2.その前日(前)
「くっはは。ここが例の街か」
領主の結婚という一大イベントを前に湧くファルヴの街を、祝賀ムードとは一線を画した女剣士が無遠慮に眺めやった。
まるで、獲物を品定めしているかのような視線だ。
当日はある程度制限されることが発表されているが、現在のファルヴは人の流入が止まらない。それまでにヘレノニア神が下賜した城塞や芸術神の劇場を一目見ておきたいと、集まった人々が方々から押し寄せており、増員された門衛――城壁はないが――も、職務に忙殺されている。
城壁がないからと勝手に侵入しようとする不心得者は、もういない。
一様に、興奮を隠せない人々。
彼女も、興奮はしている。
しかし、野生の獣のような瞳はファルヴの城塞へと向けているが、顔の半分を漆黒のマスクで覆った女武芸者の目的は違った。
血に飢え、血が沸き立つような戦に飢えている。
「そろそろ、収穫の時間だよなぁ」
炎のような赤毛を揺らし、行列を堂々と無視して街の中へと足を踏み入れる。門衛も誰も、その勝手な行動を止めようとはしない。
否、視界にすら入っていないようだ。
そして、邪悪なるものを拒む《悪相排斥の防壁》も素通りした。神々の降臨により強化された結界を。
銀の粉末で描かれた境界線。悪を拒絶するそれを一歩越えたところで、赤毛の女武芸者は両腕を広げた。
なにかを得ようとするかのように。
自らをさらけ出そうとするかのように。
「楽しい楽しい宴にしようぜ」
血湧き肉躍る闘争を夢想し、仮面の下の口が大きく歪んだ。
「先ほど、神王陛下が宿舎に入られました」
「ありがとう。これで、《不可視の邸宅》に泊まってもらう人は全員だな」
イスタス侯爵家を支えるクロード・レイカーの報告を聞いたユウトは、自作のチェックシートを睨みながら、進捗を確認する。
順調だ。順調に、理想のスケジュールから現実へと近付いている。
それでも、バランスを崩しながらもなんとか綱渡りを終えることができそうだ。
本来であればユウト自ら動き回ったほうが仕事は進むのだが、それをやると全体を把握する人間がいなくなってしまう。
ゆえに、花嫁であるヴァルトルーデまでも、参列客の出迎えや挨拶に駆り出されている状態だ。神王にドゥコマースの秘奥を返却するのは、一段落してからになるだろう。
せっかく、身分の高い人々が集まっているのだ。ユウトたち抜きで外交をしていてもらいたい。
また、本来であれば、ヴァルトルーデは潔斎のためヘレノニア神殿に籠もらなければならないのだが、夜からにずれ込んでしまいそうだ。
つまり、当日まで会えそうにない。
花嫁とのコミュニケーションが不足している。理不尽だ。
結婚式の準備期間が二ヶ月あったとはいえ、それで充分とは口が裂けても言えなかった。
ハーデントゥルム近海で使用した《島嶼隆起》で島をひとつ作りだし、続けて《浮遊島》でファルヴ郊外まで移動させる。
別に狙ったわけではないのだが、浮上させた島の一部に危険な岩礁地帯が含まれていたようで、喜ばれてしまった。
さらに、クロニカ神王国の租借地での予行演習だとばかりに《奔流》で水場を作り、ファルヴと同様の上下水道システムを構築した。
高台から貴婦人川に流れる水の流れは、幻想的な雰囲気を醸し出している。
ここまでは奇跡のような手並みだったが、さすがに住居は準備できない。そのため、大量の天幕を用意するに留まったが、結婚式のあとには非常用ということで備蓄に回すことにした。
食料も、巡礼者自身が持ち込んだ保存食のほか、ここぞとばかりに領内のみならず王都セジュールやクロニカ神王国からも商人たちが運んできた物資で需要を満たすことができた。
