4.奈落の聖堂騎士
「……朝か」
その日、ヴァルトルーデは日の出とともに目を醒ました。
完全な覚醒。
元々寝起きは良いほうだったが、その彼女でも滅多にないほどさわやかな目覚め。ぱちりと開いた宝玉よりも美しい瞳は、ヘレノニア神殿の天井を映している。
冒険者として旅から旅の生活が長かったヴァルトルーデが、いつもの部屋でないからと違和感を憶えるはずもない。
初めて使用した神殿長室のベッドであっても、必要充分な睡眠は取れていた。
ゆっくりと身を起こした聖堂騎士がベッドから出ようとして、その視線と一緒に動きが止まる。
「あれを着るのか……」
てっきり、アルシアやアカネが用意しているものだと思っていた花嫁衣装。採寸も衣装合わせも仕立て直しもないのは不思議だったのだが、昨日すべての疑問が氷解した。
その通り、氷解はしたのだ。まさか、アルシアの懇願に応じたトラス=シンク神が秘跡により創造されるとは思いもしなかっただけで。
部屋の片隅に鎮座する純白の花嫁衣装は、ユウトやアカネがよく知るウェディングドレスだった。つまり、ユーディットの他にこのタイプのドレスを身につけた者はいない。
全体的に光沢がありふんわりとしたシルエット。さざなみのように広がる繊細なレースは白薔薇を思わせ、溜息が出るほど美しい。
円形にふんわりと広がる引き裾も、贅沢の一言。
神の手によるとはいえ、魔法的に特殊な力があるというわけではない。
しかし、素材も仕立ても、まさに神業。
そしてなにより、ヴァルトルーデによく似合っていた。その美しさにより、ほとんどの衣服や装飾品を従えてしまう彼女にとって、その美麗さを倍加させるデザインは非常に限られる。
想像以上に。いや、想像もしたこともない美しいドレスを目にして、死と魔術の女神に頭を垂れて心からの感謝を伝えた。
「しかし、動けないな、これは」
「新婦がヴァルの基準で動く必要はありません」
そうアルシアから切り捨てられる一幕もあったが、照れ隠し。試着した己の姿を見て、それをユウトに見られるところを想像して、頬どころか首元まで真っ赤に染めた。
これには、同性であるアカネすらも見惚れてしまった。
改めて、しげしげとそのドレスを見やる。
子供の頃オズリック村で見た花嫁衣装を思い出してしまった。ちょっと上等な服に、花嫁やその母親が編んだレースで飾っただけ。生地も仕立てもなにもかも比較にならないはずだ。
それでも脳裏に浮かんだのは、その本質が同じだからだろう。
門出を祝い、幸せを祈るその本来の姿と。
「どうもいかんな」
自分らしくない発想だと、ヴァルトルーデは首をひねる。
考えなしは良くないが、考えすぎるのはもっと良くない。少なくとも、自分のスタイルではない。自分らしさを失うと、とんでもない失敗を犯してしまいかねない。
それで迷惑を被るのが自分だけなら良い。だが、今日はユウトもその両親も、オズリック村からゼインも、そしてアルシアやアカネたちもいる。
大事な人たちに恥をかかせるわけにはいかなかった。
「落ち着け、ヴァルトルーデ」
そうつぶやいてから、頬をぴしゃりと叩いて立ち上がる。そのまま窓際へと移動し、カーテンを開いた。まだ夜は完全に明けきっておらず、ほの昏い。
新鮮な空気に触れようと玻璃鉄の窓ガラスに手をかけたところで、室内にノックの音が響いた。
「ヴァルトルーデ様、禊の準備が整ったであります」
「ありがとう」
アレーナへ簡単に謝意を伝えてから、ヴァルトルーデは着替えを取りにベッドへと戻る。
これから彼女は身を清め、神に祈りを捧げ、婚姻の儀式へと臨む。それまで、ユウトと顔を合わせることはない。それどころか、ここ数日、夫となる彼とは言葉を交わしてもいなかった。
忙しさは理解しているが、寂しくないと言ったら嘘になる。
けれど、それでナーバスになるほど柔ではない。そう熾天騎剣を握れば、彼の存在が感じられる。
それに、今日を無事に過ごせば問題は解決だ。
そう気を取り直して寝衣に手をかけたその瞬間、建物全体に揺れを感じた。
「地震か?」
それなりに強い揺れだったがバランスを崩すことなく、静かに収まるのを待つ。ただ、珍しく眉間にしわを寄せ――それでも美しさは損なわれないが――厳しい表情を浮かべていた。
地震は、一分も待たずに収まる。
しかし、ヴァルトルーデは緊張を解かなかった。
ファルヴに居を移してから一度も、地震が起こったことはない。
そして、このブルーワーズでは、珍しいというだけで済ますわけにはいかなかった。昆虫人のように地下を蠢く怪物も数多い。タラスクスのような存在も、歩くだけで地震ぐらい起こせるだろう。
「外も暗くなっているようだな……」
なにかが起こっている。
着替えるよりも先に熾天騎剣を手にしたヴァルトルーデだったが、その瞬間に異変を確信した。
