、適材適所という言葉があるんだが……」
「大丈夫だ。隠し味も入れていないし、変なアレンジもしていない。普通によく見る料理を目指したからな」
ユウトに自分なりの料理を食べてほしいという欲求もあったが、アルシアやアカネに口を酸っぱくして普通で良いと言われていた。
彼は、婚約者たちにも感謝すべきだろう。
まずは井戸で汲んできた水で舌を湿らせ、パンへと手を伸ばす。
日持ちを優先した硬いパンだが、スープに浸せば問題ない。
「おお、美味い」
「そうだろう、そうだろう」
空腹や愛妻の料理であるという補正は否定できないが、ポトフ風のスープは滋味に富み充分満足できる。
肉が多めで野菜が不揃いなのは愛嬌だ。
それに、よく考えれば不安に思う方がおかしい。
他のメニューはといえば、大量のゆで卵やほどよく焦げ目の付いたソーセージなど。火加減と調理時間さえ間違えなければ失敗しようがない。
二人とも、若く旺盛な食欲を存分に満たしていく。
そこには、新婚夫婦の甘い蜜月などという幻想は存在しなかった。
しかし、満たされれば冷静になるもの。
あと三日はここに二人きりで滞在する。その間、ずっとこんな献立では……。
(夜からは俺も手伝おう。パスタぐらいなら、できる……はず)
そう決意するユウトだった。
遅めの朝食を摂ったあと、二人は運動に勤しんだ。
「さあ、ユウト来い。遠慮は無用だぞ」
「遠慮なんかしたことない……よッ」
両手を広げてユウトを招き入れるヴァルトルーデへ、遠慮なく突っかかっていった。二人の距離が一気に縮まり、青い空に金属が打ち合わされる甲高い音が響く。
「足を狙ったのは良いが、甘いな。力も場所も速度も」
「無茶言うな」
長剣で聖堂騎士の足首を狙った一撃は、あっさりと受け止められた。
かわすことも可能だったが、そうしなかったのはレクチャーのためだろう。
「とはいえ、私やエグザイルの戦いを見てきたからだろうな。魔術師とは思えないほど鋭い攻撃だ」
「ほめられている気がしない」
「素直に受け取るべきだぞ」
今度は、ヴァルトルーデが攻める。
頭頂、首筋、胸元。
さりげなく急所に攻撃をばらまきながら、ユウトを追い詰めていった。機嫌良く、鼻歌交じりに。
そんな態度ではユウトがお世辞だと言うのはもっともだが、実のところ、彼の動きはそれほど悪くはない。
純粋に地力だけで言えば、アレーナには劣るだろうが、ヘレノニア神殿の神官戦士と比較しても遜色ない腕前は持っているはずだ。
しかし、地力に精神的な要素も組み合わさって実力となる。
その意味では、まだユウトには刃に身を晒す覚悟が足りない。簡単に言えば、腰が退けている。加えて、自分がまともに剣を使えるはずがないという思い込み。
それが、実力を発揮できない要素となっていた。
せっかくの機会だからと半分無理やり訓練へ引っ張り出したが、一朝一夕ではどうにもなりそうにない。
なにか目標でもあれば別なのだろうが……。
そう考え事をしていても、ユウトに手傷を負わせることはない。
それでいて的確に追い詰めていくのだから、彼としてはたまったものではなかった。
数分後、息も絶え絶えに地面に横たわる大魔術師の姿がそこにはあった。
(目標……か)
ふと思いつくことがあり、ヴァルトルーデは深く考えず、“ニンジン”を口に出す。
「私から一本取れたら、このあと一緒に温泉に――」
「さあ、次だ。呪文はありか? ありだろ?」
「なしに決まっているだろう」
その豹変振りに呆れるが、まあ、求められるのは悪い気分ではない。一石二鳥とでもいえばいいのだろうか。
こうして、日が暮れるまで二人は温泉旅館の庭で剣を合わせた。
二人が知る草原の種族が知ったら、「新婚夫婦のやることか!」と、説教を始めそうだが、温泉へは一緒に入ったようなので問題はないはずだ。
しばらくは、こんな平和な日常が送れることだろう。
そのことを、ユウトは神にではなく仲間たちに感謝した。