また、島へと続く石の階段も呪文で生み出したものであり、巡礼者のみならず、ファルヴを訪れた近隣諸国の王侯貴族たちの度肝を抜いた。
もっとも、彼らの驚愕はそれに留まらない。
第七階梯の理術呪文《不可視の邸宅》は、百人以上の人間を数日に亘って歓待することが可能だ。快適な室温、柔らかなベッド、広い風呂、落ち着いた調度、豪華な食事。王宮で過ごすのと同じ、いや、それ以上。
豪華すぎる? 知ったことではない。
とはいえ、さすがになにもない空間に木の扉が浮いているのは不気味だ。そのため、周囲に張りぼての住居を追加している。
突貫工事を請け負ってくれたトルデクが率いるドワーフの職人たちには、頭が上がらない。
こうしてユウトが受け入れ態勢を整えたあと、その他の細かい調整や治安維持など現場の仕事はクロード老とその部下に任せた。
純粋に手が回らないというのもあるし、自分の結婚式なのになんで他人の快適な生活を支えなければならないのかと疑問に駆られたからというのもある。
式や披露宴の準備もアルシアやアカネにお願いしたし、ラーシアにエグザイルは今も忙しく方々を飛び回っている。
なお、ヨナは大人しくしているのが仕事だ。
「とりあえず、これで一段落かな?」
「はい。一息というところでしょう」
さしものクロード老も安心したように笑顔を見せる。
前日の昼になっても進捗状況の確認をし、トラブル解決の指示を出しているというこの現状。それでもなんとか目処は立った。
結婚式の前におかしな達成感を抱いてしまいそうだが、実は、まだ問題が残っている。
「それで、例の件はどうなってます?」
「今のところ、報告は上がっておりません。しかし、金髪の少年とその妹のような少女に、厳つい男を探せとは……」
「目撃情報さえあれば、それで良かったんだけど……」
杞憂であれば良い。
だが、あの知識神ゼラスやあの死と魔術の女神トラス=シンクが分神体を降臨させないとはどうしても思えなかった。
そのため、外見特徴を伝えて些細な情報でもいいから集めようとしていたのだが、上手くいかない。今回も、認識阻害がかかっているのだろうか。
これは、自分で探しに行くしかないか。
休む暇どころか、わざわざ来てくれた両親ともほとんど話せていない。もちろん、愛犬とのふれあいも最小限に留まっている。
それでも、放置はできない。不安すぎる。
「悪質だ……」
天を仰ぎ、ユウトはうめき声を上げた。
世界で最も有名な賢者といえば、大賢者ヴァイナマリネンだ。
その実態を知るユウトは、なにが賢者だと言うだろうが、その知識量に貪欲とも言える知識欲は大賢者と称するに相応しい。
だが、最も有名なということは、彼以外にも賢者と呼ばれる人間が存在することを示してもいる。
今、ファルヴの各所を巡ろうとしている異国の賢者フォーサーもその一人だ。
ロートシルト王国の東――ちょうど、ヴェルガ帝国を挟んだ位置――に存在するフリミール公国。その名もない農村に隠棲していた彼は、齢80を超え最後の機会だとこのファルヴを一人訪れていた。
「城壁を作らぬとは、随分と思い切ったものだのう……」
片手で杖を突き、もう片方の手は胸元まである白いあごひげを扱きながら、感嘆の声を上げる。
まだ、長い行列を並び終えて街に入ったばかり。しかし、その一歩目で他とは違う特異性に目を見張った。
そんな老賢人を、他の人間はどんどん追い越していく。
「だけど、それは目立つけれど表層でしかない。そうだよね?」
いつの間に、いや、いつからそこにいたのか。
気品すら感じさせる金髪の少年が、無邪気で楽しそうな笑顔を浮かべて老賢人を見上げた。
「そうじゃな。城壁という寄る辺なくとも、住民はなんら不安を感じてはおらぬ様子。それを可能にするのは、領主らへの絶対的な安心感じゃろう」