一瞬、泣き出しそうに表情を歪めるものの、すぐに唇を引き結び、寝衣のまま扉を開ける。
「アレーナ! 誰かいるか!」
「ヴァルトルーデ様! 外が!」
「分かっている。済まないが、状況を確認してくれ。まず、神殿のなかに誰が残っているのか。そして、外がどうなっているのか。外に関しては、危険を冒す必要はない」
「りょ、了解であります。それで、ヴァルトルーデ様は?」
「まず、着替えてくる」
「あ、そうでありますね」
アレーナが毒気を抜かれたようにうなずく。緊張感を持つのは重要だが、緊張しているだけでは意味がない。
適度にほぐれたらしい彼女が、まずは神殿に残る人員を確認するため走り出す。
「さて、トラブルには慣れているが……」
なにも、大事な日に騒動に見舞われることはないだろうと溜息が出てしまう。ユウトに、みんなに心配をかけていることも口惜しい思いがする。
そう。トラブルは確定だ。
なにしろ、状態感知の指輪で感じるユウトの位置がとてつもなく遠い。物理的な距離だけではない。
まるで、世界を隔てているようだ。
儀式用の祭服ではなく魔法銀の鎧を装着しながら、ヴァルトルーデは考えていた。
想像通りであれば、実に難しい事態に放り込まれたことになる。
「た、大変であります!」
「どうだった?」
最後に籠手と一体化した大盾を調整していたところ、アレーナ・ノースティンが息せき切って飛び込んできた。
「外がファルヴではないであります」
「……そうか。それで、神殿のなかの人員はどうなっている?」
「はっ、はい。本日神殿内に詰めていた35名すべて揃っているであります」
「怪我もないか?」
「もちろんであります」
ヴァルトルーデはほっと一息吐いた。最悪の事態は免れていたようだ。
とりあえず、今は。
「それでその、外を偵察に行かせたのでありますが――」
「食い止めろッ!」
「穢させるなッ!」
アレーナの報告を中断させる怒号が外から響く。
「ヴァルトルーデ様!」
すでに武装を整えていたヘレノニアの聖女が、制止を振り切って駆けだした。板金鎧を身につけているとは思えない速度で、神殿の入り口へとたどり着く。
そこは、既に戦場だった。
鼻先から二本の角を生やした犀のような頭部を持つ二足歩行の怪物が、たった一体で神殿の入り口を塞いでいる。
そして、天井に届こうかというほど高く両手用戦斧を振り上げ、一撃で肉体を命を狩り取ろうとする。
「退けっ」
「は、はいっ」
必死に長剣を振るっていた神官たちを脇にどけ、敵の存在を確認したヴァルトルーデは走り抜けながら熾天騎剣の柄に手をかけた。
「選定」
合言葉を唱えると同時に、あの怪物に相応しい効果を決定する。
「グオオゥッッッ」
「その程度か? 私には、貴様よりも怪力を誇る仲間がいるぞ」
左腕に構えた盾で、戦斧の一撃をがっちりと受け止める。この建物毎両断するかと思われた一撃は、美しき聖堂騎士をよろめかせることもできない。
そして、一閃。
フランベルジュという抜剣し難い刃は、しかし、滑るように玻璃鉄の鞘から姿を現し怪物の胴を薙いだ。
剣身の内部を流れる白隕鉄がバランスを調整し、インパクトの瞬間に熾天騎剣が最大の破壊力を発揮するように重量が変わる。
もちろん、それだけでは終わらない。
邪なる者を撃つ《聖化》、致命の一撃を繰り出す《鋭刃》、身動きを封じる《繋止》。
さらに、悪魔に対する《絶種》。
ヴァルトルーデがの選択した魔化が、悪魔――犀の悪魔ソウグジアムスの戦闘力を確実に奪う。
「ヌッッウオオオォォゥンッッ」
しかし、まさに超人的な耐久力を誇る犀の悪魔は止まらない。どうせ動けないのならばと、さらに戦斧へ力を伝える。
それくらい、ヴァルトルーデも分かっていた。
一撃では決着しないだろうと、もうひとつ魔化を施している。
《両断》。
熾天騎剣を振り抜いた聖堂騎士は、そのまま逆手で再度強振する。そのヴァルトルーデの胴よりも太い、犀の悪魔ソウグジアムスの首へと。
白き一閃。
絶対的な一撃がトリガーとなり、《両断》の特性が牙をむいた。まるで木を切り倒したかのようにゆっくりと、首と体がずれていく。
「やはり、この剣は素晴らしいな」
刃こぼれはおろか血糊も付いていない新たな愛刀を眺めやる。次いで犀の悪魔がどうと倒れ伏す様を確認し――すぐに、その存在を忘却した。
それも仕方がない。
巨体が塞いでいた視界が開け、外の様子が目に入る。アレーナが言ったとおり、外はファルヴではなかった。
瘴気の混じった風が吹き、大地は鋼のように冷たく硬く、太陽が照らすことはない。
「やはり、ここは奈落か」
今日を無事に過ごせば問題は解決するだろう。
しかし、それを実現するのはかなり困難のように思われた。
私事で恐縮ですが、うちの犬の具合が悪いので明日の更新ができない可能性があります。
申し訳ありませんが、何卒お願いいたします。