「そうさせるだけの、実績を積んでいるからだね?」
そうじゃとうなずきつつ、この子供はいったい誰だろうかと賢者フォーサーは疑問を抱く。しかし、それも一瞬。楽しげに議論を続けてしまう。
「いかにも。政治の成功じゃな。さらに、この馬車鉄道という外への奇抜で便利な交通手段。それが、城壁のないこの街の解放感を醸成しておる」
そして、発展途上の熱気。
この若い街は、進取性に富み、そのうえ、快適だ。
「何度来ても思うよ、この街ぐらい清潔な街が増えれば良いのにってね」
「それは難しいじゃろうなぁ」
「なぜだい?」
「金がないからじゃ」
フォーサーはゆるゆると移動しながら、傍らの子供との会話を楽しむ。口を動かし脳を活性化させることで、自分でも予想していなかった言葉が出てくる。
もう、金髪の少年の正体など気にもならない。
「魔法具を使用して汚水を浄化しているという噂は聞いておるがのう。今までの処理方法でも為政者はさほど困っておらぬ。そこに金をかけて下水まで整備する必要性は見いださないじゃろうな」
「でも、病気は減るし、快適に過ごせるんじゃない?」
「費用対効果というやつじゃな。嘆かわしいことじゃが」
「残念だ」
資産も資源も有限。
誰もが、理想の街を作れるとは限らない。
「ところで、あの島はどう思う?」
「どう解釈して良いのか分からんわ」
フォーサーは苦い笑いを浮かべて、遠くに見える地上の島を眺めやる。
「そうせねばならなかった理由も、どんな亜神級呪文で実現したのかも分かるがの……」
「でも、実行する精神が分からない?」
「まさにまさに。そこなのじゃよ」
巡礼者を受け入れざるを得ない。
そうなったら、街の外の一角を開放するのが精々だ。天幕も食料も水も自ら用意すべきもの。治安低下が心配なら、隔離でもなんでもすれば良い。
だが、イスタス侯爵はそうしなかった。
確かに隔離しているとも言えるが、天幕も食料も用意し、衛生環境にまで気を使っている。
ありえない。
発想が違う。
それは、馬車鉄道もそうだし、夜になると周囲を照らすという街灯もそうだ。
ヘレノニア神の城塞がある。リィヤ神の劇場がある。不敬だが、それは些末事。
特異な発想とそれを実現する呪文と資金力。それこそが、この街の真骨頂。奇跡の街の真の姿だ。
「うん。まったくその通り!」
賢者フォーサーの卓見を、傍らの少年が称賛する。まさに、我が意を得たりだ。
「ほっほ。長生きはするものじゃが……はて」
議論が一段落したところで、改めて傍らの少年が気になった。
彼に、既視感がある。
実際に見たことがあるわけではない。会うのも言葉を交わすのも初めてだ。それは間違いない。
けれど……。
老賢人が記憶を掘り起こそうとしたところ、白いローブに見慣れない服を着た少年が息せき切って走り込んできた。
「やっと、見つけたっ」
「残念。ここまでか」
二人は兄弟だろうか? そう言うほど心残りは感じていないようで、いたずらが見つかった子供のような笑みを見せる。
「この忙しいときに、勘弁していただきたいんですが」
「それならば、放っておくという選択もあったのではないかな?」
「ほんと、勘弁してください……」
そんなことできるはずがないと、口ではなく目で言ってユウトは丁重に、しかし有無を言わせず知識神の分神体を連行した。
「賢者フォーサー、短い間ではあったが楽しかったぞ」
「あっ、あなたは。いえ、あなた様は……」
ようやく霞がかっていたかのような認識がクリアになり、ひとつの答えにたどり着く。
しかし、それを口に出す前に、金髪の少年は口の前に人差し指を立てて微笑みかける。
老賢人はその場に佇み、彼が敬愛する知識神を見送ることしかできなかった。




